白河上皇の熊野御幸
白河上皇の熊野御幸

白河上皇の熊野御幸

熊野に関連する神話、伝説、民話などをご紹介

藤原氏の血を引く第1皇子の親仁親王が当然、後朱雀天皇譲位後、即位。これが後冷泉天皇です。 しかし、後朱雀天皇は聡明な尊仁親王を愛し、親仁親王に位を譲るとき、弟の尊仁親王を皇太子にし、次の天皇の位は弟の譲るということを条件としました。藤原摂関家はこれをしぶしぶながらも認めます。たとえ尊仁親王が皇太子になっても、後冷泉天皇に子が産まれれば、いくらでも理由を付けて尊仁親王を廃太子にできるとの目論見があったのでしょう。実際、藤原氏には天皇や皇太子を廃位にもできるほどの権力がありました。 藤原頼通・教通はそれぞれ自分の娘を後冷泉天皇に嫁がせ、皇子の誕生を待ちます。しかし、一人の子もできないまま、後冷泉天皇は崩御。 ついに、藤原氏と外戚関係をもたない尊仁親王が即位してしまいます。

天皇として14年間在位した後に1086年、8歳の善仁(たるひと)親王(堀河天皇)に譲位、自ら上皇(院)となって、天皇の庇護者として政治を後見する「院政」という新しい政治制度を開始しました。1107 年に堀河天皇が亡くなりますが、4歳の孫・宗仁親王(鳥羽天皇)を即位させ、院政を続けます。さらに1123年、成人して扱いにくくなった鳥羽天皇を退位させて5歳のひ孫・顕仁親王(崇徳天皇)を即位させ 、引き続き、白河上皇が院政を続けます。

それゆえ、熊野「御幸」も可能だったのです。自由な行動を許された上皇だからこそ、熊野を参詣することができたのです。 天皇が熊野を参詣したことはありません。熊野「行幸」はこれまで1度もなされたことがありません。 あったのは熊野「御幸」のみ。熊野参詣は、権力と富と自由を手に入れた上皇だったからこそ、可能だったのです。

特筆すべき白河院の1回目の熊野御幸

検校(けんぎょう)とは社寺の総務を統括する役職のことで、つまり、熊野三山検校とは熊野三山を統括する最高位の役職です。 ただし、熊野三山検校に任じられたといっても、増誉は実際に熊野の地に赴任することはなく、多分に名誉職的な役職でした。増誉以降、園城寺か聖護院(増誉が熊野御幸の功により開いた寺)の僧が熊野三山検校に任じられることが慣例となりましたが、いずれも、熊野に赴任することなく、熊野御幸の折に先達をつとめる程度であったようです。 形式的な役職とはいえ、熊野三山検校という役職が正式に作られたことにより、僻地にあり、それまで都から独立していた感のある熊野三山が中央との結びつきを得ることができたものと考えられます。

璋子 熊野の巫女の預言 上皇・女院の熊野御幸の回数

2000.7 UP 2002.3.30 更新 2002.10.1 更新 2004.10.28 更新 2019.11.2 更新

参考文献
  • 梅原猛『日本の原郷 熊野』新潮社
  • 監修・神坂次郎『熊野古道を歩く 熊野詣』 講談社カルチャーブックス
  • 高野澄『熊野三山・七つの謎』 祥伝社
  • 新日本古典文学体系『保元物語 平治物語 承久記』 岩波書店
  • 本宮町史編さん委員会『本宮町史 通史編』本宮町