四国巡礼編(23)菩提の道場(6)太山寺(52番札所)~圓明寺(53番札所)
四国巡礼編(23)菩提の道場(6)太山寺(52番札所)~圓明寺(53番札所)

四国巡礼編(23)菩提の道場(6)太山寺(52番札所)~圓明寺(53番札所)

聖地を訪れた旅の記事を書いています。

太山寺の寺伝によると、用明2年(586年)(飛鳥時代)、豊後国(大分)の真野長者という者が難波(大阪)に船で向かう途中、高浜の沖で嵐に遭遇。信仰する観音様に無事を祈願したところ、山頂から光が差し嵐が治まったという。 その後光の差した場所を訪れたところ、そこには一寸八分の十一面観音を祀(まつ)った小さな草堂があった(現在の奥の院)。感謝した長者は一旦豊後に引き返し、工匠を集め本堂を建てる木組みを整えてこの地を再訪した。一晩で本堂を建立したということで「一夜建立の御堂」と伝えられている。

その後、天平11年(739年)に聖武天皇の勅願を受けた行基が、御本尊の十一面観音像を彫って寺院に安置したとされる(現本尊は平安時代後期の作)。 天長年間(824年〜834年)に弘法大師が訪れた際、法相(ほっそう、ほうそう)から真言宗に改宗している。

[第53番札所: 須賀山(すがざん) 正智院(しょうちいん) 圓(円)明寺(えんみょうじ)]

圓明寺の寺伝によれば、天平勝宝元年(749年)に行基が聖武天皇の勅願を受け、御本尊の阿弥陀如来、及び脇侍の観世音菩薩勢至菩薩を刻んで開基した。 当初は、和気浜の西山という海岸(現在地の北西約2.5km)にあり、「海岸山圓明密寺」と称した。

後に弘法大師がこの地を訪れた際、荒廃した伽藍を建て直したという。 鎌倉時代以降、度重なる兵火により寺院は荒廃。元和年間(1615年~1624年)に現在地に移され、この地の豪族、須賀重久によって再興された。 寛永13年(1636年)、京都仁和寺覚深(かくしん、かくじん)入道親王より「須賀山」の山号を賜り、仁和寺の直末(じきまつ)となった。

残念ながら、写真を見ても参拝時の様子を思い出せない。寺院にいた地元の方と話をしたと旅日記に記録しているが、会話の内容まで記録していなかった。

国道196号をひたすら北へ向かう。道中、地元の方から湿布と栄養ドリンクのお接待をして頂いた(感謝)。

夕方(まだ17時前だったと思う)、公園で休憩を取ろうとしたところ、そこには一人の旅人がいた。その若者はチャリダー(自転車旅行者)で、今晩ここで野宿をすると言う(四国を旅行しているが88ヶ所霊場巡りはしていないとのこと)。既にテントを張っていた。 夕方とはいえ、まだ周囲は明るかった。今までは周囲が暗くなってからテントを設営していたが、この日はここで歩みを止めることにしてテントを設営。

すると、通りかかったお巡(まわ)りさんから声をかけられた。この旅一回だけ経験した職務質問だ。どうやらこの時(そで)無し白衣(はくえ、びゃくえ)を脱いでいたのでお遍路と分からなかったようだ。

「歩き遍路をしています」とお巡りさんに伝えた。 ふとチャリダーの青年を見ると、神妙に「自分もお遍路をしています」という空気感を醸(かも)し出しながら、無言で私に全てを託していた。

しばしの沈黙の後、今回は大目にみるとのこと(感謝)。

おまけ(その13)感応について

聖地を訪れた旅の記事を書いています。

札所が近付くと背中にビリビリと電気を当てたように感じるようになり、地図を見なくても札所の場所が分かるようになった。 松山ユースホステルのオーナー平野さんにお会いして質問した際、「それは、三昧(ざんまい、サマディ)でしょう」というお言葉を頂いた。修行としてシンプルな作業を続けていると到達する境地らしい。ランナーズ・ハイもこの一種ということだった。

