後藤寿庵とは? わかりやすく解説
「後藤寿庵」の意味は<p style="padding-bottom: 10px;"><!--AVOID_CROSSLINK-->読み方:ごとうじゅあん<!--/AVOID_CROSSLINK-->江戸時代の武将のこと。Weblio国語辞典では「後藤寿庵」の意味や使い方、用例、類似表現などを解説しています。
元和8年(1620年)頃、陸奥仙台藩領から出羽秋田藩領内稲庭付近に厳中と名乗る男がやってきた。厳中によりこの地域に、日月崇拝を教義とした(と伝わる)宗教が伝わった。信者らは太陽と月を崇拝し、眼の紋の入った羽織を着用した。元々は畿内が発祥であったとされているが、当時仙北地方から内陸南部にかけて、秋田藩領の鉱夫の間に瞬く間に広がったこの宗教は「大眼宗(大岩宗、大願宗とも)」と呼ばれる。 秋田藩は大眼宗を、キリスト教と同義であるとして弾圧した。元和8年(1622年)に横手城の副城代格(搦手城代)であった伊達宣宗は、領内に住んでいた教祖厳中を横手城三の丸の屋敷に招き、捕縛した。教祖捕縛の報を受けた信者百人以上が屋敷に押しかけ、役人らの乱闘の末に教祖を奪い返されてしまい、そのまま教祖は逐電した。妹尾兼忠らが活躍し一揆は鎮圧され、藩主・佐竹義宣は宗徒らを処断しない方針であったが、横手城代の須田盛秀は宗徒を数十人、磔にしている。 また、教祖捕縛の失敗の責任を取り、宣宗は秋田藩を致仕し、江戸に移り住んで逼塞した。藩は数年後に佐竹南家出身の妻を持つ彼を呼びしたが、以降領内にやはり逼塞した。 この大眼宗一揆の主導者(教祖)の厳中が寿庵と同一人物である、とする説がある。 キリスト教と同一視されたこと、また、当時の鉱山とキリスト教(南蛮技術)との関連もあり、興味深い説ではあるが、厳中と寿庵は同一人物である、ないしは寿庵がこの宗派に何らかの関わりを持っていた、とする確実な史料的裏付けはない。
脚注
- ^佐藤政基 1980, pp. 54–55「この教書は3年の歳月を経て元和6年にわが国信徒に伝えられ(中略)末記署名者は17名で、その筆頭者となっているのが後藤寿庵で(後略)」
- ^佐藤政基 1980, p. 55「現岩手県岩手郡松尾村に、すなわち旧南部領であるが、後藤堰と呼ばれるセキが現存するが、同地には後藤にちなむ地名または姓が一つもないことから、寿庵はこの地において後藤堰の開削に何なりと関与したのではなかったかと、当地の古老にささやかれているが、史料がなく定かではない」
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.54
参考文献
この節には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。( 2022年8月 )- 佐藤政基「胆沢地方における 「カンガイ」 の偉大な先人 後藤寿安」『農業農村工学会誌』第48巻第8号、農業農村工学会、1980年、53-56頁、 2021年4月24日閲覧 。
関連項目
外部リンク
- 斉藤駿一郎『奥州、和賀の信仰の流れと後藤寿庵終焉の地』
- “岩手県 - いわての農業農村紙芝居”. 寿安さん(奥州市). 岩手県 (2020年6月15日). 2021年4月24日閲覧。 “今から400年前、荒れ果てた胆沢の大地に水を引くため、西洋の土木技術に精通する後藤寿安さんと領民が奮闘したお話です。”
後藤寿庵のページの著作権 Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。
ウェブリオのサービス©2026 GRAS Group, Inc.RSS