郡上一揆とは? わかりやすく解説
郡上一揆とは?歴史民俗用語。 読み方:グジョウイッキ(gujouikki)江戸時代宝暦年間に美濃国郡上藩領で起きた一揆。
農民らの激しい抵抗に直面した郡上藩側はいったん検見法採用を引っ込めたものの、藩主金森頼錦の縁戚関係を頼るなどして、幕領である美濃郡代の代官から改めて郡上藩の検見法採用を命じたことにより一揆が再燃した [ 7 ] [ 8 ] [ 9 ] 。しかし藩側の弾圧や懐柔などで庄屋など豊かな農民層の多くは一揆から脱落し、その後は中農、貧農が運動の主体となる [ 10 ] [ 11 ] 。一揆勢は藩主への請願を行い、更には藩主の弟にとりなしを依頼するが、郡上藩側からは弾圧された [ 12 ] [ 13 ] [ 14 ] [ 15 ] 。また一揆本体にも厳しい弾圧が加えられたこともあって一揆勢は弱体化し、郡上郡内は寝者と呼ばれる反一揆派が多くなった。このような困難な情勢下、一揆勢は老中への駕籠訴を決行するに至る [ 16 ] [ 17 ] [ 18 ] 。
老中への駕籠訴が受理されたことによって郡上一揆は幕府の法廷で審理されることになり、一揆勢は勢いを盛り返した [ 19 ] 。しかし当初進められていた審理は中断し、問題は解決の方向性が見られないまま長期化する [ 20 ] 。そのような中、一揆勢は組織を固め、藩の弾圧を避けるために郡上郡外の関に拠点を設け、闘争費用を地域ごとに分担し、献金によって賄うシステムを作りあげるなど、優れた組織を構築していく [ 21 ] 。また郡上一揆と同時期に郡上藩の預地であった越前国大野郡石徹白で、野心家の神主石徹白豊前が郡上藩役人と結託して石徹白の支配権を確立しようとしたことが主因である石徹白騒動が発生し、郡上藩政は大混乱に陥った [ 22 ] 。
最終的に郡上一揆と石徹白騒動はともに目安箱への箱訴が行われ、時の将軍徳川家重が幕府中枢部関与の疑いを抱いたことにより、老中の指揮の下、寺社奉行を筆頭とする5名の御詮議懸りによって幕府評定所で裁判が行われることになった [ 23 ] [ 24 ] [ 25 ] [ 26 ] 。裁判の結果、郡上一揆の首謀者とされた農民らに厳罰が下されたが、一方領主であった郡上藩主の金森頼錦は改易となり、幕府高官であった老中、若年寄、大目付、勘定奉行らが免職となった。江戸時代を通して百姓一揆の結果、他にこのような領主、幕府高官らの大量処罰が行われた例はない [ 27 ] [ 28 ] 。また将軍家重の意を受けて郡上宝暦騒動の解決に活躍した田沼意次が台頭する要因となり、年貢増収により幕府財政の健全化を図ろうとした勢力が衰退し、商業資本の利益への課税が推進されるようになった [ 29 ] [ 21 ] 。
一揆の遠因
豊かではなかった郡上藩領 転封が続いた金森家 幕府経済政策の曲がり角一揆のきっかけ
金森頼錦藩主となる元文元年5月23日(1736年7月1日)、郡上藩主金森頼旹は江戸芝の仮藩邸で没した [ 40 ] 。頼旹の長男であり嫡子であった金森可寛はすでに亡くなっていたため、可寛の長男である頼錦が元文元年7月18日(1736年8月24日)に正式に郡上藩藩主の地位を継承した。頼錦は藩主継承時23歳であった [ 53 ] 。金森頼錦は自ら絵筆を取って寺社に絵馬を奉納し、また現在まで頼錦が描いた絵画が遺されており、歌集、漢詩集の編纂を行い、盛んに詩碑の建立を行うなど、詩歌、書画を好んだ文化人であった [ 54 ] 。そして時の将軍徳川吉宗は、金森頼錦が学問の志厚く、天文に興味を持っていることを聞き及び、延享元年(1744年)、頼錦に対して郡上八幡で天文観測を行い、その成果を報告するよう命じた。頼錦は吉宗の命に従い郡上八幡で天文観測を行い、翌延享2年(1745年)に観測結果を献上したとの記録が残っている [ 55 ] 。