当時は、その説明で疑問の全てが解決されたように思えた。何故なら松山辺りから気力・体力共に充実した状態を保って結願(けちがん)することが出来たから。

四国遍路後に最初に気付いたのは、神社仏閣参拝時だった。この時は土地の気の良い場所に寺社が建てられたのだろうという認識だった。

その後神社仏閣の奥宮・奥の院がある山を登拝するようになると、痛みを感じる位背中がビリビリすることもあった。 この現象が発生する場所はかつて修験者が修行したとされる場所であることが多く、(ほこら)や仏塔等が残っていることから、かつての修験者の霊魂がこの地を守っているのかもしれないと思う。修行を重ねた行者の中には死後天狗になる者もいると聞いたことがあるが、死後人里を離れ山に留まり、土地を守る存在となった修行者の魂に感応しているのではないかといつからか思うようになった。

尚、自宅にいても同様の現象が起きる場合もある。 書籍やHPで神社仏閣・精神世界系の情報を閲覧している時や、神社仏閣等で撮影した写真を見ている時等に背中がビリビリする(このブログの記事を作成している時も同じような症状が発生する)。 神社仏閣のHP閲覧時には[眷属]と呼ばれる存在と感応しているのかもしれないとも思う(目に見えない世界の存在は、こちらが意識を向けたことを敏感に察知出来るのではないだろうか)

その他、(大きな駅等の)人混みの中で同様の感覚を覚えることもある。

・背筋が凍る ・寒気がする ・身震いする、武者震いする ・鳥肌が立つ(関西では「さぶいぼ」と言うらしい) ・感動する、(感謝)感激する(漫画等では「じーん」という擬音が使われる)

記事を書いてみて思ったのは、肌感覚というのは、自分が思う以上に重要なのかもしれないということだ。

自分が感応したのは霊的存在かもしれないと思うし、人は肉体的死を迎えると魂(霊)だけの状態になるとも思う。 (個人的な意見になるが、)私は輪廻転生を信じている。そう考えた方が自分の中でしっくりくるからだ(輪廻転生が本当にあるのかは自分が死んだ時に分かるだろう)。

自分が人にしたことをいずれ(来世かもしれないが)逆の立場で経験するならば、なるべく人を(精神的・肉体的に)傷つけることはしたくない。 人を殺す経験をすれば、いつか逆の立場で殺される経験をする(推測になるので可能性があるとしか言えないが)。そう考えれば戦争せずに他の解決手段を選べるのではないかと思う。

四国巡礼編(22)菩提の道場(5)浄瑠璃寺(46番札所)~石手寺(51番札所)

聖地を訪れた旅の記事を書いています。

[第46番札所:医王山 養珠院(ようしゅいん) 浄瑠璃寺(じょうるりじ)]

・御本尊:薬師如来 ・創建年:(寺伝)和銅元年(708年) ・開基:(寺伝)行基 ・住所:愛媛県松山市

お遍路27日目。 天気予報では大雨の予想だった為、早朝に宿を発った(雨が降る前に遍路道を通る三坂峠を越えたいという思惑があったのだが、結果的に遍路道に入る前に少し雨が降ったものの、松山市に入ってからは快晴だった)。

午前11時前に46番札所浄瑠璃寺に到着(昨晩の宿(民宿一里木)からここまで約14km)。

浄瑠璃寺の寺伝によると、和銅元年(708年)に奈良の大仏開眼に先立って布教に訪れた行基が堂宇(どうう)(四方に張り出した屋根のある建物)を建立。 御本尊の薬師如来像と脇侍(きょうじ、わきじ)の日光菩薩・月光菩薩、眷属の十二神将を彫って安置したとされる。 浄瑠璃寺の寺名は薬師如来がおられる瑠璃光(るりこう)浄土から「浄瑠璃寺」とし、山号の「医王寺」も医王如来に由来する。

※薬師如来の正式名称は薬師瑠璃光如来で、医王如来とも呼ばれる。

その後、大同2年(807年)に弘法大師が荒廃していた伽藍を修復し、四国霊場の一寺としたとされる。

[第47番札所:熊野山 妙見院 八坂寺]

・御本尊:阿弥陀如来 ・創建年:(寺伝)大宝元年(701年) ・開基:(寺伝)役小角(えんのおづぬ(おづの、おつの))(役行者(えんのぎょうじゃ))、文武天皇(勅願) ・住所:愛媛県松山市

この日は、札所間の距離が近い区間を歩いているが、その中でも46番札所から47番札所までは一番短く、僅か800m程の距離だ。 残念ながらこの札所も当時のことを思い出せない。スタンプラリーのように先を急ぐ心境だったのだろう。

