地図の想像力 論理国語 解説
筑摩書房の論理国語から、若林幹夫著の「地図の想像力」を解説します。私たちが日常生活で日々使用している地図。それは「正確」に距離や方向を指し示しているものはほとんどなく、私たちが様々な物事に対して抱くイメージを反映した概念の図であると筆者は解説します。地図が正確ではない。その論理を解説します。
実際に目で見たことや、歩いて計った距離を基準にするのではなく、全て「聖書」に書いてあることが正しい、という強固な概念の上に組み立てられた地図なわけです。逆に言うのならば、「世界は円形でなければならない」し、「世界の中心はエルサレム」でなければならず、それ以外の現実などありえないわけです。なにせ中世のヨーロッパでは聖書に書かれていることは『絶対』で疑問を持つことすら許されないし、異議を唱えようものなら『異端」として「破門」されてしまうわけです。 (それぐらい別にいいじゃないかと思える人は、世界史の先生に質問してください。中世では、キリスト教から破門されたら、少なくとも『死』以上の酷い扱いを受けることになります。具体的にはあまりに残酷過ぎるのでここでは書きませんが……)
近代的な思考からすれば、T-O図のような「地図」は、世界に対する科学的な知識の不足と測量術の未熟さからくる、いまだ未発達な地図の姿であるかのように 思われるかもしれない。 (本文第3段落)
なので、少なくとも筆者はこのT-O図は科学的な未発達さが招いた非科学的な地図である、という意見には 反対の立場 を取っていることが、先を読まずとも推測出来てきます。(この先読みは評論を読むうえでとても大事)
未熟ではない過去の地図だが、ここで問題にしたいのは、今回の地図における科学性とは、地図が世界を概念化しイメージ化する一つの方法にすぎないということ、そして地図の歴史の中には、そのような 「科学」とは異なる多様な世界の概念化とイメージ化の方法 が見いだされるということだ。(本文第4段落)
異なる時代、異なる場所に住む人々がこれまで作りだしてきた、こうした世界の概念化とイメージ化の多様さを科学の名の下に「未熟なもの」として一括りにしてしまう時、人は、人間が世界と取り結ぶ関係の多様さと豊饒さを見失ってしまうだろう。(本文第4段落)
「これ、何?」
人は、見失ってしまう。➡何を?
主語述語を抜き出せば、どうしても目的語の存在を考えられるはずです。そうすると、何を人は失ってしまうのかと思いながら読み直せば、「人間が世界と取り結ぶ関係の多様さと豊饒さ」が見えてきます。
異なる時代、異なる場所となっていますが、 異なる時代は過去。異なる場所は、自分が住んでいる場所以外の、と置き換え られます。
どうしても人間は、「今いる自分たちの場所」を基準にしてしか物を考えることができません。そして、 自分たちの考え方が素晴らしい、優れていると思いたい ものです。
なので、過去の世界よりも圧倒的に進歩していると間違いなく思える「科学」というものを使って、 「過去の作品は全て科学的に『未熟な』存在なのだ」と思い込んでしまうと、それだけ視野が狭くなります。
むしろ、科学で判明されていないからこそ、そこには人々の自由な発想や想像力が生まれていました。知らないからこそ「こうだったのではないか」という概念が綺麗に形として残り、 その豊かさは同じ時代、同じ場所に住んでいては見えないし、作れなかったものです。
それらを知り、どんな思いでこれを創ったのかを想像する余地が私たちには残されているはずなのに、それを「未熟だ!!」と一言で一括りにしてしまうのは、 とても残念なことだ と、筆者は語っているわけです。
人間が世界と取り結ぶ関係の多様さと豊饒さを見失ってしまうだろう。
第5段落~第9段落 地図が表現する世界とは右に述べたことから言えるのは、概念やイメージとしての 地図が表現する世界とは 、「世界そのもの」などではなく「人間にとっての世界」、 人間によって見られ、読み取られ、解釈された「意味としての世界」である ということだ。それは、ある社会で人々が 世界や社会を見る見方を表現した集合的な表象 なのだ。(本文第5段落)
地図が表現する世界=人間によって見られ、読み取られ、解釈された「意味としての世界」=世界や社会を見る見方を表現した集合的な表象 すごーくわかりづらくなっていますが、ひとつひとつ見ていきましょう。まず、「地図が表現する世界」という言葉の意味ですが、地図をただの記号や現実を写し取った写真のようなものだと認識してしまうと、理解できません。ある意味、グーグルマップなどの正確な地図に慣れてしまっているからこそ、 地図が描き手による創作物 であることに現代の私たちは気が付きにくくなっています。