郡上藩財政の逼迫化と賦課の増大厳しい財政事情の改善策として、藩主頼錦は藩士の俸禄の切り下げを行うなど、経費節減策を全く講じなかったわけではない [ 63 ] 。しかし財政難の解決方法として主に採用した対策はやはり増税であった。早くも頼錦が藩主となった直後の元文元年(1736年)に、藩邸の再建のために臨時の賦課にあたる御用金の徴収を命じ、領内の農民、町人、寺院に御用金を割り当てて2500両を集めた [ 64 ] 。そして金森頼錦はその後も毎年のように御用金、御供米の賦課を行い続けた [ 60 ] [ 61 ] 。また生糸にかける税を引き上げたり、牛馬の往来に通行税を徴収することとしたり、そして親類などへの贈り物を持って番所を通過する際に、贈り物に対して税を取り立てるなど、あの手この手を使っての課税強化に努めた [ 65 ] [ 66 ] 。また税の取立て以外にも多くの馬を御用として徴用したり、郡上城の工事などに人々を徴用するなど賦役も度重なるようになった [ 67 ] [ 65 ] [ 68 ] 。
年貢徴収法改正の試み宝暦4年(1754年)2月、郡上藩は領内の各村に対して、田畑の詳細について記録した「田畑反別明細帳」の提出を命じた [ 72 ] [ 73 ] 。同年6月から黒崎佐一右衛門は郡上藩領内を巡検し、各村から提出された田畑反別明細帳をもとに田畑の調査を始めた [ 74 ] [ 73 ] 。黒崎の経歴ははっきりしないが常陸国の農民の出とも言われ、農村事情に明るく、郡上藩に召抱えられる以前も美濃国加納藩で代官を務め、やはり検見法の導入を図った前歴があり、郡上領内でも厳しく田畑の調査を進めていった [ 4 ] 。
一揆の発生
宝暦4年8月2日(1754年9月18日)に郡上郡内の惣代寄合が行われ、年貢徴収法改正反対の結束を固めた南宮神社。 年貢徴収法改正の申し渡しと一揆の発生申し渡しを受けた庄屋らは、その内容が重大であるため農民たちと相談の上で回答する旨を回答した。庄屋が郡上藩庁に呼び出された時点で、危機感を強めていた農民らは八幡榎河原に集結し始めていた。このような情勢下で帰村した庄屋は、各村で行われた寄合で農民の年貢徴収法改正への激しい反発に直面することになる [ 78 ] [ 79 ] 。各村はそれぞれ惣代を選び、宝暦4年8月2日(1754年9月18日)、郡上郡内の約120名の庄屋ら各村の惣代が郡上南宮神社に集まって惣代寄合を行い、神社の神前で一味同心の誓いを立てた上で傘連判状を作成し、年貢徴収法改正お断りの嘆願書を作成した [ 80 ] [ 79 ] 。しかし嘆願書は藩側に手渡されたものの、藩側からきちんとした年貢徴収法改正断念の返事はなかった、結局、庄屋たち中心の惣代寄合メンバーによる交渉解決は断念され、農民らが直接藩に嘆願する方針に変更された [ 81 ] 。
強訴庄屋中心の惣代寄合メンバーによる交渉解決が行き詰った段階で、郡上郡中の各村農民に動員がかけられた。宝暦4年8月10日(1754年9月26日)郡上郡中そして郡上藩の越前領内からも集結した大勢の農民たちは [ 注釈 4 ] 、藩側に検見法への年貢徴収法改正断念を願う願書とともに、金森頼錦が藩主となって以降の各種の税や御用金、使役の負担増を指摘し、負担免除を願った十六か条の願書を差し出すという強訴に及んだ。この強訴には一般農民たち以外に、郡上藩が進めていた絹や茶、紙などといった商品作物に対する課税強化や、牛馬などに対する通行税取り立てに苦しむ豪農層、商人層の協力があり、郡上領内でも比較的豊かである郡上川沿いの藩南部、下川筋が主導していた [ 3 ] [ 76 ] [ 5 ] [ 6 ] 。なお、この宝暦4年8月10日の強訴時点で、農民層の中に藩の施策に対して従順である農民が現れており、やがて藩に従順な農民たちのことを寝者 [ 注釈 5 ] 、一方、藩に対抗していく農民らを立者と呼ぶようになる [ 82 ] 。