寺伝によると、八坂寺は修験道の開祖である役行者によって開基されたと伝えられている。 飛鳥時代の大宝元年(701年)に文武天皇の勅願を受けた伊予の国司、越智玉興(おちたまおき)が堂塔を建立した。寺名は、8ヶ所の坂道を切り開いて創建したことに因(ちな)んで名付けられたとされ、「彌榮(八坂)(いやさか)(ますます栄える)にも由来している。 その後、弘仁6年(815年)にこの地で修法した弘法大師が荒廃した寺院を再興し、霊場と定めた。

御本尊の阿弥陀如来坐像は、平安時代に恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)(浄土教の論理的な基礎を築いたとされる僧侶)によって彫られた秘仏で、御開帳は50年に一度らしい(現在の御本尊は鎌倉時代後期の作)。

八坂寺は紀州から熊野権現の分霊や十二社権現を勧進し、修験道の根本道場として栄えた。 天正年間の兵火で焼失後、寺院は再興と火災を繰り返しながら縮小していったとされる。

[第48番札所:清滝山(せいりゅうざん) 安養院 西林寺]

・御本尊:十一面観世音菩薩 ・創建年:(寺伝)天平13年(741年) ・開基:(寺伝)行基 ・住所:愛媛県松山市

正確な場所は覚えていないが(48番札所~51番札所のあたりだろうか)、自分の体にある変化が起きていることに気付いた。 今回の巡礼の旅で一番訪れたかった街松山に入るということもあり、昨日辺りから気分が高揚し、感動した時のように背中がビリビリしていたのだが、札所が近くなるとそのビリビリの度合いが増すのだ(札所巡りの後半に入った45番札所岩屋寺辺りから予兆があった)。 その為、地図を確認しなくても札所の場所が分かるようになった。

(1)弘法大師は土地の気の良い場所に寺院を建て、霊場と定めたのではないか

(1)については、最近読んだ本(『土中環境』(高田宏臣著、建築資料研究社刊)に興味深い文章が書かれていたので引用させて頂く。

日本では古来、清冽な水の湧き出す場所を、神域や聖地として敬い、守り伝えてきました。時代が下ると、その場所に社寺が配されるようになります。つまり、そこが周辺環境の要所であり、昔から尊重され続けてきた場所、これからも大切にしなければならない場所ゆえに、社寺が配されたのです。

西林寺の寺伝によれば、天平13年(741年)に聖武天皇の勅願を受けた行基が伊予国司、越智玉純(おちたますみ)と共に堂宇を建立、御本尊の十一面観世音菩薩を刻んで開基した。 当時の寺院は、現在地より北東約3kmに位置する「徳威の里」にあったとされる。

大同2年(807年)に弘法大師がこの地を訪れ今の場所に寺院を移し、水不足に悩む村人の為、水脈(杖(じょう)の淵の清水(奥の院)(番外霊場))を見つけたとされている。

[第49番札所:西林山(さいりんざん) 三蔵院 浄土寺]

・御本尊:釈迦如来 ・創建年:(寺伝)天平勝宝年間(749年~757年) ・開基:恵明(えみょう) ・住所:愛媛県松山市

浄土寺の寺伝によると、天平勝宝年間に孝謙天皇の勅願を受けた恵明上人が開創し、行基が彫った釈迦如来像を御本尊として祀ったとされている。 開創時は法相(ほっそう、ほうしゅう)だったが、後年弘法大師が伽藍を再興した際に真言宗に改宗している。 その後、平安時代に空也上人がこの地に3年間滞在した記録が残っている(本堂の厨子には空也上人像が安置されている)。 鎌倉時代、源頼朝により堂塔を修復されたが、応永23年(1416年)の兵火で焼失。 文明14年(1482年)に領主、河野通宣(みちのぶ)によって再建された。

[第50番札所:東山(ひがしやま) 瑠璃光院(るりこういん) 繁多寺(はんたじ)]

繁多寺の寺伝によれば、天平勝宝年間に孝謙天皇の勅願を受けた行基が薬師如来像を彫って安置したのが始まりとされる(孝謙天皇の勅願所となり、「光明寺」と名付けられた)。 後に弘仁年間(810年~824年)に弘法大師がこの地を訪れた際、「東山繁多寺」に改称したという。 後に源頼義により再興され、一遍上人もここで修行された記録が残っている。 江戸時代には、徳川家の帰依(きえ)を受け隆盛を極めたそうだ。

