鴨長明の方丈記|無常観とは?内容解説|原文と現代語訳
鎌倉時代の初期、1212年に鴨長明(かものちょうめい)が書いたのが、方丈記(ほうじょうき)です。方丈記といえば、冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず…」という文章が有名で、教科書などで学んだ記憶がある方も多いと思います。...
無常の概念が広まったのは、末法思想と浄土信仰が関係しています。 末法思想とは、釈迦の入滅後にその教えが徐々に忘れられ、やがて廃れる時代がやってくるという考えのこと。 日本では1052(永承7)年が入末法の年にあたると信じられていました。 末法の世では災いが起こるといわれており、この思想が人々に厭世観や無常観をもたらしました。 そのため極楽への往生を祈り、阿弥陀如来に救いを求める浄土信仰が発展したのです。
鴨長明が生きたのは、まさに動乱の時代でした。 貴族が保元の乱や平治の乱によって衰退し、武家勢力が台頭。 平氏が政権に就くものの、源平争乱の末に源氏による鎌倉幕府が誕生します。 世の中の価値観が一変し、誰もが無常観を感じている時代だったのです。
【方丈記の構成】 第一段 無常の根源を追求する 第二段 5つの災厄の詳細 第三段 環境と人との関係 第四段 出家遁世の経緯 第五段 方丈庵の間取り、周辺の景色 第六段 方丈庵での生活 第七段 人生訓 鴨長明の生涯しかし、長明が18歳の時に父が急死してしまいます。 母も既に亡くなっていた為、長明は”みなしご”として生きていく事になります。
その後の長明は相続争いに敗れるなど、不遇が続きます。 父方の祖母の家を継ぐ立場で妻子が居た事もあったようですが、30歳頃に離別。 それからはずっと一人で暮らしていました。
そんな長明が生きがいとしていたのは、 音楽と和歌 でした。 若い頃より中原有安に琵琶を学び、和歌は俊恵に師事して才能を磨きます。
歌合への参加、千載和歌集への採用など、徐々に長明の和歌は評価されていきました。 47歳の時には後鳥羽院に才能を認められ、和歌所の寄人に抜擢されます。 しかし、後鳥羽院が厚意で長明の父の跡を継がせようと図ったところ、親族に邪魔されてしまいます。
【方丈庵】 鴨長明が終の棲家としたのが、方丈庵です。 とても小さな庵で、一辺が一丈(約三メートル)の方形だったことから”方丈”と名付けました。 この方丈庵で執筆したことが、”方丈記”の由来となっています。
災害文学として
【鴨長明が経験した5つの災厄】 ・安元の大火 ・治承の辻風 ・福原遷都 ・養和の飢饉 ・元暦の大地震 山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌割れて谷にまろび入る。 渚漕ぐ舟は浪にただよひ、道ゆく馬は足の立(たち)どをまどはせり。 都のほとりには、在々所々、堂舍廟塔(だうじやたふめう)一つとして全からず。 或は崩れ、或は倒れぬ。塵灰立ちのぼりて、盛(さかり)なる煙のごとし。 現代語訳 原文 現代語訳 原文 現代語訳人生訓
原文いかにいはむや、常に歩き、常に働くは、養性なるべし。 なんぞいたづらに休みをらん。人を悩ます罪業なり。いかゞ他の力を借るべき。 衣食のたぐひ、またおなじ。
現代語訳体を動かし、歩く事は健康的である。 静かに休んでいるのは不健康だ。 着るものなどは手に入るなりに適当にすればいいのだし、食べるものも手に入ったなりに食べていけばいい。
原文もし、己が身数ならずして、権門のかたはらに居るものは深く悦ぶことあれども、大きに楽しむにあたはず。 嘆き切なる時も、声をあげて泣くことなし。進退やすからず、立居につけて恐れをののくさま、たとへば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。 もし貧しくして富める家の隣にをるものは、朝夕すぼき姿を恥ぢてへつらひつら出で入る。 妻子、僮僕の羨めるさまを見るにも、福家の人のないがしろなるけしきを聞くにも、心念々にうごきて時としてやすからず。