スイミー作者レオ・レオニが伝えたかったことと不登校の共通点-孤独は自分を見いだせる一つの手がかり
スイミー作者レオ・レオニが伝えたかったことと不登校の共通点-孤独は自分を見いだせる一つの手がかり

スイミー作者レオ・レオニが伝えたかったことと不登校の共通点-孤独は自分を見いだせる一つの手がかり

スイミー作者レオ・レオニが伝えたかったことと不登校の共通点-孤独は自分を見いだせる一つの手がかり ちいさな赤い魚の兄弟たちのなかで、1匹だけ真っ黒の魚の「スイミー」 大きなマグロがやって来て、兄弟の魚たちを飲み込んでしまいます。逃げられたのはスイミーだけ。

ちいさな赤い魚の兄弟たちのなかで、1匹だけ真っ黒の魚の「スイミー」 大きなマグロがやって来て、兄弟の魚たちを飲み込んでしまいます。逃げられたのはスイミーだけ。 けれど、海の中にはくらげやいせえび、いそぎんちゃくなどいろんな生き物がいます。そんな中見つけた、スイミーにそっくりな小さな赤い魚たちに「遊ぼう」って誘っても「大きな魚に食べられるから」と岩陰から出て来ません。 スイミーは考えて・・・皆で大きな魚のふりをして泳ごうとみんなを誘います。赤い魚たちの中でスイミーは目になって、みんなで力を合わせ大きな魚を追い出しました。

出典:Ehon navi

『スイミー』で語り伝えたかったこと/『絵本のよろこび』より

[box title=”松居 直さん” type=”simple”]

絵本のよろこび』で松居 直さんは、 『スイミー』は 単にみんなで力を合わせれば怖いものなし、といった教訓的な話ではなく、作者のレオ・レオニさんが最も語り伝えたかったこと を語られています。

この絵本は、単にみんなで力を合わせれば怖いものなし、といった教訓的な話ではありません。

(中略)

作者が最も語り伝えたかったのは、ひとりになったスイミーが海の中を泳いでいたときなのです。最後の、みんなで力を合わせて、大きな魚を追い出しましたという部分が主題ではなく、それは物語の結果にすぎません。

スイミーはもとから海の中で暮らしていたにもかかわらず、 ひとりぼっちになるまでは、 自分の生活の場である海という世界がどういうところか、 その世界のなかで自分がどういう存在であるのかも、 気づいてはいなかったのです。 現代の私たちも、 このスイミーと同じではないでしょうか。 スイミーはひとりぼっちになってはじめて、 海という世界がどうなっているのかを自分の眼で観察し、 どんなに珍しくおもしろいものが生きているのか、 またどんなに美しい世界なのかに気づき、 そのなかで自分という存在そのものに気づいてゆきます。 つまり自分とは何かを意識し、 自己認識を深めてゆきます。 孤独も自分を見いだす一つの手がかりなのです。

引用:『絵本のよろこび』p.106 – 109

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絵本を読むときのコツと、絵本の読み方と、教科書に載せる不本意

この絵本は、単にみんなで力を合わせれば怖いものなし、といった教訓的な話ではありません。作者がこの絵本で語りたかったテーマを知るには、絵本の場面を、初めから終わりまで一場面ずつ順を追って丁寧に読みとり、絵本全体の構成のなかで、その展開を踏まえて作者の意図を読みとくことが肝要です。物語のテキスト (文章) を読むだけでなく、そのイラストが語る意味を画面のなかで隅々までしっかりと読みとらなければ、作者の思想はわかりません。つまり総合芸術としての絵本が表現している全体を、読みとることが大切なのです。

引用:『絵本のよろこび』p.106

絵本を読むときのコツは、絵の細部を特に注意深く読むことができるか否かです。

つぎに絵本はたくさんの場面によって全体が構成されますが、作者や画家が物語のどこにいちばん多くの場面を費やし、特に力を入れ、工夫して絵を描いているかを見極めることです。画家はいちばん強く語りかけたいところに、多くの場面を割く傾向がみられます。この『スイミー』でいちばん多く画面が使われているところは、仲間を失ったスイミーが、ひとりぽっちになって海の中を泳いでいるところです。全編の十四場面中七場面にもわたり、しかもよく見ると場面ごとに別々の絵画技法を使い、力のこめた造形表現をしています。絵画的にはここがクライマックスで、作者が最も語り伝えたかったのは、ひとりになったスイミーが海の中を泳いでいたときなのです。最後の、みんなで力を合わせて、大きな魚を追い出しましたという部分が主題ではなく、それは物語の結果にすぎません。