[第51番札所:熊野山 虚空蔵院(こくぞういん) 石手寺(いしてじ)]

(写真は仁王門、内側には大きな草鞋(わらじ)が置かれていた。)

この日巡った札所の中で、石手寺は他の札所と雰囲気が違っていた(印象に残っている為当時のことを思い出すことが出来る)。 この日これまで参拝した寺院の参拝者は、お遍路(の割合)が多かったのだが、ここ石手寺は観光客が多かった。団体客も多かったがお遍路の服装では無かった為、松山の観光ツアー客と思われた。人気の高い寺院なのだろう(境内に現存する堂塔の多くが国宝国の重要文化財に指定されている)。

石手寺の寺伝によると、神亀5年(728年)に伊予国司、越智玉純が夢によってこの地を霊地と感得し熊野12社権現を祀り、鎮護国家の道場として聖武天皇の勅願所となった。 翌年(天平元年(729年))に行基が薬師如来像を彫り、御本尊として祀った。当時の宗派は法相宗で寺院名は「安養寺」と名付けられた。 弘仁4年(813年)に弘法大師がこの地を訪れた際、真言宗に改めたと伝えられている。

石手寺の名前の由来は、衛門(えもん)三郎再来の伝説による(以下、概要)。

当時三郎には8人の子供がいたが、この出来事の後毎年一人ずつ全ての子供が亡くなってしまう。悲しみにくれた三郎の夢枕に弘法大師が現れ、再会した時に罪を許すことを伝え四国の地を巡礼するよう告げた。三郎はあの托鉢僧が大師だったことに気付き、自分の行為を後悔した。

悔い改めた三郎は、田畑を売り払い家人に分け与え、妻とも別れた後、謝罪の旅に出た(この旅が四国遍路の始まり、この時の装束が遍路装束の起源と言われている)。

巡礼を重ねること20回にして大師に会うこと叶わず。三郎21回目の巡礼時、逆打ちに一縷(いちる)の望みに賭けたが、12番札所焼山寺(しょうざんじ)近くの杖杉(じょうしん)で病に倒れてしまう。

死期の近い三郎の前に大師が現れ、三郎は大師に泣いてお詫びをしたとされる。 大師が三郎の望みを叶えることを約束すると、三郎は河野家に再び生まれて人の役に立つことを願いながら亡くなった。 大師は小石を拾って「衛門三郎」と書き、三郎の手に握らせた。

翌年(天長9年(832年))に河野息利(やすとし)(越智玉純の子孫)の嫡子息方(やすかた)が生まれた。当寺で祈願するまで開かなかったその手には、衛門三郎の名を書いた小石が握られていたという。 この子が衛門三郎の生まれ変わりであるということで、この石を当寺に納め、寺号を安養寺から石手寺に改めたとされる。

石手寺を打ち終えた後、この日の宿松山ユースホステルに到着。 ここは、関西地区のユースホステル人気投票で何度も一位を獲得したという有名な宿だった。 オーナーの平野さん(大統領と呼ばれていた)は、宿泊者を喜ばそうと日夜試行錯誤されているようだった。 例を挙げると、岩盤浴のサービス、水を活性化する装置、空間の波動を上げる工夫、壁にはマイナスイオンが出る塗料まで塗ってあった(おかげで次の日の朝起きれない位爆睡して、出発が1日延びた)。

平野さんの見解は、「それは、三昧(ざんまい、サマディ)でしょう」ということだった。 修行としてシンプルな作業を続けていると到達する境地であるらしい。ランナーズ・ハイもこの一種だそうだ。

何故そのような状態になったのか。きっかけとして当時考えられたのは、松山に到着して気持ちが高揚したことだろうか。 或いは、45番札所手前の古岩屋休憩所で出会った男性から託された想いがあったからかもしれない。

だが、あれから15年経過した今、原因が別にあった可能性も考えられる。 その後の人生経験からの見解については、次の記事で書き記してみたいと思う(あくまで個人的な意見でしかないが)。

四国巡礼編(21)菩提の道場(4)大寶寺(44番札所)~岩屋寺(45番札所)

聖地を訪れた旅の記事を書いています。

[第44番札所:菅生山(すごうさん) 大覚院 大寶(宝)寺(だいほうじ)]

