豊臣秀長
豊臣秀長

豊臣秀長

豊臣秀長は何をした人?豊臣秀長(羽柴長秀、木下小一郎)は、現在の愛知県西部にあたる尾張国の武将です。豊臣秀吉の実弟で、兄を影のように支えた分身です。宰相や大和大納言と呼ばれて讃えられました。秀吉の天下統一に貢献し、豊臣政権の基盤となりましたが、秀長の死後、秀吉の行いは醜悪なものとなり、没落してしまいます。享年52。

1540年、豊臣秀長は 尾張国 ( おわりのくに ) ・愛知郡中村郷の貧しい家に生まれます。畑仕事をして暮らしますが、3つ年上の兄・秀吉に 誘 ( さそ ) われて織田信長に仕え、 影 ( かげ ) のように兄の出世をサポートしました。信長の死後、豊臣秀吉の天下取りがはじまるとふたりで協力し、四国 征伐 ( せいばつ ) では兄に代わって指揮官をつとめて長宗我部元親を降す 活躍 ( かつやく ) をしました。

政権の大黒柱となるが…

四国 攻 ( せ ) めの功績で兄から 大和国 ( やまとのくに ) を拝領すると、正しい政治を行い、寺院が多く難しい地域も見事に統治しました。検地など豊臣政権の 基盤 ( きばん ) づくりに 貢献 ( こうけん ) し、 宰相 ( さいしょう ) と呼ばれます。九州 征伐 ( せいばつ ) でも 活躍 ( かつやく ) しましたが、材木管理を任せていた部下の管理不行き届きで兄の 怒 ( いか ) りを買ってしまいます。

最後と死因

晩年はからだの具合が悪い日が続き、病に 臥 ( ふ ) せがちになります。結局、兄から対面を 拒否 ( きょひ ) されたまま豊臣秀長は 大和国 ( やまとのくに ) ・郡山城で亡くなりました。1591年2月15日、死因は 結核 ( けっかく ) またはヒ素中毒。52歳でした。ヒ素による毒殺説もあります。

領地と居城

大和国 ( やまとのくに ) 、 紀伊国 ( きいのくに ) 、 和泉国 ( いずみのくに ) を合わせた110万石が豊臣秀長の領地でした。兄・秀吉の大坂城と京に 隣接 ( りんせつ ) する地域を治めました。

豊臣秀長と関わりが深い武将

豊臣秀長の性格と人物像

豊臣秀長は「調整力に優れた人」です。

補佐 ( ほさ ) という役でこそ 輝 ( かがや ) ける、細やかな気づかいが得意です。自身も相当の実力者ですが決して目立とうとせず、全体の調和や温度感を大事にします。ほんの少しのほころびにも、気づいて対処できます。

偉 ( えら ) ぶったところがなく、 誰 ( だれ ) からも 慕 ( した ) われる 人柄 ( ひとがら ) でした。

農民暮らしが気に入っていました。畑しごとが好きだったので、はじめは兄の 誘 ( さそ ) いに乗り気ではありませんでした。兄に説得された母のすすめで武士になっています。

農夫から領主になるまでに必要な知識を身につけた勤勉さが示すように、まじめで努力家です。 生来 ( せいらい ) 、温和で 寛大 ( かんだい ) な心の持ち主であったことも政治に活かされています。

家族や兄を 敬 ( うやま ) う気持ちが強く、身内に対して悪評が立つことを 嫌 ( きら ) います。秀吉が道をあやまろうとするとそれを 咎 ( とが ) めました。また、秀吉へのとりなしを 頼 ( たの ) む諸大名を親身になって助け、多くの人の地位を守りました。

武芸は得意ではありませんが、足軽兵のけんか 騒動 ( そうどう ) の仲裁に入って、 気迫 ( きはく ) で 黙 ( だま ) らせたことがあります。

実際に着用していたと伝わる 甲冑 ( かっちゅう ) 『 金小札紫糸威二枚胴具足 ( きんこざねむらさきいとおどしにまいどうぐそく ) 』が残っています。

能力を表すとこんな感じ

豊臣秀長が際立っていたのは 人柄 ( ひとがら ) の良さで、年下からも 慕 ( した ) われました。目立たないタイプですが、じつはあらゆる面で優れており、兄にも引けをとりません。

