海底から引き揚げられた「紫電改」の操縦席には「何もなかった」…この紫電改に乗っていたのは誰なのか、元搭乗員が「特定しようとしなかった」ワケ
海底から引き揚げられた「紫電改」の操縦席には「何もなかった」…この紫電改に乗っていたのは誰なのか、元搭乗員が「特定しようとしなかった」ワケ

海底から引き揚げられた「紫電改」の操縦席には「何もなかった」…この紫電改に乗っていたのは誰なのか、元搭乗員が「特定しようとしなかった」ワケ

元海軍戦闘機搭乗員の宮崎勇氏が、戦後の人生や紫電改の引き揚げに関わった経験を振り返った。戦後33年の1978年、NHKからの依頼で愛媛県の海底から紫電改を引き揚げ、感動の瞬間を共有した。戦争体験を語らなかった宮崎氏だが、紫電改の発見を契機に戦争の記録をまとめることに。2012年に亡くなるまで、彼の思い出は多くの人々に語り継がれている。

太平洋戦争で軍人として最前線で戦ったのは、明治後期から大正、昭和初期までに生まれた人たちだった。戦後80年。当事者のほとんどが鬼籍に入り、「忘れてはならない」の掛け声とはうらはらに、確実に戦争の記憶は遠ざかってゆく。そして終戦後、当事者たちがどのように生きたかということは戦争中の出来事以上に知られていない。だが、戦後、焼け跡からの復興を担ったのもこの世代だ。ここでは、私が30年以上にわたり、直接インタビューした元海軍戦闘機搭乗員の「戦後」をシリーズで振り返る。海軍の戦闘機搭乗員は、戦後50年の平成7(1995)年に1100名が存命だったのが、それから30年が経った令和7(2025)年10月現在、数名の存命が確認できるに過ぎない。

最前線に投入された戦闘機搭乗員の8割が戦没した苛烈な戦争を生き延びた彼らは、どのような戦後を過ごしたのか。今回は戦後、愛媛県の海に沈む紫電改の引き揚げに尽力した歴戦の戦闘機乗り・宮崎勇・元少尉を紹介する。

紫電改は誰のものだったのか

宮崎の心身に刻まれた戦争の傷跡は、なかなか癒えるものではなかった。夜眠っていて、頭の上をハエや蚊が飛んだりすると、突然『撃てーっ!』と叫んで目覚めることもしばしばだった。広島の原爆ドーム前で寝たときか、大村で長崎の原爆の被爆者の救難活動をしたときかはわからないが、放射能の被曝によると思われる白血球異常にも長いこと悩まされた。

「遺族の人や共産党など、いろいろな方面から、ほんとうはわかっているのに隠してるんだろう、などとずいぶん言われましたが、ほんとうにわからんのですよ。ただし、あのせまい湾内に、山側から飛んできてあれだけみごとな形で不時着水するのは並大抵のことじゃない。相当な技倆をもった搭乗員であることだけは間違いないと思います」