・御本尊:十一面観世音菩薩 ・創建年:(寺伝)大宝元年(701年) ・開基:(寺伝)明神右京隼人 ・住所:愛媛県上浮穴(かみうけな)郡久万高原(くまこうげん)町

※別称:四国霊場の中札所(四国88ヶ所霊場の丁度半分に当たることから)

お遍路26日目。 国道379号沿いのお遍路無料宿(愛媛県喜多郡内子町、長岡山トンネルを過ぎた辺り)を早朝に出発。 この辺りの標高は100mに満たないが、次の44番札所大寶寺の標高は560mということで、これからひたすら上っていかなくてはならない。

(1位)66番札所雲辺寺(うんぺんじ)(標高900m) (2位)60番札所横峰寺(標高745m) (3位)12番札所焼山寺(しょうざんじ)(標高700m) (4位)45番札所岩屋寺(標高585m) ※この記事(下記参照) (5位)44番札所大寶寺(標高560m) ※この記事 (6位)21番札所太龍寺(たいりゅうじ)(標高505m) (7位)20番札所鶴林寺(かくりんじ)(標高495m) (8位)88番札所大窪寺(標高450m) (9位)27番札所神峯寺(こうのみねじ)(標高430m) (10位)65番札所三角寺(標高355m)

正確な時刻と場所は忘れたが、お昼頃に遍路小屋に到着。ここで宿泊出来るとベテラン遍路に聞いていたが、お世辞にも綺麗とは言えなかった(特にトイレ)。管理する人がいないのかもしれない。 着くまでは、疲労も考慮して本日はここで切り上げようと考えていたが、正直申し上げてこの小屋で一晩を明かす気にはなれなかった。 44番札所の近くの宿(民宿一里木)に電話したところ、運良く部屋が空いているのこと。 予定を予定を変更してこの日は宿に泊まることにした(1泊素泊まり4300円(当時))。

気合を入れ直して再び歩き出す。「遍路転がし」(上りの道)が続くが、己(おのれ)を鼓舞して一歩一歩前に進む。

大宝元年(701年)に安芸(あき)(広島)から来た明神右京、隼人の兄弟の猟師がその観音像を見つけて草庵を建てて祀った。そして奏上を受けた文武天皇の勅命で寺院を建立、元号に合わせて「大寶寺」と寺号を定めた。

その後、弘仁13年(822年)にこの地を訪れた弘法大師が密教を修法され、四国霊場の中札所と定められた。その際に天台宗から真言宗に改宗されたという。

急ぎ足で歩いていると、道中に休憩所(愛媛県上浮穴郡久万高原町直瀬付近)があった。この休憩所は古岩屋と呼ばれる岩峰(四国カルスト県立自然公園内にあり、国の名勝に指定)のそばにあり、観光客向けの施設と思われる。

自販機で飲み物を購入しようということで立ち寄ったのだが、ここには先客がいた。 その方は、御年(おんとし)60代のお遍路だった(自転車を使用)。 彼の自転車を見ると、後輪を挟むようにパニアバッグ(サイドバッグ)が設置され、荷物でパンパンに膨れ上がっていた。この荷物だけでも結構な重量がありそうだったが、更に大きなリュックを担ぎながら自転車に乗っていると言う。 しかし、この岩屋寺までの道中は坂が多く、歩きながら自転車を押してここまで辿り着いたが、雨に降られた為ここで2泊休んだそうだ。

お互いの自己紹介が一通り終わった後、突然この方が「ああーっ」(漫画的な表現をするならば「あ゙あ゙ーっ」と「あ」に濁点が付く感じ)と休憩所に響き渡るような大声で溜息をついた。

「疲れた。もうええわ。帰りますわ」と突然のリタイア宣言。

恐らくここに辿り着くまでに疲労困憊(こんぱい)になっていたのだろう。 正直申し上げて、私と会って踏ん切りが付いたみたいな雰囲気になってしまい少々困惑した。 「ここで諦めずに頑張りましょう」と一声かけたものの、決意は変わらないようだ。この方の年齢を考えるとそれ以上何も言えなかった。

もう少しゆっくり話をしたかったが、今日中に45番札所を打ち終えたい。ここから岩屋寺までは約2km。もうすぐ札所が閉まる時間だ。 帰りにここに立ち寄って改めて話をしようと考え、この方と挨拶をして別れた(しかし残念ながら、この休憩所を再訪した時には誰もいなかった)。