ここをわかっていると、人間によって見られ、読み取られ、解釈された「意味としての世界」という部分の理解が進みます。 そして、その現実を「読み取り」、製作者の「解釈」を加えて、描き出される。 たとえばT-O図ですが、中世ヨーロッパのキリスト教社会では、まず世界の中心は聖地エルサレムでなければいけません。それは彼らの世界では聖地が世界の中心であるという「意味づけ」が成されているからです。 これは現代でも同じで、私たち日本人は自然と日本が中心に据えられた地図を日常的に目にしていますし、 それで世界を理解していますが、これは日本でしか使われていない地図です。 世界で主に使用されているのは、ヨーロッパを中心に据えた↑此方だったりするんです。 物の見方というのは「何を中心に据えるか」というたった一つの基準で、同じものでも全く違う意味合いを持って見れるものが殆どです。これが製作者の「意図」であり、「意味づけされた世界」の見方になります。「いや、地図は正確な情報であるにすぎないよ」
ここでの意味とは、世界を記号によって記述し、理解する人間の営みにおいて記述され、表現されるものすべてを指す。(本文第7段落)
けれど、それに 「数字」という明確な規準を付けると、とたんに感覚に頼っていた言葉がすっきりと理解できるようになります。 そしてお互いの距離の感覚のずれも理解できるようになるのですが、この「数」という概念。人間が人間の為に作り出したもので、動物にはそんなもの必要ありません。(もしかしたら動物には動物なりの理解する記号があるのかもしれませんが……)
標高も距離も「人間にとって」の高さや隔たりであって、自然界には「客観的な距離」など存在しない。(本文第8段落)
また、地図に標高や距離が正確な縮尺によって表現されているのは、それが地図の製作者や利用者によって 「有意味」な情報であると認められている からである。逆に言えば、そのようなものが「無意味」であれば、地図はそうした 数量的な情報を無視して描かれることも可能 である。(本文第8段落)
神話で主観な地図「科学的」で「客観的」な地図の存在を支えている「科学」や「客観」も、それが世界を記述し理解するための記号による意味の体系であるという点では「神話」や「主観」と変わりがないのだ。(本文第9段落)
「科学」や「客観」も、「神話」や「主観」と変わりがない。
変わりがない=同じである、と置き換えると
「科学」=「神話」 、 「客観」=「主観」 という、とんでもない=関係が成り立ってしまいます(笑)
世界を記述し理解するための記号による意味の体系であるという点では
という条件です。地図が世界を記述し理解する為に数字や縮尺や方向などを使って描かれたもので、世界地図が日本中心か世界中心かで全く見え方や印象が変わってくるように、意味づけが変わってくるものなんだよ、という点で考えれば、地図を描くための必要な科学技術も、客観性も、製作者の意図によっていくらでも 作為的 に使えるわけです。
そういう意味で、客観性など存在せず、主観的な世界の見方になってしまいますし、 科学的な事実や現実ではなく、「こうあってほしい」という願望が入り込んだ「全知全能の神の物語」 になってしまうわけです。
そう、歪んだ地図の誕生です。
第10段落~第12段落 地図は世界という目に見えない姿に対する「認知」を表したものある社会に属する人々にとっての「世界」の姿は、その社会の言語が世界をどのように分節化しているかということに強く規定されている。(本文第10段落)
さて、 まとめの部分 に突入です。
同じ「現実」を映し出している「現代」の地図であるはずなのに、 どこを中心として見るかだけで、ここまで見方が変わってきてしまいます。
そして、ある社会、ある文化圏で使われている 言語を通して、人々は世界を認識 します。自分たちが日常的に使っている道具である「言語」は、世界を認知するために必要な記号であり、媒体であるわけです。日本は四季が存在する、季節感がとても多い島国ですが、季節を表すものや表現方法が本当に豊かです。もちろん単純な言い方もありますし、それで意味合いは十分に通じますが、和歌・俳句などに取り入れられている季語や歳時記などを調べてみると、それこそ膨大な言葉があります。更には1日の時間を表す言葉も、多種多様。