強訴後の藩と農民一方藩側は、農民らの強訴が行われた翌日の宝暦4年8月11日(1754年9月27日)、事態を伝える飛脚が郡上八幡から江戸へ向かい、江戸在府中の藩主に国元の事態を伝えた [ 82 ] 。続いて宝暦4年9月10日(1754年10月25日)には家老の渡辺外記、粥川仁兵衛らが江戸へ向かい、藩主金森頼錦に事態の報告を行った。宝暦4年11月26日(1755年1月8日)には郡上藩国元の役人の人事異動があり、年貢増徴派の役人が登用された [ 6 ] 。しかし宝暦4年12月8日(1755年1月20日)には、郡上郡中の村方三役が呼び出され、8月10日の強訴は不届きではあるが、農民らの訴えを聞き届ける旨の藩主の意向が示された [ 7 ] [ 8 ] 。
年貢増徴派の巻き返し
藩主の姻戚関係を利用しての巻き返し工作 郡上郡内の庄屋の代官所呼び出し 一揆の再燃一揆の拡大
那留ヶ野の盟約宝暦5年8月12日(1755年9月17日)、郡上八幡の中心部から離れており、かつ山に囲まれた谷間であるため藩の弾圧が及びにくい白鳥那留ヶ野に、主だった農民約70名が集まって盟約を結び傘連判状を作成した [ 注釈 8 ] 。その上で各人の役割分担を行い、更に江戸にて訴訟を進めるための計画を立てた [ 98 ] [ 99 ] [ 100 ] 。この時点で郡上郡内各地域の農民代表による集団指導が成立した。農民代表らの構想は、まず藩主へ直訴することによって悪い役人が強行しようとしている年貢徴収法の改正を中止させることを目指した [ 13 ] [ 101 ] 。
江戸出訴 金森藩邸への願書提出一揆勢の危機
意見対立の表面化 庄屋帰還阻止運動の終結と関寄合所の開設 郡上藩側の弾圧を避けるため、一揆勢は関の新長谷寺近くに拠点である関寄合所を設けた。 追訴の実行 藩の弾圧と一揆の弱体化一揆勢の巻き返し
越訴の実行を決める 駕籠訴決行 駕籠訴人であり、一揆勢指導者の1人として活躍した前谷村定次郎の顕彰碑。 駕籠訴の吟味開始と広がる波紋 一揆勢の反転攻勢開始と藩側の対応 一揆勢の巻き返しと資金調達一揆勢は大勢の人員を動員し、駕籠訴は大願成就であり、訴状が受け入れられるとの見通しを郡上郡内で宣伝し続けた [ 152 ] 。宝暦6年(1756年)の1月から2月にかけて、藩側の激しい弾圧によって一揆勢から脱落した上之保筋の寝者の多くが、立者と呼ばれた一揆勢に詫び証文を入れた上で一揆側へ再加入するようになった [ 153 ] [ 154 ] 。そして上之保筋で優勢となった一揆勢は明方筋そして下川筋でも攻勢に転じ、一揆勢への加入を強制する動きが強まった [ 155 ] 。このような藩に従順な反一揆側である寝者に対する一揆勢の攻勢を「寝者起し」と呼んだ。また一揆勢は立者と寝者を厳しく峻別するようになり、立者同士の団結を固めた。一揆が長期化する中で立者と寝者との対立は激しさを増していく [ 152 ] [ 156 ] 。
駕籠訴人と村方三役代表との対決 郡上での動き一揆勢と藩側の攻防