引用:『絵本のよろこび』p.108 – 109

レオニはテキスト (文章) と視覚言語 (イラストレーション) 、そして考え方 (思考など) の三つの要素がピタッと一致したときに、最高のデザインができると語っていますが、これは絵本にもあてはまります。したがって絵本『スイミー』を、考え方も機能もまったく違う教科書の一部に取り込むことは、このバランスを壊してしまうことで、物語とその思想とを読者に伝えることが不可能になります。

引用:『絵本のよろこび』p.112

絵本のよろこび』では、引用部分以外にも、『スイミー』の内容と表現の真相、また、レオニの思想が表されている重要な個所と、レオニが経験から学んだ哲学などなどが書かれています。

レオ・レオ二が語るスイミー/『子どもの館』より

『子どもの館』 (福音館書店) の1976年6月号には、レオ・レオ二のインタビューが載っています。

※ 『子どもの館』は、古本屋さんのほか、大きな図書館や大学図書館等に置いてあったりします。

インタビューで「私にとっては、己れとは何者かを知ることが、もっとも根本的問題です」と述べるレオ・レオ二さんは、スイミーについてこう語ります。 (きき手:M・ラマツォッティ/訳:掛川恭子)

(前略)兄さんや姉さんはマグロにのみこまれてしまうけれど、スイミーはその惨事の中でも生きのこります。苦しんだが故に、スイミーはじょじょに人生の美しさに気がつくようになります。このところは私にとっては、とても重要なことなのです。スイミーははじめは淋しがっていますが、やがて人生を詩的なものとしてながめるようになったことから、生命力と熱意をとりもどし、ついには岩かげにかくれていた小さな魚の群れを見つけだします。それがあんまりうれしかったので、スイミーは、「でておいでよ、お日さまの下をおよごうよ」とさそいますが、小さな魚たちは、「だめだよ、あぶなくって」と反対します。スイミーはなおも、「このままじっとしているわけにはいかないよ。あぶないからって、いつもびくびくしてるわけにはいかないじゃないか。なにかいい方法を考えなくちゃ」といいます。

これは純然たる “政治的” な本ですよ。スイミーは考えて考えて、ついに解答を得ます。「大きな魚みたいに、かたまっておよげばいい。そうすれば、大きな魚をおいはらえるさ」そういうと、スイミーは大きな魚の目になって……

———スイミーがインテリだからですか。

レオニ そのとおりです。仲間の魚にかわってものを見る。それがスイミーの役割なのです。他の魚よりもからだが大きいわけではないし、目になったからといって、特に偉くなったわけでもない。ここには階級はないのです。

(中略)

さきほど、自己認識のことをもちだされましたね。おっしゃるとおり、私の本の中の何冊かは、この自己認識の問題を、ちがう角度からとりあげたものです。『あおくんときいろちゃん』は自己認識の物語です。ここでもまた苦しみをとおして、他人との衝突によって、自己の認識へといたります。

人間というものは、他人に理解してもらうことももちろん大切ですが、同時にほんとうの自分は何者かを知っていることも大切です。(後略)

引用:『子どもの館 1976年6月号』p.45 – 46

孤独の経験を味わうことで、己れとは何者かを知る

己れとは何者かを知ることが最も大事だと述べるレオ・レオニさんも、そして松居 直さんも、「孤独」 になるという苦しみの経験を味わうことで、 周りのことに気づき、 自らも知るんだ、といいます。

姿勢はちがうけれど、同一問題の象徴の『スイミー』と『フレデリック』 (ともにレオ・レオニ作) は、みんなの上に立つ人は、力が強いからじゃない。他の人とちがう資質をもっているからなんだ と述べられてもいるんですね。

また、「『あおくんときいろちゃん』は完全といっていいくらいフロイト的な本」で、「『スイミー』はマルクス主義的背景を多少におわせているかもしれない」とも語られています。