途中から荷物が軽くなったとはいえ、この時点で既に40km程の距離(しかも上り坂が多い)を歩いていた。 感じ方、感覚の話になるが、疲労がピークに達していたことにより肉体の五感を主とする状態から自分の魂(スピリット)が感覚の主体となっていたのかもしれない。 岩屋寺へ向かって歩いている時に、ふと「色即是空、空即是色」という言葉が心に浮かんだ。

今目の前にある景色(水・土・木・花・空・・・)も目に見えないものも、全てに魂があり、全ては一つである。

それらの存在が自分を迎えてくれたような一体感を感じてとても嬉しかったのだが、この時から背中にビリビリと電気が走るような感覚が続くこととなった。

岩屋寺に着いたのは午後16時50分頃だった。納経所が閉まる前に間に合ったことにほっとしたのだが、ここから10km以上の道のりを帰らなければならない(じっくり境内を拝観する心の余裕は無かったと思う)。 岩屋寺は四国カルスト県立自然公園内にあり、岩山と一体化したお寺で非常に興味深かった。

岩屋寺の寺伝によると、弘仁6年(815年)に弘法大師がこの地を訪れた際、神通力を備えた法華仙人という土佐出身の女性と出会った。仙人は空海に帰依して岩山を献上したとされる。 大師は不動明王の木像と石像を刻まれ、木造を御本尊として本堂に安置、石像を秘仏として奥の院の岩窟に祀った。また、岩山全体を御本尊の不動明王として護摩修法をされたと伝えられている。

「山高き谷の朝霧海に似て松吹く風を波にたとえむ」(弘法大師作とされる)という歌より山号が「海岸山」と名付けられた。

鎌倉時代中期に一遍(時宗の祖)がこの寺にした参籠(さんろう)・修行したことが『一遍聖絵(ひじりえ)に描かれている。

「人生は紙の裏表のようなもの。人は生きたようにしか死ねない」

四国巡礼編(20)菩提の道場(3)明石寺(43番札所)

聖地を訪れた旅の記事を書いています。

[第43番札所:源光山(げんこうざん) 円手院(えんしゅいん) 明石寺(めいせきじ)]

※別称:あげいしさんあげしさん四国霊場の本関所寺

お遍路25日目。 早朝に善根宿を出発し、43番札所明石寺へ。

6世紀に欽明天皇の勅願を受けた正澄上人が千手観世音菩薩(唐からの渡来仏)を祀る為、七堂伽藍を建立して開基したとされている。 天平6年(734年)に寿元行者(役小角(えんのおづぬ(おづの、おつの))(役行者(えんのぎょうじゃ))から5代目にあたる人物)が熊野より十二社権現を勧請し、修験道の中心道場となった。 弘仁13年(822年)に嵯峨天皇の頼願により弘法大師が伽藍を再興し、霊場に定めた。

時が流れ、建久5年(1194年)に源頼朝が命の恩人である池禅尼(いけのぜんに)の菩提を弔う為、伽藍を修復した。この時に山号を「現光山」から「源光山」に改めたとされる。 その後も武士からの崇敬が篤く、室町時代は西園寺氏の祈願所となり、寛文12年(1672年)には宇和島藩主伊達宗利が現在の御堂を建立したと伝えられている。

寺院名は本来「あげいしじ」だったが、現在は「めいせきじ」と呼ぶのが一般的らしい(地元の方からは、「あげいしさん」「あげしさん」とも呼ばれているそうだ)。 また、この寺院は四国霊場の本関所寺と呼ばれ、88ヶ所霊場全体の関所となっている。

明石寺を打ち終わり、先に進む。 道中にて、栄養ドリンクホッカイロのお接待を頂いた。5月とはいえ、標高の高い場所では朝晩冷え込むので有難かった。

お昼ご飯をお店で食べるのは久しぶりだ(コンビニで買ったおにぎりやパンで済ませることが多い)。雨が降っていたこともあるが、城下町の雰囲気をしばし味わいたかったのだろう。 ここでは奮発して(うな)を注文している(もうすぐ土用丑の日(2021年7月28日)だが、鰻を見ると食欲をそそられる)。 久しぶりに食べた鰻は美味しかった。更にお接待としてデザート(オレンジ)まで頂いた(感謝)。

食事後、5km程先にある十夜ヶ橋(とよがはし)(四国別格20霊場)に向かう。

※四国別格20霊場:番外霊場のうち20の寺院が集まって、1968年に四国別格20霊場として創設された。四国88ヶ所霊場に四国別格20霊場を加えると108霊場となり人間の煩悩の数と同じになることから、「百八煩悩消滅のお大師様の道」になるというのがその主旨らしい。