駕籠訴人の帰国と駕籠訴吟味の停滞駕籠訴人の帰国によって一揆勢の活動は更に盛り上がり、駕籠訴受け入れの判決が下るであろうとの内容の文書を郡上郡内に広めた。一方、駕籠訴人と同時期に郡上へ戻った30名の村方三役代表や藩側は、駕籠訴は却下されたと触れ回った [ 162 ] [ 180 ] [ 179 ] 。実際には駕籠訴の吟味は裁決が下されることなく放置された。一揆勢の中で急進派であった上之保筋の立者は一揆勢有利の裁決が下されるものと楽観視して活動を更にエスカレートさせていくが、明方筋や下川筋の立者は上之保筋の活動に必ずしも同調せず、駕籠訴の吟味についても店晒しになるのではないかと冷静に分析していた [ 20 ] 。なお、駕籠訴の吟味は進められることなく放置されたが、幕府内部では宝暦7年(1757年)から宝暦8年(1758年)にかけて、郡上藩の年貢徴収法について幕府役人である美濃代官が介入したことに関して、勘定奉行の大橋親義に対する事情聴取は続行されており、これは幕府内(特に勘定所内)での年貢増徴派と反年貢増徴派の路線対立が影響していた [ 86 ] [ 181 ] 。
一揆勢の体制と活動強化 強まる軋轢このような情勢下、宝暦7年(1757年)6月には、反一揆勢である寝者の側でも、強固な寝者同士の結束を固めるために駕籠訴仲間不加入連署状という証文が交わされる事態となり、立者と寝者の対立はエスカレートしていった [ 197 ] [ 198 ] [ 199 ] 。ただ、郡上郡内の立者、寝者間の対立は激化していたが、一揆勢の立者の中でも活動に消極的な人たちがあり、寝者も駕籠訴仲間不加入連署状を取り交わした強固な反一揆派から、一揆そのものに関心が薄い人たちまで様々である。その他立者、寝者の中立の立場を取る「中人」、更には立者、寝者双方に好を通じる「両舌者」という人もいた [ 197 ] 。そして一揆勢に有利な情勢になると立者が増え、逆に藩の締め付けが厳しくなるなど一揆勢が困難な課題に直面すると寝者が増加するなど、立者、寝者は決して固定的なものではなく、その時々の情勢によって流動的であった。また立者、寝者にも深入りせず村として中立の立場を堅持した正ヶ洞村のような存在もあった [ 注釈 13 ] [ 200 ] [ 199 ] 。
藩の統制が及ばない上之保筋藩側と一揆勢の対立激化
新町太平治の投獄と一揆勢の暴動 用人大野舎人の村方三役、駕籠訴人の呼び出し 気良村甚助の処刑宝暦7年10月26日(1757年12月7日)の暴動を指揮した気良村甚助、寒水村由蔵、大久角村喜平次、那比村助次郎の4名のうち、一番の首謀者と見られていた気良村甚助は藩側から特に目をつけられていた。宝暦7年12月3日(1758年1月12日)、郡上八幡城下にやって来ていた甚助は藩側に捕らえられ [ 注釈 14 ] 、全く吟味もなされないまま宝暦7年12月18日(1758年1月27日)、穀見の刑場でひそかに打ち首にされた [ 214 ] [ 215 ] 。これは先の大野舎人による呼び出しにもかかわらず、上之保筋の切立村喜四郎、前谷村定次郎両名の駕籠訴人は出頭せず、駕籠訴が受理されたとの駕籠訴人の主張を覆すもくろみが失敗したことの意趣返しとの説がある [ 216 ] 。
追訴の失敗 歩岐島騒動 郡上市歩岐島にある、郡上一揆帳元の中核を務めた歩岐島村四郎左衛門の顕彰碑。目安箱への箱訴
駕籠訴人切立村喜四郎、前谷村定次郎の脱走と一揆勢の体制再構築 再度の追訴失敗と箱訴の決断 箱訴決行 箱訴の吟味開始と郡上の情勢幕府評定所での本格的な吟味
将軍家重の疑念 時の将軍徳川家重が抱いた幕府要人関与の疑いが、なかなか進まなかった郡上一揆の吟味を一気に進めるきっかけとなった。 本格的な吟味開始と明らかになった幕府要人の関与 幕府役人の吟味終了と判決 郡上藩役人、農民らの吟味 駕籠訴人の1人であり、前谷村定次郎とともに一揆勢の中核として活躍しながら、厳しい尋問の中牢死した切立村喜四郎の生誕地を記念する顕彰碑。宝暦8年(1758年)11月以降、厳しい尋問によって病人、そして牢死者が続出することになる。宝暦8年12月末の判決言い渡しまでに、駕籠訴人の切立村喜四郎を始め名が明らかである農民だけで16名が牢死した。