豊臣秀長の面白い逸話やエピソード

うぐいす餅がつくられたきっかけになっている

紀州 征伐 ( せいばつ ) 、四国 征伐 ( せいばつ ) の功績によって、秀長は秀吉から 大和 ( やまと ) 一国を領地として 与 ( あた ) えられました。これを受けて、秀長は兄を 大和 ( やまと ) に招いて茶会を 催 ( もよお ) します。

ありきたりの 茶菓子 ( ちゃがし ) では、兄を 驚 ( おどろ ) かせることはできない。そう考えた秀長は、お 抱 ( かか ) えの 菓子 ( かし ) 職人である菊屋治兵衛に「めずらしい 菓子 ( かか ) を用意してほしい」と 頼 ( たの ) みます。

これは大変なお役目を 仰 ( おお ) せつかったぞと治兵衛は思案し、これまでにない 菓子 ( かし ) をつくります。菊屋は、ひとくちサイズの 餅 ( もち ) でつぶあんを包み、きなこをまぶした 餅菓子 ( もちがし ) を用意しました。

これを食べた豊臣秀吉は、うまい!と笑みを 浮 ( う ) かべて「うぐいす 餅 ( もち ) と名付けよ」と、たいそう気に入って商品名まで付けました。

豊臣秀長の有名な戦い

長島一向一揆 ( ながしまいっこういっき ) #1:1571.6.4 〜 6.8 ● 織田軍5万 vs 本願寺軍10万 ○ #2:1573.10.21 〜 11.19 ○ 織田軍8万 vs 本願寺軍2万 ● #3:1574.7.31 〜 10.13 ○ 織田軍12万 vs 本願寺軍10万 ●

長島一向 一揆 ( いっき ) で豊臣秀長は勝っています。

越前 ( えちぜん ) で起こった 土一揆 ( どいっき ) の対応に向かった秀吉に代わって参戦しました。織田信長の部隊とともに 攻 ( せ ) め入り、一隊を率いて 篠橋砦 ( しのはしとりで ) を落とす 活躍 ( かつやく ) をしました。

三木合戦 ( みきかっせん ) 1578.5.5 〜 1580.2.2 ○ 織田軍?万 vs 別所軍7千5百 ●

別動隊で三木城の北にある 丹生山 ( たんじょうさん ) の 淡河城 ( おうごじょう ) を 攻 ( せ ) めました。はじめ苦戦しますが、淡河定範を 逃亡 ( とうぼう ) させて 攻 ( せ ) め落とします。この働きで補給路の分断に成功しました。

山崎の戦い ( やまざきのたたかい ) 1582.7.2 ○ 羽柴軍4万 vs 明智軍1万6千 ●

黒田官兵衛と 右翼 ( うよく ) を担い、天王山を下った前線で明智軍の松田政近と交戦しました。

小牧・長久手の戦い ( こまき・ながくてのたたかい ) 1584.4.23 〜 12.13 △ 羽柴軍10万 vs 織田&徳川軍3万 △

滝川雄利が守る松ヶ島城を 攻 ( せ ) めて開城させました。終戦に向けた織田信雄との講和を担当し、成功させています。

四国征伐 ( しこくせいばつ ) 1585.5.? 〜 8.20 ○ 羽柴軍10万 vs 長宗我部軍4万 ●

四国 征伐 ( せいばつ ) で豊臣秀長は勝っています。

豊臣秀長のターニングポイントになった戦いです。秀吉の体調不良により、指揮官として四国 攻 ( せ ) めの 征伐軍 ( せいばつぐん ) を率いました。兄と 一緒 ( いっしょ ) ではなく、秀長を総大将とした大軍で戦果をあげたはじめての合戦です。この戦いに向けて、心配する秀吉に「任せてほしい」と告げて臨みました。

根白坂の戦い ( ねじろざかのたたかい ) 1587.5.24 ○ 豊臣軍15万 vs 島津軍3万5千 ●

秀吉とふた手に分かれて、島津領を 日向国 ( ひゅうがのくに ) から 侵攻 ( しんこう ) する軍勢の総大将を務めました。根白坂に 砦 ( とりで ) を築いて島津義弘を 迎撃 ( げいげき ) し、 壊滅的 ( かいめつてき ) な 被害 ( ひがい ) を 与 ( あて ) えます。この勝利により島津氏を 降伏 ( こうふく ) させ、九州地方を平定しました。

