旧浅草猿若町を歩いてみた。
旧浅草猿若町を歩いてみた。

旧浅草猿若町を歩いてみた。

広重が描いた『絵本江戸土産』の「猿若町」です。まずは、その「猿若町」について。 ■旧浅草猿若町 台東区浅草6-5-1「猿若町」の町名案内板です。「この地はその昔、丹波国(現在の京都府)園部藩主小出氏の下屋敷であった。天保12年(1841)、徳川幕府は天保の改革の一環として、この屋敷を公収し、その跡地に、境町・葺屋町(ふきやまち)・木挽町(こびきちょう)、いずれも現・中央区日本橋人形町あたりにあった芝居小屋の移転を命じた。芝居小屋は、天保13年から翌4年にかけて当地に移り、猿若町はできた。芝居小屋の移転とともに猿若町は、一丁目から三丁目にわけられ、一丁目には中村座および薩摩座、二丁目には市村座お…

■旧浅草猿若町 台東区浅草6-5-1「猿若町」の町名案内板です。 「この地はその昔、丹波国(現在の京都府)園部藩主小出氏の下屋敷であった。天保12年(1841)、徳川幕府は天保の改革の一環として、この屋敷を公収し、その跡地に、境町・葺屋町(ふきやまち)・木挽町(こびきちょう)、いずれも現・中央区日本橋人形町あたりにあった芝居小屋の移転を命じた。芝居小屋は、天保13年から翌4年にかけて当地に移り、猿若町はできた。芝居小屋の移転とともに猿若町は、一丁目から三丁目にわけられ、一丁目には中村座および薩摩座、二丁目には市村座および結城座が移った。そして、三丁目には河原崎座が移転してきた。このうち中村座、市村座、河原崎座が世にいう「猿若三座」である。町名は、江戸芝居の始祖といわれた猿若勘三郎の名をとってつけたという。」 猿若町は浅草の北東部。天保の改革により、風紀を乱すとの理由から江戸市中の芝居小屋が強制的に一ヶ所に集められた場所でした。当初は、芝居小屋を廃止させることを考えていましたが、北町奉行・遠山左衛門尉景元(遠山の金さん)の献言により一ヵ所に集めて取り締まりを強化する方針に変更されたと言われています。遠隔地に新設されたこの芝居町は、江戸の歌舞伎劇場の創始者とも言える、猿若勘三郎、のちの中村勘三郎の「猿若]から来ています。しかし、当時としては僻地でしたので、当初は客が入らず、相当苦労しました。しかし、中村座、市村座、森田座のいわゆる江戸三座が、役者や作者の相互貸し借りなどの新機軸を打ち出し演目を充実させると、再び人気に火が点き、客足が戻って来ました。天保13年(1842)~明治5年(1872)の約30年間、猿若町には幕府公認の芝居小屋、「中村座」「市村座」「森田座」の猿若三座が繁栄を極めていました。大きな3つの芝居小屋を中心に他に小さな芝居小屋も集まって来ていました。そうして、浅草寺参拝や芝居見物後の吉原遊び、或いは小塚原の処刑見物などとあわせ、浅草界隈は往時の人形町を彷彿させる一大歓楽街に成長して行ったわけです。

<「平成中村座発祥の地」記念碑です。隅田公園の山谷堀広場に建っています。歌舞伎役者の18世中村勘三郎(初演時は5代目中村勘九郎)と演出家の串田和美らが中心となって、浅草・隅田公園内に江戸時代の芝居小屋を模した仮設劇場を設営して「平成中村座」と名付け、平成12年(2000)11月に歌舞伎『隅田川続俤 法界坊』を上演したのが始まりである。翌年平成13年(2001)以降も、会場はその時によって異なるものの、ほぼ毎年「平成中村座」を冠した公演が行われていたが、座主の18世中村勘三郎が平成24年(2012)12月に亡くなった為、2013年は公演を行わなかったが、勘三郎の遺志を継いだ長男の6代目中村勘九郎が座主を引き継ぎ、2014年に実弟の2代目中村七之助、2代目中村獅童と共にアメリカ合衆国・ニューヨークで平成中村座復活公演を行った (ウィキペディアより) >

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