また切立村喜四郎の遺体は取り捨て扱いとされた [ 278 ] [ 279 ] 。厳しい取調べは農民ばかりではなく郡上藩役人らにも及び、郡上藩の検見取採用時に活躍した黒崎佐一右衛門も牢死した [ 280 ] 。また幕府高官から農民に至るまでの大勢の人々を連日のように取調べることは、評定所御詮議懸りにとっても負担が大きかったようで、御詮議懸りの勘定奉行菅沼定秀は宝暦8年12月11日(1759年1月9日)、評定所で体調不良を訴えて退席し、宝暦8年12月24日(1759年1月22日)に死去する [ 281 ] 。そして厳しい尋問が続く中、吟味が大詰めとなった宝暦8年(1758年)12月には、駕籠訴人、箱訴人、そして一揆の指導者から「公儀を恐れず」という発言が飛び出し、評定所御詮議懸りは更なる厳しい取調べを命じることになった [ 282 ] [ 283 ] 。
一揆勢に対する判決 郡上藩主、郡上藩役人に対する判決 江戸町民の反応と講釈師馬場文耕の獄門一揆後の郡上
前谷村定次郎、歩岐島村四郎左衛門、寒水村由蔵の首が獄門にされた穀見刑場の跡改易された金森頼錦の後釜として、宝暦8年12月27日(1759年1月25日)、幕府より丹後国宮津藩の青山幸道が新たな郡上藩主として転封を命じられた [ 314 ] 。青山氏が郡上に入るまでの間、近江国信楽代官の多羅尾四郎左衛門が郡上を一時支配することになり、宝暦9年2月7日(1759年3月5日)、多羅尾四郎左衛門一行は郡上に到着した [ 315 ] [ 316 ] 。多羅尾四郎左衛門の郡上到着後、郡上八幡城引き渡しの準備が急ピッチで進められた。宝暦9年(1759年)2月、幕府からは引き渡しを受けるための人員が派遣され、宝暦9年3月1日(1759年3月29日)には幕府からの使いが郡上に到着し、主に郡上領内の治安に関する高札を立て、更に旧金森家家臣を集め、今後30日以内に立ち退きを行うよう命じ、もし事情により30日間に立ち退くのが困難な場合には借宅証文を渡すと伝えた [ 317 ] [ 318 ] 。
昭和39年(1964年)、岐阜の劇団はぐるまのこばやしひろしは戯曲「郡上の立百姓」を製作した [ 334 ] 。郡上の立百姓は昭和40年(1965年)の第二次訪中日本新劇団公演のレパートリーに採用され、主役の定次郎は滝沢修が演じ、評判となった [ 335 ] [ 336 ] 。戯曲郡上の立百姓はその後も折に触れ公演が行われ、岐阜県の農家出身の映画監督神山征二郎は郡上の立百姓を原作とした映画、「郡上一揆」を平成12年(2000年)に完成させた [ 337 ] [ 336 ] 。
郡上一揆の特徴と影響
郡上一揆は田沼意次台頭のきっかけとなった。宝暦期は幕府が大名に対する統制を強化した時代であり、金森頼錦の改易も大名統制の一環との見方もあるが [ 344 ] 、当時、これまで幕府を支えてきた石高制の矛盾が現れてきており、そのような中で幕府内では年貢増徴によって財政健全化を図ろうとする勢力と、年貢増徴策の限界を見て商業資本への間接税課税に活路を見出そうとする勢力との路線対立が表面化していた。郡上一揆の裁判の結果、年貢増徴による財政健全化を図る勢力が衰退し、商業資本との共生を通じて間接税課税を進める勢力が主導権を握るようになった [ 50 ] [ 51 ] [ 28 ] 。そのような中、急速に台頭してきたのが田沼意次であった。郡上一揆と石徹白騒動の評定所吟味に参加を命じられた田沼は、幕閣中枢が関与した難事件であった郡上一揆の吟味の経過で辣腕を見せ、田沼を信任して評定所吟味に参加させた将軍家重を始め、幕府内でその政治的、行政的能力が認められることになる。