高尾山の歴史 〜開山から現代まで
高尾山の歴史 〜開山から現代まで 昔から戦においては武士が寺社に戦勝を祈願しますが、後北条氏も薬王院を祈祷所としています。 1560(永禄3)年、北条氏康が高尾山の薬師堂の修復料として土地を寄進する寺領寄進状が残されています。
昔から戦においては武士が寺社に戦勝を祈願しますが、後北条氏も薬王院を祈祷所としています。 1560(永禄3)年、北条氏康が高尾山の薬師堂の修復料として土地を寄進する寺領寄進状が残されています。 この年に後北条氏は越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)の攻撃を受けますが、寄進状には「絶え間なく本意勤行し本意祈念するように」とあり、強敵を迎え撃つ後北条氏が戦勝祈願してる様子が窺えます。 この寄進状は高尾山の様子をリアルタイムに伝える最も古い古文書とされています。
結局このとき後北条氏はなんとか越後軍を退けますが、以後、後北条氏の高尾山への帰依は一層厚くなります。 氏康の三男、北条氏照は滝山城を本拠として多摩地域の平定を行いますが、高尾山へ土地を寄進しています。 高尾山内の竹木伐採を禁じる印判状や、御開帳に訪れる参詣者に押買狼藉を禁じる制札も残されていて、高尾山と薬王院を保護していることが窺えます。
江戸時代
苦難の時代 寛永年間の再興鐘もなくなった薬王院では、鐘の鋳造を目的とする勧進(寄付を募ること)が行われました。 それまでの不遇に比べ勧進は順調にすすみ、半年ほどで鋳造は実現しています。 鐘の銘によると、檀徒が一致協力し高尾山を再興させたようで、急速に寺勢を盛り返していきます。
同じ寛永年間にお堂の再建もすすみます。 現在本堂が建つ場所には、その昔、3つのお堂が並んでいました。 中央には薬師堂、左に護摩堂、右が大日堂。これらも鐘の鋳造と同じ時期に建てられたと推定されています。 ちなみに薬師堂は高尾駅近くにある「大光寺」の本堂として明治時代に移築され、護摩堂は現在の奥之院として場所を移して残されています。 大日堂はこの当時の建築ではないですが、現在は大師堂として本堂横に移されています。
幕府との関係高尾山主(薬王院貫首)は将軍へ拝謁するため、度々江戸城に赴いていたようです。 用件は将軍代替わりのときの挨拶や正月の年頭御礼などでした。 非常に重要な務めであったようで、薬王院文書には手続きや旅程を細かく記した冊子が残されています。
江戸時代中後期
薬師如来と飯縄大権現のご利益1729(享保14)年には現存の飯綱権現堂が建立され、飯縄大権現が薬師如来と並び高尾山の本尊としてクローズアップされるようになります。 飯縄大権現は不動明王の変化身ですが、この時期、江戸で不動信仰が人気だったことがその一因とも考えられています。 本所、湯島、新宿、両国で、飯縄大権現の出開帳(他の場所に出かけて寺社の秘仏を開帳すること)が行われた記録が残っています。 飯縄大権現には悪魔降伏の利益があり、科学の発達していない時代では病気などの災厄は疫病神や悪魔の仕業と考えられていました。薬師如来同様、飯縄大権現も病気平癒のご利益があるとされていました。
講と薬王院江戸時代には庶民の富士山に対する信仰が盛んになりました。 「講」は参詣を目的としたグループですが、有名なものに富士山へ参詣登山するための「富士講」があります。 「富士講」が富士参詣の途中で高尾山に参籠する記録が多く残っています。 当時は関所があったり費用もかかるので、代表者だけが富士山まで行き、他の者は途中の高尾山までという形式が一般的だったようです。 富士山と高尾山の両方を信仰する「両山講」も盛んでした。
「富士講」以外にも講は多くあり、講と薬王院の関わりは深く、奉納や寄進が多く行われていました。 今でも高尾山では講が残した石碑を多く見ることができます。 江戸時代に高尾山発展に尽くした「足袋屋清八」という人物がいます。 多くの道標建立や五重塔再建などに関与した清八も講の先達でした。
明治時代
神仏分離令明治政府は神道国教化のため、1868(明治元)年に「神仏分離令」を発しました。 それまでの日本では神社と仏教は厳密に分けられず神仏習合というかたちが一般的でしたが、これを明確に分けることが求められました。 廃仏毀釈の流れで仏教を廃止するところが多かった中、薬王院は仏教寺院としての道を選びます。 当時高尾山のふもとには、現在の1号路入口に「一之鳥居」と呼ばれる大きな鳥居がありましたが、神社色を払拭するため鳥居を壊しています。飯縄権現堂(本社)の前にも「二之鳥居」がありましたが、同じく壊されています。(本社前の鳥居は後に再建。当時の鳥居は階段の下にあり、現在階段の上にある鳥居とは場所が変わっています。) また、「権現」号が神仏不分明ということで禁止されたため、飯縄大権現は便宜上「飯縄不動」と呼び名を変えることになります。