十夜ヶ橋の正式名称は、正法山永徳寺境外仏堂「弘法大師 御野宿所 十夜ヶ橋」というそうだ。

言い伝えによると、弘法大師がこの地を訪れた際に宿泊場所が見つからず、小川にかかる橋の下で一夜を過ごすことにした。寒さと空腹で寝付けず一夜が十夜にも感じられたことから「十夜ヶ橋」と名付けられたという。 この言い伝えにより、橋を渡る際に橋の上では杖をつかないというお遍路の風習が生まれた。

※2018年7月7日の台風7号による西日本豪雨の為、十夜ケ橋の境内が水没してしまったらしく、本堂・境内を再建中だそうだ(HPはこちら)。

ベテラン遍路より、この橋の下で野宿も出来るし、通夜堂にも宿泊可能と聞いていた(「修行」として国内で唯一橋の下での野宿が認められている場所らしい)。 しかし、少しでも先に進みたいという気持ちを抑えられず先に進んだ。

結局この日は、内子町(愛媛県喜多郡)の市街地を抜け、国道379号沿いのお遍路無料宿(長岡山トンネルを過ぎた辺り)に宿泊した(十夜ヶ橋から約14km)。 こういった施設をご用意頂いたことに改めて感謝したい。

※内子町は四国遍路の通過地及び大洲街道の交通の要衝としての歴史があり、特に江戸時代から明治時代にかけて和紙と木蝋の生産で栄えた。八日市道路に沿って当時の商家群の町並みが保存されており、1982年(昭和57年)に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。 内子町の市街地を通過したのは18時頃と思われ、先を急いでいたのだろう。残念ながら「古い町並みが残っているな」位の記憶しかない。

おまけ(その12)人の想い・念の話

聖地を訪れた旅の記事を書いています。

善根宿を始められた男性の身にラッキーな出来事が続けて起きたことについて、お遍路を終えてから自分なりに考察してみた。

人に善意を提供すると、相手はその好意に対して感謝する。お金を取らなければなおさらだ。 その「ありがとうございます」という想いが、提供者に幸運をもたらすのではないだろうか。

逆のケースも考えられる。 以前の記事に書いたご住職(歩き遍路をされていた方)より、当時人生訓のようなお言葉を頂いた。

「人の恨みを買うようなことはしないようにしなさい」

※特に恨みを抱えたまま亡くなられた方の怨念は恐ろしいとのこと。

この方は霊感の強い方らしく、一般人には見えない存在を知覚出来るようだった。 その力を世の為人の為に使いたい仏の道に入られたそうだ。

(1)修験道行者さんの話

後年出会った行者さんの話では、人の負の念は厄介だとのこと。 頼まれて祈祷・お祓(はら)をすることがあるそうだが、社会的地位の高い人は人からの妬(ねた)みや嫉妬(しっと)のエネルギーを受けやすいとのことだった。

コロナ流行前まで毎年のように参拝していた神社があった。 ある年の出来事になるが、近隣の神社巡りと合わせて楽しい時間を過ごしたものの、夕方になり家に帰らなければならないと思うと急に気が重くなったことがあった。

「残留思念・磁気に注意(特に長距離移動時)。念(のエネルギー)は同じ場所に今でも残っており、自分と同じ波動の念をくっつけることとなる」

※自分が磁石だとすると、残留磁気は砂鉄のイメージ(磁石を近づけると砂鉄がくっつく)。

人からの負の想念は止められないと思う。ではどうするか。 私の理想とするイメージは、滾々(こんこん)と泉から湧き出す水だ。この水を絶やしてはならないと思う。

水=溢れる感謝の気持ちだろうか。

感謝の気持ちが枯れてしまうと気枯れ=穢(けが)という状態になり、他者からの負の念を受け流せなくなるのではないだろうか。

四国巡礼編(19)菩提の道場(2)龍光寺(41番札所)~佛木寺(42番札所)

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[第41番札所:稲荷山(いなりざん) 護国院 龍光寺]