不登校は「なる」ものではなく、不登校は「する」もの

「うちの子が不登校になってしまって…」とか、

「こどもがカクカクシカジカで学校に 行けなく なって、このままでは不登校になってしまう」とか。

だから、「 (うちの子、ゲームやYouTubeばっかりで) 不登校で一日中なにもしないんです」になる。

不登校は「なる」ものではなく、「する」もの なんですよね。

不登校に「なった」んではなく、不登校を「している」んです。

一日中、不登校をしているんです。「学校」から脱けだして、「地球が がっこう (しゃかい) 」を泳ぎはじめたのです。

松居 直さんが書かれていた「絵本を読むときのコツは、絵の細部を特に注意深く読むことができるか否かです」は、子育ちを見守るときのコツとおなじですよね。

子育ちを見守るときのコツは、こどもの細部を特に注意深く読むことができるか否かです。

『スイミー』全編の十四場面中、七場面にもわたり描かれている “仲間を失い、ひとりになったスイミーが海の中を泳いでいる” 場面。

子どもを見守るとは、「個」をまもること

ところが、「孤独」を味わうことを経験してきていない (経験させてもらえなかった) ために、“仲間を失い、ひとりになったスイミーが海の中を泳いでいる” 場面に怖れを抱く親は、

スイミーがひとりぽっちになるや、岩かげに隠れているたくさんの赤い魚がいる19・20頁 (十場面) へ、こどもを連れていこうとしてしまいます。

レオ・レオニは、そうじゃないってことを、『スイミー』で教えてくれている。

「孤独」になるという苦しみの経験を味わうことで、 「わたし」に逢う こと、 「わたし」になる ことを教えてくれている。

「子 (己) 育て」は、「子 (己) 育ち」で、つまりは「 個育ち 」なんです。

わたしも AI-am をはじめる前、5年ほどひきこもっていました (部屋や家にひきこもるのではなく、見た目はふつうに働いている) が、パートナーもこどもたちも、だれもジャマしないでいてくれたので、

にじいろの ゼリーのような くらげ……

すいちゅうブルドーザーみたいな いせえび……

ドロップみたいな いわから はえてる, こんぶや わかめの はやし……

うなぎ。かおを みる ころには, しっぽを わすれてるほど ながい……

そして, かぜに ゆれる ももいろの やしのきみたいな いそぎんちゃく。

「孤独」のなかから見えてくるもの。それがわたしのよく言う 「不登校はギフト」 だ、ってことです。

苦しんだその経験が、「自分で決心する」を生む

わたしたち読者は、スイミーが 「そうだ!」 と言って、 みんなに泳ぎ方を教えて、 「ぼくが, めに なろう」 と言う場面に感動します。

スイミーはもとから海の中で暮らしていたにもかかわらず、 ひとりぼっちになるまでは、 自分の生活の場である海という世界がどういうところか、 その世界のなかで自分がどういう存在であるのかも、 気づいてはいなかったのです。 現代の私たちも、 このスイミーと同じではないでしょうか。 スイミーはひとりぼっちになってはじめて、 海という世界がどうなっているのかを自分の眼で観察し、 どんなに珍しくおもしろいものが生きているのか、 またどんなに美しい世界なのかに気づき、 そのなかで自分という存在そのものに気づいてゆきます。 つまり自分とは何かを意識し、 自己認識を深めてゆきます。 孤独も自分を見いだす一つの手がかりなのです。

引用:『絵本のよろこび』p.109

苦しんだが故に、 スイミーはじょじょに人生の美しさに気がつくようになります。 このところは私にとっては、 とても重要なことなのです。 スイミーははじめは淋しがっていますが、 やがて人生を詩的なものとしてながめるようになったことから、 生命力と熱意をとりもどし、 ついには岩かげにかくれていた小さな魚の群れを見つけだします。

引用:『子どもの館 1976年6月号』p.46

「孤独」であるそのときは (あるいは、 最初は) 、 悲しく、辛い時間になるけれど、苦しんだその経験が、 自由意志のもと、「自分で決心する」を生む のです。

この記事を書くにあたり、ここでご紹介した本とともに、是枝裕和監督の映画『万引き家族』も観返したりしていました。

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よっぴー(吉田 晃子)ドラマを見るようにこどもの育ちをみてきた、骨のズイまでゴキゲンなひと。1962年生まれ、2児の母。デモクラティックスクール(サドベリースクール)のスタッフを経て、星山とともにAI-am設立。

星山 海琳(まりん)デモクラティックスクール育ちの、文と写真をつくるひと。1996年生まれ。小・中・高へ通わず、一切の勉強もしてきませんでした。17歳のとき、2ヶ月半で高卒認定試験に合格し、現役で大学へ入学。