梶原景時終焉の地(静岡・梶原山公園)~アクセス方法や駐車場までの注意点など
梶原景時終焉の地鎌倉時代の1199年、源頼朝の死後から1年もたたないうちに、梶原景時の変で失脚した梶原景時は、和田義盛、三浦義村から鎌倉を追放されます。
鎌倉 時代の1199年、 源頼朝 の死後から1年もたたないうちに、梶原景時の変で失脚した梶原景時は、 和田義盛 、 三浦義村 から鎌倉を追放されます。 そのため、梶原景時は嫡男・ 梶原景季 ら梶原一族にて京に上り朝廷に訴えて、武田有義を将軍に奉じて反乱しようと考えたようで、1200年1月20日、相模・一宮館から上洛を開始しました。 しかし、 北条義時 は追っ手を差し向けており、駿河国清見関(静岡市清水区)の東海道にて梶原景時らは補足されたようです。
相模・ 富士塚城 の 飯田家義 、廬原小次郎、工藤八郎、工藤六郎、渋川朝貞(渋川次郎)、矢部為定(矢部平次為定)、矢部小次郎、船越三郎、大内小次郎、三沢小次郎、吉川友兼から襲撃を受けると、狐崎にて 合戦 となり子の梶原景茂・梶原景国・ 梶原景宗 ・梶原景則・梶原景連らが揃って討死。 北条九代記によると、梶原景時と嫡子・梶原景季(39歳)は、次男・梶原景高(36歳)と共に背後の山へと登りましたが自害したとされます。
戦後は、梶原景時と盟友だった 加藤景廉 も領地没収となっています。 駿河国安倍郡矢部村の地頭であった平次為定は播磨国福田庄に領地を得て、子の矢部暉は因幡に入り若桜鬼ヶ城を築いています。 また、梶原景時を討つ際に吉川友兼が使っていた太刀は、その後代々、駿河・吉川氏にて伝わり「狐ヶ崎」の名で国宝に指定されています。
梶原山公園への交通アクセス
自転車で登っておられる方(自転車を押しながらの方)もいらっしゃいましたが、梶原山は標高279mあり、その頂上付近が梶原山公園として整備されています。 ただ、梶原山公園の入口まで舗装されている道路があり、クルマの無料駐車場も10台ほどありました。 駐車場の場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしています。 スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。 自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。
しかし、アプローチの道路は「道幅が狭い」です。 途中、切り返さないと曲がれない交差点もありました。 道路はミカン畑の作業用道路と言った感じの坂道で、上の方に行けば行くほど狭くなるといったところです。 そのため、対向車が来ますと「すれ違いが困難」となります。 実際に土曜夕方に登りましたら、行き(登り)に3回ほどすれ違いました。 正確に申し上げますと、最初にはバイクとすれ違ったのですが全然問題ないためクルマとして記載してみます。 1台目はワゴン車でしたがなんとかすれ違い。まだ下のほうで道幅が多少広かったので助かりました。 2台目はミカン畑作業の地元の方の軽トラで、カーブで出会ったため、そのままではすれ違えなかったのですが、軽トラのほうから先にバックで寄せて頂けたので、カーブを抜けれました。 3台目は女性が運転なさっていた軽自動車で、これが大変でした。
カープの先、約100m前方から降りて来るクルマが見えたのですが、当方は広い箇所もなかったので、すぐに停車してまず様子をみました。 しかし、軽自動車はそのまま降りて来たので、すれ違いができる箇所があるのかな?と思いきや?、正面に向き合ったところで、登ってくる当方のクルマに気が付いたようでして、結局、10mまで接近してきて停車なさいました。 そのため、当方が動いて崖ギリギリに寄せて道を開けました。 相手が軽でしたので、なんとか通り抜けられるスペースを作れました。 対向車が普通車だったら厳しかったので、あーよかったと思ったのですが・・・。 軽が通れるほどの道をあけたのに、軽自動車は自信がないのか?、前進せずに「バック」開始するではありませんか? 登り優先に配慮してくれたのか?、よくわかりませんが、仕方ないので当方が前進して、改めて先ほどよりも更に広く道を開けて、2度目の道譲りを行い停車しました。 これでミラーもたたまずにすれ違いできるでしょう。 ところが、それでも軽は更にバック・・。 後進するほうが、ご自身のクルマをぶつけやすいので、心配になってしまいます。 ただし、軽も少しずつバックしながら、少しずつ道端に寄せて頂けたので、そんなこんなしているうちに、当方が突っ込めるほどの空間ができたのを確認。 そもそも、軽が最初から道端に寄せて停車して頂ければ、当方がギリギリ通行できる広さである。 そのため、スロースピードでバックしている軽の横に前進して、軽の横に入り込みました。 しかし、突っ込んだ先がカーブなのでこれ以上、自分のクルマは動けません。 あとは軽が前進すれば無事にすれ違えるのですが、これまた軽は前に進まない・・。 更に仕方ないので、サイドミラーをたたんで、当たらないように配慮し、当方が動くことですれ違いました。 ちなみに、軽があと20mほどバックして頂ければ、広いところがありました・・・。 軽自動車は、まだ新しそうでしたので、ぶつけるのが気になっておられたのかも知れませんが、このように運転に自信のない方にはオススメできないところです。 特に夜間は路肩も見えにくいので、やめたほうが無難だと存じます。
山城などに行きますと、たまにこのような事が発生致します。 特に土日はハイカーのクルマも多くなるため、いつもは平日に行くことが多いのですが、今回は日程の都合で土曜になってしまいました。 もし、このように狭い道を走行する場合には、危機管理対策として、道路の途中で広かった箇所を記憶し、もし対向車が来たら、あそこまでバックしようと考えながら進めると良いのは言うまでもありません。 もちろん、今回、当方もバックできればよかったのですが、適切な箇所がなかったのと、そもそも、最初からなんとかすれ違いできる状況でしたので、このように3台目に至っては、すごく手間がかかる話になってしまいました。
話を戻しますが、道路の終点にある駐車場から、緩やかな坂道を登る事5分で梶原山の頂上です。 梶原山からから帆掛山(一本松公園)までは約1Km(30分)の緩やかなハイキングコースにもなっているようです。 また、麓には瀬名氏の光鏡院もあり、梶原景時に関する大きな案内板もありますので、セットでどうぞ。
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