豊臣秀長の詳しい年表と出来事

豊臣秀長は 西暦 ( せいれき ) 1540年〜1591年( 天文 ( てんぶん ) 9年〜 天正 ( てんしょう ) 19年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に 活躍 ( かつやく ) した武将です。

15401竹阿弥の子として尾張国に生まれる。156425兄・秀吉にスカウトされる。農夫をやめて織田信長に仕える。改名 → 木下(小一郎)長秀157031”金ヶ崎の戦い”朝倉義景との戦に参加。兄・秀吉と最後尾を担って信長本隊を退却させる。157233浅井家臣、宮部城主・宮部継潤を調略する。157334”一乗谷城の戦い”朝倉義景との戦に参加。朝倉家滅亡”小谷城の戦い”浅井久政・長政父子との戦に参加。浅井長政の妻・市と3人の娘を救出する。浅井家滅亡兄・秀吉が近江国・長浜城の城主となる。城代を務める。157435”第3次長島一向一揆”一向宗門徒の殲滅戦に参加。篠橋砦を攻める。157536改名 → 羽柴長秀157738兄・秀吉が中国地方の平定を任じられる。秀吉から但馬国の平定を任される。”竹田城の戦い”太田垣輝延が篭る山名領・竹田城を攻め落とす。竹田城の城代になる。157839”三木合戦”別所長治との戦に参加。157940淡河定範が篭る淡河城を攻めるが、奇襲により敗れる。定範が後退したため三木城の補給路を分断することに成功。但馬国から丹波国に侵攻する。綾部城を陥落させる。”第2次黒井城の戦い”明智光秀の指揮下で黒井城攻めに参加。158041山名堯熙の有子山城攻めに参加。但馬国・有子山城に入る。158142*藤堂高虎に小代一揆の討伐に向かわせる。”第2次鳥取城攻め”吉川経家との戦に参加。鳥取城を包囲する陣城を指揮する。158243”備中高松城の戦い”毛利輝元との戦に参加。鼓山に陣を張る。主君・織田信長が死亡。【本能寺の変】”山崎の戦い”明智光秀との戦に参加。黒田官兵衛と天王山に布陣。松田政近らと交戦する。158344”賤ヶ岳の戦い”柴田勝家との戦に参加。兄・秀吉から播磨国と但馬国を拝領する。播磨国・姫路城と但馬国・有子山城を居城にする。158445”小牧・長久手の戦い”織田信雄&徳川家康との戦に参加。松ヶ島城を開城させる。織田信雄との講和をまとめる。158546”第2次紀州征伐”雑賀衆、根来衆の討伐戦に参加。甥・羽柴信吉(秀次)と副将を務める。兄・秀吉から紀伊国、和泉国など64万石を拝領する。紀伊国・和歌山城を築城、居城にする。”四国征伐”総大将として長宗我部氏の討伐に向かう。阿波国から四国に上陸し、一宮城、岩倉城などを落とす。長宗我部元親を降す。兄・秀吉から大和国を拝領する。所領が100万石を超える。大和国・郡山城を居城にする。参議に就任。158647盗賊の追補を通達。【廊坊家文書】検地を行う。5か条からなる掟を制定。【法隆寺文書】”北山一揆”奥熊野の地侍の一揆を鎮圧する。権中納言に就任。改名 → 豊臣秀長”九州征伐”日向表陣立の総大将として島津氏の討伐に向かう。158748”根白坂の戦い”高城を包囲。根白坂に砦を築いて島津軍を迎撃、壊滅させる。島津家久を降伏させる。権大納言に就任。158849材木管理をしていた代官・吉川平介の着服が発覚。これに兄・秀吉が激怒する。159051兄・秀吉が小田原征伐に向かう。畿内の留守を預かる。豊臣秀吉の天下統一が成る。159152大和国・郡山城で病死。
  • 豊臣秀長 – Wikipedia
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  • 本家菊屋の歴史|本家菊屋
  • 【漫画】豊臣秀長の生涯~秀吉を天下人にした男~【日本史マンガ動画】 – YouTube
  • 矢部健太郎監修『超ビジュアル!戦国武将大事典』西東社
  • 小和田哲男監修『ビジュアル 戦国1000人』世界文化社
公開日:2022/03/08 更新日:2025/02/20

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