黎明、払暁(ふつぎょう)、彼者誰(かわたれ)、明け、夜明け、暁、東雲(しののめ)、曙、 などなど。
けれど、英語で同じ日の出前の時間帯を表す言葉は、 dawn、before sunrise 。圧倒的に日本語の方が表現する言葉が多いです。 英語は合理性を根幹に発達した言語なので、一つの現象に複数の言葉を当てることはめったにありません。
個人的に「春爛漫」を英訳すると「spring in full bloom」になるのは、どうしても納得がいかなかったりします……じゃあ何が良いんだよと言われると思いつかないのですが、何かが違うのですよ。英語は花の事しか表していない。爛漫って、光り輝いている光の意味があります。長い冬を超え、植物が一斉に芽吹く命の輝きを喜ぶ表現ですが、それはどこに行ったんだろうとどうしても思ってしまうのです……細かいと言われてしまえばそれまでなのですが。
アイオワの玉葱 論理国語 解説 bunlabo.com書記記号によって描かれた地図もまた、人間が世界と出会う際に用いる一つのメディアである。(本文第10段落)
生まれ育った土地の環境や文化が多大な影響を人間に与えること は、多くの評論文で解説されていることですが、科学的な根拠に基づいた正確な「地図」であったとしても、毎日見ていると日本人はナチュラルに「ああ、世界は日本が中心なんだ」と自然と思ってしまうし、欧米人は「ああ、世界の中心はヨーロッパとアメリカなんだ」と思ってしまいます。
これが例えば南半球に住んでいる人の地図であれば、世界は全く違うように見えるでしょう。言語と同じように、 地図もまた世界を認知するうえで、その入り口になる存在です。 筆者は世界と出会う最初のメディアだと言いますが、確かに世界の姿を認識するのは、全世界を旅して実感することなど不可能です。地図を見てなんとなく頭の中で世界の姿を認知するので、 実際に見たことが無いものを私たちは当たり前の存在として受け入れて いますよね。考えてみれば、不思議なものです。地図が与える影響はとても大きいことが分かります。
T-O図と「科学的」な地図の違いを、「遅れた地図」と「進んだ地図」の違いと理解してはならない。それは異なる世界像をもつ人々の、世界に対する異なる理解、世界との異なる出会いの形を表現しているのである。(本文第11段落)
T-O図を作成した人にとって、世界の中心はエルサレムでなければならないのです。アメリカ大陸など存在もしていなかった、まだコロンブスが生れ落ちていない、ヨーロッパの人々が思い描く大航海時代前の世界の姿は、T-O図でなければならなかった。世界の中心がエルサレムって、オスマン・トルコやロシアの広大さが解っていれば、おかしいと当時の人々は気が付いていたはずです。けれども、科学的な事実を知っていたとしてもそれは全て 「無視」 されていたわけです。
地図=世界の再現ではない地図製作者は、世界という多様性に満ちた存在の中から、自らが制作する地図に記載されるべき現象を選び取り、選び取られた現象に関する情報を、記号という形で地図の上に描き込んでゆく。こうして描かれた地図=世界像が人に読み取られる時、そこに立ち上がるのは地図が描き取った対象としての 世界の文字通りの「再現」ではない 。(本文第11段落)
つまり、地図は「世界」をそのままに描き表したものではなく、何かしらの製作者の意図で、描き表したい部分だけが選び取られ、都合が悪い部分は切り落とされた、 何かしらの「作為的な創作物」 であることを、私たちは理解しなければなりません。
このことを言い表す、より適切な表現としては、「地図とは世界に関するテクストである。」というべきであろう。(本文第12段落)
なので、 記号は作成者の「描く」行為と閲覧者の「読み取る」行為 が必ず起こります。
描き手には描き手の、読み手には読み手の世界像や規範、価値意識や欲望があり、それらが描かれ、読まれる世界に固有の構造や表情を与え、そこから様々な意味=「世界」が生産される。地図とはそのような世界像の生産の場である。(本文第12段落)
それは相手が間違っているわけでも、自分が間違っているわけでもありません。 そもそもの「世界」の認識や認知が違うから、ズレて当たり前なのです。 むしろ、ズレていることの方が普通であり、同じものが同じように見えることの方が、ある意味奇跡なのかもしれません。
それらを 「想像」することが出来る知識と教養が、これからは必要になってくるのでしょう。
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