・御本尊:十一面観世音菩薩 ・創建年:(寺伝)大同2年(807年) ・開基:(寺伝)空海 ・住所:愛媛県宇和島市

※別称:三間(みま)のお稲荷さん稲荷寺

お遍路23日目の早朝、40番札所観自在寺を出発。 この日は、国道56号をひたすら北上した。

旅日記には、道中2回飲食物のお接待を受けたことと、地元の方(中年男性)との会話を書き記している。 高校野球の練習を見学するのが楽しみというこのおじさんより愛媛はスポーツが盛んであると力説された。高校野球・サッカー等で全国優勝している高校もあるとのことだった。

この日の旅日記には、「色即是空 空即是色 目に見えるものと見えないものは一つだ」と書き記している。

※色即是空・空即是色:般若心経の言葉。「物質的現象というものは、実体がないということである。実体がないということは物質的現象なのである」という意味らしい。

ここでは山門の役割を果たしている鳥居や、仁王像に代わる狛犬を見ることが出来る。龍光寺はかつての神仏習合の面影を色濃く伝えている霊場だ。

寺伝によると、大同2年(807年)に弘法大師がこの地を訪れた際、稲束を背負った白髪の老人に出会った。老人は「われこの地に住み、法教を守護し、諸民を利益せん」と告げて姿を消したという。 大師はこの老人が五穀大明神の化身と悟り、稲荷明神像を刻み堂宇(どうう)(四方に張り出した屋根のある建物)を建てて安置した。 このとき、本地仏として十一面観世音菩薩、脇侍として不動明王毘沙門天を彫り、「稲荷山龍光寺」と号し開創したと伝えられる。

その後、江戸時代前期には「立光寺」という名で神宮寺としての龍光寺が成立していたという。

明治時代の廃仏毀釈令により上段(神社)と下段(寺院)に分けられている。 上段の旧本堂は「稲荷社」となり、下段には本堂が新築され、本地仏十一面観世音菩薩像が御本尊として安置され、隣に弘法大師勧請(かんじょう)の稲荷明神像も一緒に祀られている。

[第42番札所:一カ山(いっかざん) 毘盧舎那院(びるしゃないん) 佛(仏)木寺(ぶつもくじ)]

※一カ山の「カ」:「王」偏に「果」と書く

以下、佛木寺の寺伝より。 大同2年(807年)に弘法大師がこの地で牛を引く老人と出会った。老人の勧めで牛の背に乗って進むと楠の大樹にかかっている宝珠を見つけたという。 この宝珠は、大師がから帰朝する際に、有縁の地を求めて三鈷杵(さんこしょ)と共に東方に向かって投げたものだった。 大師はこの地が霊地であると感得され、楠から彫造した大日如来像の眉間(みけん)に宝珠を埋め、堂宇を建立して開創した。

大師が牛の背に乗ってこの地に至ったことから家畜守護の寺とされている。

佛木寺の境内で一人の青年に出会った。絵を描きながら自転車でお遍路をしているという。その絵は水墨画で、味わいのある画風だった。 彼の話では、画商(美術商)に鑑定してもらったところ高い評価を得たとのことだったが、88ヶ所霊場の絵は、完成間近というタイミングで全て盗まれてしまったそうだ。

現在の状況を話した後、彼は善根宿:栄タクシーのご主人の話を始めた。

過去に栄タクシーで売上金を盗まれる事件が2回発生したことがあった。2回とも同じ人物(歩き遍路)が泊まった時に起きた出来事だったという。 その人物が100%犯人だと断定は出来ないが、他のお遍路から「彼をまた泊めるのですか?」と聞かれたご主人はこう答えたという。

「3度お金を盗まれても泊めてあげる」

この話を教えてくれた彼は、再び絵を描き始め、今は2周目のお遍路の道中だという。 その諦めない心にエールを送り、青年と別れた。

この日の宿は、43番札所明石寺(めいせきじ)近くの善根宿だった(佛木寺から明石寺までは、遍路道(山道)経由で約10km)。

ここで一人の男性に声を掛けられた。半年程前から善根宿を始めたということで、良かったら今晩泊まっていきませんかとのことだった。 しかし、既に別の善根宿に電話で予約を入れていた為、せっかくのお誘いだが丁重にお断りをした。

「善根宿を始めてから、人生いいことばかり起こっているんですよ」

その後、予約していた善根宿に到着。一泊千円で、美味しい食事(二食)とお風呂、寝床を提供して頂ける。洗濯もOKだった。 宿の主は女性の方で、亡くなられたご主人の意志を継いで善根宿を続けているとのことだった。