人物事典風雲伝
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伴兼之・榊原正治とは伴兼之(ばん-かねゆき)、庄内藩出身の志士でしたが、西郷隆盛が薩摩に下野すると、榊原正治(さかきばら-まさはる)と共に遠く山形の地から鹿児島に渡り、私学校に入ります。

伴兼之(ばん-かねゆき)、庄内藩出身の志士でしたが、 西郷隆盛 が薩摩に下野すると、榊原正治(さかきばら-まさはる)と共に遠く山形の地から鹿児島に渡り、 私学校 に入ります。 2人は大変優秀で、私学校はフランスに留学させようと派遣を決めていたと言います。 しかし、1877年に鹿児島士族が決起して薩摩軍が創設されると、薩摩藩と関係なかった2人は、西郷隆盛や 篠原国幹 らから、庄内に帰って国家のために尽くしなさいと強く説得されました。

西郷隆盛は戊辰戦後の戦後処理にて、庄内藩に対して非常に寛大な処置をするよう、黒田清隆に命じました。 庄内藩は、幕命とは言え、江戸の薩摩藩邸焼き打ちを実行した際に薩摩藩士は64名の死者を出しており、戊辰戦争のキッカケを作っています。 しかし、長州の 大村益次郎 の大反対を押し切って、庄内藩の領地はそのまま安堵させたのです。

伴兼之は、五番大隊一番小隊長・河野主一郎に属して、 熊本城 攻囲軍にも参加。 その後、3月3日、 田原坂 へ転戦しますが、3月21日、伴兼之は熊本の植木( 田原坂の戦い )にて戦死しました。 20歳でした。

榊原正治(榊政利)は、田原坂にて伴兼之の亡骸を守りきったとされています。 その後、薩軍が後退すると、 人吉城 での戦いの御船戦にて咽喉に重傷を負いました。 榊原正治( 榊原政治 )は、延岡の病院(宮崎県の成就寺)に入って手当てを受けましたが、5月10日に戦死しています。享年18。 このように、若き2人は西郷隆盛のために命を捧げました。

2人は現在、鹿児島の南洲墓地に眠っていますが、墓は 庄内の方向を向いています。 他の戦死者と同じ方向を向いています。2人の近くにある福岡出身の死者の墓は逆の方向、つまり福岡を向いています。とのご指摘も賜りました。

伴兼之には12歳年上の兄・ 鱸成信 (すずき-なりのぶ)がいました。 廃藩後に活路を求めた兄・鱸成信は、酒井忠篤の内意を受けて新政府軍に入隊しており、皮肉にも西南戦争にも従軍し、田原坂にて兄弟は敵同士となったのです。 迫田大隊に属し、陸軍少尉となっていた鱸成信は、先の高瀬の戦いでキズを負い、久留米病院に送られていました。 しかし、再び戦場に入って、熊本城に籠る熊本鎮台と連絡をとるため、強行突破の指揮を取りましたが、4月6日に田原坂で戦死しています。享年34。

高田哲哉 日本の歴史研究家 高田哲哉と申します。 20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。 日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。 資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。 この著者の最新の記事 蔦屋重三郎をわかりやすく3分で要点解説【べらぼう】江戸文化の名プロデュー… ジョン万次郎 中濱萬次郎・中浜万次郎 土佐の漁師 漂流しアメリカに渡る 函嶺洞門・函嶺洞門バイパス (箱根・国道1号) と箱根駅伝 吉良上野介屋敷跡~本所松坂町公園の吉良邸跡 坂本龍馬の解説【坂本龍馬の人物像】詳細解説版 和宮【和宮親子内親王】公武合体の象徴とされた皇女 関連記事 御陵衛士 油小路の変で壊滅 知られざる活動内容とは? 堀次郎(伊地知貞馨)の解説 大久保らと公武合体に奔走するも・・ 来島又兵衛 ~禁門の変にて散った槍・馬術に優れた文武両道の豪傑 おりょう 楢崎龍 お龍 (坂本龍馬の妻) 坂本龍馬との出会いと寺… 遠藤謹助 日本近代造幣の父で長州五傑の一人 コメント この記事へのコメントはありません。 この記事へのトラックバックはありません。 カテゴリー 共有御礼申しあげます

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