浙派 (読み)セッパ (その他表記)Zhè pài
デジタル大辞泉 - 浙派の用語解説 - 中国、明代の画派。銭塘せんとう(浙江せっこう省)出身の戴進に始まる、南宋院体画の流れをくむ職業画家の系譜。呉派に対していう。→北宗画
浙派という地縁的な派閥ができるについては,明の画院のあり方にも原因がある。画院画家は御用監の管轄下の武英殿あるいは仁智殿に待詔あるいは直(ちよく)し,工部の文思院に属する画家もいた。御用監も工部もともに宦官の勢力がつよく,画家の採用・昇進にも情実がまかり通ったようである。しかも画家は錦衣衛の武官の職に任じられ俸給もよかったので職に対する執着もつよく血縁・地縁の関係が顕著になったのである。明末・清初の画家藍瑛(らんえい)は浙派の殿将といわれるが,その画風は著しく文人画風を交じえている。嘉靖末から明末にかけては,実際には宮廷画派と文人画派の区別はしだいにあいまいになりつつあった。→院体画執筆者: 山岡 泰造
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
百科事典マイペディア 「浙派」の意味・わかりやすい解説
浙派【せっぱ】日本大百科全書(ニッポニカ) 「浙派」の意味・わかりやすい解説
浙派せっぱブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「浙派」の意味・わかりやすい解説
浙派せっぱZhe-pai中国の画派の名称。唐代以降,浙江地方には奔放な画法が伝来したらしく,明代の中頃,浙江杭州出身の戴進はこの伝統に基づき,南宋院体画風と元の李郭派などを折衷して独自の山水画風を創始した。その画系に浙江出身者が多かったことから,呉派に対立して浙派と呼んだ。戴進に次いで呉偉,張路が現れ,画風は粗放さを増し,同時に出身地も広範囲になった。文人画家に比して社会的身分も低く,職業画家らしい巧みな筆墨技も呉派の画人と異なったため,明末に尚南貶北論 (しょうなんへんぽくろん。南宗を尊び北宗をけなす論) が現れ,やがて描写形式のうえでも呉派に吸収された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
世界大百科事典(旧版) 内の 浙派 の言及
【山水画】より…いやむしろ,元代からさらに明代中期までは,北宋華北山水画から南宋院体画風をも含めたより幅広い伝統によった,元の四大家以外の系統の画家たちの方が山水画壇の中でより大きな位置を占める一方,明代も中期以後になって,元の四大家につながる画家たちが勢力を増してくる。前者はその代表とされる戴進が杭州出身であったため,明代に入って 浙派 と称され,後者は沈周(しんしゆう)を始めとして主に蘇州出身の画家によって形成されたため, 呉派 と呼ばれ,あわせて明代絵画史を画する二大潮流をなした。明末に至って董其昌は禅の宗派にたとえて,浙派を唐の宗室画家の李思訓・李昭道父子に始まる北宗(ほくしゆう),呉派を盛唐の詩人でもあり文人画家でもある王維に始まる南宗(なんしゆう)とする南北二宗論を展開し,董源,巨然から米芾,米友仁,元の四大家を経て呉派文人画に至る, 南宗画 の正統を継承すると自負する自己の史的位置を,山水画の始源にまでさかのぼって確立しようとした。…
【中国文学】より 【篆刻】より 【南宗画】より… では南宗画を唱えた意図は何であろうか。南北の系譜についていえば元以降,明・清にあってはどうかという点について董其昌,莫是竜は明言していないが,彼らの同調者あるいは後継者によれば,南宗は元の四大家ののち沈周(しんしゆう),文徴明,董其昌,清初の四王(王時敏,王鑑,王翬(おうき),王原祁(おうげんき))と続き,北宗は南宋画院の馬遠,夏珪,李唐,劉松年をうけて明の画院の戴文進にいたり,その後継者たちは浙江出身の戴文進にちなんで 浙派 と呼ばれ,沈周,文徴明ら蘇州(呉)出身者に代表される 呉派 文人画に対置される。そして浙派は呉派の側から狂態をたくましうする邪学であると非難されている。…
【明代美術】より関連語をあわせて調べる
二十四節気の一つで,二至 (夏至,冬至) ,二分 (春分,秋分) として四季の中央におかれた中気。元来,春分は太陰太陽暦の2月中 (2月後半) のことで,太陽の黄経が0°に達した日 (太陽暦の3月 2.
コトバンク for iPhone
コトバンク for Android
Copyright © DIGITALIO, Inc. All rights reserved.