【サザエさんの都市伝説】姉さん……それはタラちゃんじゃないよ
タラちゃんが交通事故で亡くなり、一年が経っていた。今だに姉さんはショックから立ち直れないでいる。だけど傍から見れば以前となんら変わりのない元気な姉に見えるだろう。それは、姉さんの中では全てが以前のままだからだ。サザエ「なに言ってるのよカツオ...
仏壇の近くに置いていたその縫いぐるみを、姉さんが明るい声を出しながら抱き上げたのだった。 久しぶりに見る姉さんの笑顔に、家族は皆喜んだ。 タラちゃんを失った悲しみは癒えはしないだろうけど、しばらくはこの縫いぐるみで気を紛らわせるのではないかと思った。 一日中暗い部屋に篭り、ろくに食事もとれないような生活になっていた姉さんは、その日から変わった。 いや、元の姉さんに戻ったのだ。 タラちゃんという存在が欠け、崩れていたバランスが縫いぐるみによって埋められたからである。
姉さんは縫いぐるみにタラちゃん、と呼びかけまるで本当の子供のように接した。 皆、始めの頃はそれを暖かく見守っているだけだったけど、それが一月経ち、二月経ち、 変わらず縫いぐるみを可愛がり続ける姉さんが、さすがに不安に思えて来た。
その件以来母さんは姉さんのことには触れないようになってしまったし、 他の家族も、もっと時間が経てば、元に戻るだろうと楽観的に考えていた。 それにどうしようも無かったのだ。
父さんと母さんは古い人で、姉さんを精神科に連れていくことを決断しかねていた。 マスオ兄さんも我が子を失った悲しみは深く、自分以上に傷ついている妻を狂人扱いすることは出来なかったのだ。 そうして今に至る訳だが、一年近く使われ続けている縫いぐるみは所々ガタが出てきている。 ワカメや母さんが、姉さんの目の届かない所で直しているのだが、いずれ限界がくるだろう。
僕は姉さんの隣に縫いぐるみを置く。 先程のあれは本当に姉さんでは無かったのだろうか。 もし部屋を覗いていたとしたらワカメが縫いぐるみを修理していたのを見ていたかもしれない。 姉さんにとってこの縫いぐるみはタラちゃんなのだ、その体を開き、針を刺す場面などどのように映るだろう。
食卓では姉さんの楽しそうな声が響く。 縫いぐるみは口に押し付けられた食べ物をただボロボロと床に落とすばかり。 最近ではすっかり見慣れた我が家の食事風景だ。
僕らが食事を終えても、姉さんは戻らなかった。 皆特に気にもせずに、母さんとワカメは食器の片付け、父さんとマスオ兄さんは晩酌を始めていた。 することがなくなった僕は、部屋に戻って漫画でも読もうかと廊下へ歩き出した。
プチプチと何かを引き契るような音が聞こえてきた。 とってあげる、とはいったいなんのことだろう。 縫いぐるみを我が子と思い込んでいるはずの姉さんが、いったいなにをしているのか。
僕は瞬時に返事を返すことが出来なかった。 ワカメはまだ知らない、姉さんがさっき僕らの部屋を覗いていたということを。 この部屋の中で起きているであろう事を。
姉さんは荒い呼吸を繰り返している。 僕は空いている方の手でその背中をさすった。 噛み付かれた手は姉さんの口の中で血を流しているようで、指を伝い赤いものが見える。
かみ砕かれ無かったのは幸いだけど、指の根本には引き裂かれたような傷がついていた。 鋭利な刃物でつけられた傷よりも、そうでない物で切られた方が酷い怪我になるという。 この傷はしばらく残りそうだ。
学校は何事もなく終わり、僕は家に帰って来た。 台所では姉さんが昨日のハンバーグで使った残りであろうひき肉をこねていた。 母さんは買い物にでもいったのか、ワカメはまだ帰っていないのか、二人とも姿が見えなかった。
僕は別段気にも止めずに、駆け足で部屋へと向かう。 中嶋たちが野球をするためにいつもの公園で待っているのだ。 昨日の姉さんに噛まれた傷口も、巻かれた包帯こそ痛々しいが、痛みはすっかり引いていた。
今日返された限りなくゼロに近い数字がかかれた紙切れを僕は慌てて拾いあげる。 こんなものが姉さんに見られたら大目玉だ。 その答案用紙も含め、散らばった荷物をそのままかばんに詰め直し、僕は目的のバットとグローブに手を伸ばす。
姉さんはいったい何をしているのか確かめたい。 この場から逃げ出してしまいたい。 確かめなくては。 逃げなくては。
押し入れの襖の模様に紛れるように空けた小さな穴から外を伺う。 そこにはただの日常が広がっていた。 なんの変哲もない僕とワカメの部屋だ。
先程僕が感じた危機感のようなものなんて、とうの昔に薄れて消え去って、 なんだか隠れているのが馬鹿馬鹿しく思えてきた。 もうやめよう、気のせいだったのだ。
誰か、なんて信じたくはないし信じられるようなことではないけれど、 そこに転がっている赤い塊はワカメで、流れている血は彼女の物なのだ。 服から出ている部分は原形を留めない程にぐちゃぐちゃと何かに切り刻まれたかのような 状態なのに、真っ赤に染まった服をそれでも着こなしているのはどこかシュールな光景だった。
突然のことで麻痺した恐怖心が僕に悲鳴を上げさせようとしている。 それを口に手を押し込み堪えた。 くしくもそれは昨日姉さんに噛まれた方の手で、傷口に僅かに走る痛みが僕の思考をなんとかつなぎ止めていた。
何がちょうどいいのかはわからないけど、姉さんの手に握られた包丁をみるかぎり 僕にとってはちょうど良くないことに違いない。 おまけに反対側の手にはあのタラちゃんの縫いぐるみが抱かれていた。
姉さんのぶつぶつと呟く声が耳に届く。 言っている内容はめちゃくちゃなのだが、今の姉さんに見つかることは非常に危険だということは分かった。 無惨なワカメの姿を見ても、可哀相だとか酷いだとかの感情が浮かぶのではなく、ただ恐怖だけが僕を捕らえている。
だからワカメから取り返したのだろう。 ワカメの体から肉を削り取り、縫いぐるみに詰めていたようだ。 縫いぐるみから滴る血も全部ワカメのものだったのだ。
べしゃりと音を立ててワカメだったものの上に、肉の詰まった縫いぐるみが置かれた。 もしも姉さんに見つかってしまえばあれらの仲間入りだ。 それは絶対に避けなければいけない。