そして田沼は事件終了後も評定所への参加を継続し、幕政に直接関与するようになった [ 262 ] 。また田沼は郡上一揆と石徹白騒動の評定所吟味の最中である宝暦8年(1758年)9月、郡上一揆の責任を問われ失脚した西丸若年寄本多忠央の領地であった遠江相良の領地を加増され、大名に列した。将軍世子家治付の若年寄であった本多忠央は、家治が将軍になった暁には権力の座に就くことが予想されていたため、結果として本多忠央の失脚も田沼意次台頭の要因の1つとなった [ 51 ] 。歴史学者の大石学は、「田沼時代はまさに郡上の農民たちによって幕が開けられた」と評価している [ 345 ] 。
脚注
注釈- ^ 岐阜県(1968年)によれば、延宝の一揆終結後、藩当局者は一揆のことを「笑止千万」と突き放しており、これは約70年後の宝暦期に発生した郡上一揆との時代背景の差が見られると指摘している。
- ^ 野田、鈴木(1967)、白石(2005)によれば、年貢の徴収が基本的に定量である定免法に対して、有毛検見法では農民にそれぞれの耕作地の単位当たりの収穫量を提出させ、その後に役人が坪刈りと呼ばれる田の刈り取りを行った上で実際の収量を調査し、農民たちの申告との差を確認し、農民の申告と収穫量調査の結果を平均して領地の全収量を把握した上で年貢額を決定する方式で、収量を細かく把握して年貢額を決定する方式であるため、農民たちが努力して単位あたりの収量を上げた成果を確実に把握されるため増税につながる上に、役人が行う坪刈りの内容如何で税額を上げることが可能である年貢徴収法であった。
- ^ 大賀(1980)によれば、これは延享2年(1745年)に天領で開始された有毛検見法の導入を指しており、郡上藩領でも幕府の定めた年貢徴収法に倣うべきであるとの主張の根拠とされた。
- ^ 宝暦4年8月10日(1754年9月26日)の強訴時に集結した農民の数については、数百人とする資料から多いものでは3000人とする資料もある。高橋(2005)は、郡上領内各村の動員は100石につき3名とする資料から、約500人であったと推定している
- ^ 高橋(2005)によれば、郡上一揆では藩側に立つ反一揆派を寝者と呼ぶが、これは立者と呼ばれた一揆勢が付けた呼び名であり、反一揆側は自らのことを定法者と呼んだ。
- ^ 白鳥町教育委員会(1976)、白石(2005)によれば、30ヵ村との記録もある
- ^ 高橋(2005)は、三家老の免許状について小野村庄屋の次郎兵衛が郡上藩役人の熊崎幸左衛門に手渡したとする。他の参考文献は全て、書類を受け取った笠松陣屋からの飛脚から大勢の農民が書類を奪い取ったとの記述であるため、本文ではその記述を採用する。
- ^ 白石(2005)は、那留ヶ野での盟約で傘連判状が作成されたはと断定できず、血判状などであった可能性を指摘している。他の文献では傘連判状とされているため、ここでは傘連判状を作成したとの記述とする。
- ^ 大賀(1980)は金森頼錦の次男である井上正辰邸に書状を提出したとしているが、野田、鈴木(1967)19頁、白鳥町教育委員会(1976)、大石(2001)、白石(2005)、高橋(2005)は頼錦の弟のところに提出したとしており、ここでは藩主頼錦の弟との記述とする。
- ^ 郡上一揆と石徹白騒動は同時期に同じ地域で発生した大事件ではあるが、背景や経緯が異なる別個の事件であり、正式に連携して行動したことはないとされるが、大石(2001)は、一揆が最も激しかった上之保筋と石徹白が隣接していることから、両者に何らかの連携があったのではと推測している。