その他の出来事1880(明治13)年に、明治天皇が甲州巡幸の際に、小仏峠を通り休憩しました。 馬車は通れないので、輿(こし)に乗り換えて峠を越えたようです。 これを記念して小仏峠には「明治天皇小佛峠御小休所阯及御野立所」の碑が作られています。
1889(明治22)年には、高尾山全域が帝室御料林となりました。 明治時代になり、江戸時代の大名の山林は国有林に、徳川家の山林は御料林となりました。 高尾山は将軍から朱印地として領地を認可されていたので、そのまま御料林になったかたちです。 御料林は宮内省が管理し、今の「多摩森林科学園」と多摩陵の一部もその範囲に含みました。
大正・昭和
「多摩陵」の造営大正天皇が崩御されると、高尾山の近くに「多摩陵」(大正天皇の墓地)が造営されました。 1927(昭和2)年から一般の参拝が許されるようになると、全国各地から参拝客が訪れるようになり、近くにあった高尾山にも多くの人が訪れるようになりました。 ちょうど同じ年の1927(昭和2)年に高尾山ではケーブルカーが開業します。 多摩陵と高尾山を組み合わせて観光する客も増え、観光名所となりました。 ケーブルカーは薬王院貫首の発案により大正中期より計画が進められ、1925(大正14)年に着工し、1927(昭和2)年に開業しました。
1930(昭和5)年に出版された『京王電車 沿線名所図絵』。当時の高尾山周辺の交通の様子がわかる。京王線も御陵線だった。『京都府立京都学・歴彩館 京の記憶アーカイブ』より。
観光開発 自然公園に指定- 1950(昭和25)年 都立高尾山自然公園に指定される
- 1966(昭和41)年 都立高尾陣場自然公園へ名称変更、区域変更
- 1966(昭和41)年 日本初のオリエンテーリング大会が高尾山で開催
- 1966(昭和41)年 東京都高尾自然科学博物館が開館(2004(平成16)年に廃館)
- 1967(昭和42)年 明治の森高尾国定公園に指定される
- 1969(昭和44)年 高尾ビジターセンター開設(日本で初めて解説員が常駐するビジターセンター)
ふもとでは昭和30年代に、国民宿舎やユースホステルといった宿泊施設が開業しています。 「国民宿舎高尾山荘」は、1960(昭和35)年に開業し、1998(平成10)年に閉業。 ふもとの1号路沿いにありました。 「高尾ユースホステル」は、1964(昭和39)年の東京オリンピック時に選手村として自転車競技の選手が宿泊する施設として建てられます。その後30年ほどユースホステルとして利用され、1997(平成9)年に閉館。 現在の林野庁「高尾森林ふれあい推進センター」の場所にありました。
平成・令和
2012(平成24)年には、圏央道の八王子JCT〜高尾山IC間が開通。 高尾山には圏央道のトンネルが貫通していて、位置としては裏高尾の蛇滝口付近と南高尾の梅の木平付近を貫いています。 開通までには28年に渡る反対運動がありました。
八王子市は2012(平成24)年から高尾山口駅を含むふもとの整備を計画し、2015(平成27)年に、「高尾山口駅」が建築家 隈研吾氏のデザインでリニューアルされ、同年、東京都高尾自然科学博物館の跡地に「TAKAO599MUSEUM」もオープンします。 この年に、現在お馴染みのふもとのランドマークが完成しました。
2020(令和2)年になると、「霊気満山 高尾山 ~人々の祈りが紡ぐ桑都物語~」という高尾山と桑都八王子、後北条氏の八王子城・滝山城で構成したストーリーで日本遺産に認定されます。
参考文献
- 「高尾山薬王院の歴史」外山徹 著
- 「高尾山報」高尾山薬王院 発行
- 「浅草と高尾山の不思議」川副秀樹 著
最新情報
高尾山稲荷山コース通行止め・6号路登り一方通行の措置が延長されています 高尾山修験道の一大イベント、高尾山薬王院の「火渡り祭」が3/9に開催。高く燃え上がる炎は圧巻 裏高尾で「高尾梅郷梅まつり」が3/8・9に開催! 梅林をめぐるスタンプハイクも実施 【工期延長】高尾山稲荷山コースが2/19から通行止めに(危険木伐採のため) 「高尾山ふもと公園」の公園案内・トークイベントが2/23に開催© Mt. Takao Magazine. All rights reserved