- ^ 白石(2005)は、宝暦5年12月18日(1756年1月19日)は本願主である東気良村善右衛門、切立村喜四郎の2名のみ町奉行に呼び出され、吟味を受けた後に宿預けとなり、宝暦6年2月2日(1756年3月2日)に改めて5名が呼び出された上で吟味を受け、終了後5名揃って宿預けになったとする。ここでは野田、鈴木(1967)、高橋(2005)の記述に従い、宝暦5年12月18日(1756年1月19日)に5名の駕籠訴願主全員が町奉行の吟味を受け、終了後宿預けとなったとの記述を採用する。
- ^ 野田、鈴木(1967)、白鳥町教育委員会(1976)、白石(2005)、高橋(2005)によれば、駕籠訴人5名と村方三役代表30名への帰国申し渡しは宝暦5年12月16日(1757年2月4日)と、宝暦5年12月23日(1757年2月11日)という資料がある
- ^ 白石(2005)によれば、正ヶ洞村の庄屋であった伊兵衛は一揆勢から寝者の代表格の1人とされていたが、正ヶ洞村自体は立者、寝者の対立から一線を画し、独自の中立を守ったとしている。
- ^ 甚助は後の目安箱への箱訴訴状によれば、年貢を納めるための借用をしようと郡上八幡にやって来たとするが、白石(2005)によれば、藩側から明方筋、下川筋の村方三役が藩側より呼び出されたことを聞きつけ、情報収集のため郡上八幡城下にやって来たとする資料もある。
- ^ 八幡町役場(1987)、高橋(2005)は宝暦8年2月23日の出来事とする、ここでは野田、鈴木(1967)、白鳥町教育委員会(1976)、白石(2005)の採用する2月24日とする。
- ^ 増援は約50名であったとの説もある。野田、鈴木(1967)、白鳥町教育委員会(1976)では50人説を採用している。ここでは白石(2005)、高橋(2005)の採用する、約20名増員で総勢50-60名との説とする。
- ^ 切立村喜四郎、前谷村定次郎からの書状では、問題の訴訟が宝暦8年3月20日(1758年4月27日)に実行した追訴のことか、それとも宝暦8年4月2日(1758年5月8日)と宝暦8年4月11日(1758年5月17日)に実行された目安箱への箱訴を指すのかがはっきりせず、白石(2005)は追訴の実行、野田、鈴木(1967)、白鳥町教育委員会(1976)は箱訴の実行を指しているとする。ここでは単に訴訟を進めるための人材という記述とする。
- ^ 白石(2005)によれば、当初御詮議懸りに任命されていた勘定奉行菅沼定秀は前日の宝暦8年12月24日(1759年1月22日)に死去しており、後任の御詮議懸りに任命された稲生播磨守が出席した。
参考文献
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- 映画「郡上一揆」支援の会、人間社編集部『一揆spirits』人間社、2001年。
- ISBN493138823X。
- 大石学「享保改革と社会変容」『日本の時代史16 享保改革と社会変容』吉川弘文館、2003年。
- ISBN4642008160。
- 若尾政希「享保〜天明期の社会と文化」『日本の時代史16 享保改革と社会変容』吉川弘文館、2003年。
- ISBN4642008160。
- 白石博男『郡上藩宝暦騒動史』岩田書院、2005年。
- 高橋教雄『郡上宝暦騒動の研究』名著出版、2005年。
- ISBN4626016987。
- 保坂智『百姓一揆と義民の研究』吉川弘文館、2006年。
- ISBN4642034145。
- 藤田覚『田沼意次』ミネルヴァ書房、2007年。
- ISBN9784623049417。
- 藤田覚『田沼時代 日本近世の歴史4』吉川弘文館、2012年。
- ISBN978-4-642-06432-3。
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