嶋村家の系譜
嶋村家の系譜は通説や伝承以外では、「彫工左氏後藤氏世系図」や「近世名匠列伝」などの資料で知ることができるが、それら資料での名跡継承者の名前などに大きな相違があって、いずれが正しいかはっきりとしない。「彫工左氏後藤氏世系図」八郎右衛門俊元→勝八入道圓哲→唐
通説と刻銘・造営記録等から見れば、「俊元→円哲→俊実」の3代は確定としていいと思う。その後、「?代・俊規→ 8代・俊表→ 9代・俊豊」のラインと「6代・俊規→7代・俊矩→8代・ 俊正→9代・ 俊準→10代・俊明」のラインに別れているように感じる。先のラインの場合、俊規から 8代・俊表の間にもう一人二人いたように思われる(残された作品の年代に開きがあるため)。 後のラインの場合、通説や造営記録等から明らかな 8代・源蔵俊表を外して、「 留五郎」を名乗ったとされる俊正を8代目としていることから、おそらく本家とは別の傍系なのだろう。まぁ、傍系ながら本家を含めた代数としているのは、 俊表と 俊正の8代目争いに一悶着あったという証左なのかもしれない。
ただし、「嶋村源蔵」の名が刻銘や造営記録等で初めて現れるのは、俊規が川越氷川神社本殿の造営を請け負った際に作成した文書(契約書類?)で、そこに嶋村源蔵の名とともに俊規の印が押されているという。 【嶋村八郎右衛門俊元】 各種資料で嶋村家の元祖とされており、記述にブレがないことから初代として考えて間違いないだろう。ただ、実際の作品が現存していないことから裏付けは取れておらず、伝承上の人物という可能性もなくはない。 こうした関東寺社彫刻界における超重要人物なわけですが、彼の作品はただの一つも発見されていません。まぁ、彼の門人である高松又八郎邦教の作品ですら現存するものはいくつもないんですけどね。 ※刻銘のある作品が発見されていない 円哲・円鉄・勝八入道とも称する。「彫工左氏後藤氏世系図」では「俊元男 / 勝八入道 / 諸国経歴 / 名人ナリ」と記されていることから、初代・俊元の実子と思われる。諸国経歴と記載はあるが、どの辺りまで巡り歩いていたのかは不明。刻銘等が判明している範囲では、北は真岡の大前神社、南は一宮町の観明寺までで、中心域は千葉県北部と茨城県南部地域である。
なかなかに謎の多い人物である。 1700年より前の経歴がほぼ不明。 嶋村家の歴代当主の中で、唯一「俊」の字が名前に使われていない。 初名というか本名も判明していない(まさか勝八入道ってわけはないだろう)。 次代・俊実は圓鉄の門人とされているため、実子がいたかどうかも不明。ちなみに、圓鉄には姉か妹がいたようで、「俊済 / 俊元婿 / 嶋村吉兵衛」と記されている。彼の作品は近年まで発見されていなかったが、睦沢町の町立歴史民俗資料館には俊済銘の作品が2点収蔵されているらしい。
・観音教寺本堂(芝山町):元禄6年(1693年)? ・新勝寺光明堂(成田市):元禄14年(1701年) ・新勝寺鐘楼?(成田市):元禄14年(1701年)※推定。銘は無い ・大洗磯前神社(大洗町):元禄15年(1702年) ・薬王院三重塔(桜川市):宝永元年(1704年)※推定。銘は無い ・大前神社本殿(真岡市):宝永4年(1707年)※改修時に彫刻追加? ・楽法寺本堂(桜川市):宝永7年(1710年)※雨引観音のこと ・新勝寺三重塔(成田市):正徳2年(1712年)※墨書に「圓鉄無関」の銘 ・大杉神社本殿(稲敷市):正徳3年(1713年) ・観明寺(一宮町):享保3年(1718年)※欄間、睦沢町に寄贈 ・東福寺(草加市):文政7年(1824)?※圓哲の印を用いて俊表が彫った? 【嶋村唐四郎俊実】 嶋村圓哲の門人で、嶋村本家3代目を継承したとされる。 「近世名匠列伝」には記載がないので、「彫工左氏後藤氏世系図」や通説を元に記す。 また、「彫工左氏後藤氏世系図」には「俊実無実子」と記載されており、次代は門人の俊準が継いだ。3代目にして刻銘のある作品数が極めて少ないため実在性は定かではなかったが、埼玉県鴻巣市の日枝神社本殿から彼の刻銘が発見され、その造営時期が宝暦6年(1756年)と判明したことから、それが没年の前年(宝暦7年(1757年))ということもあり実在が確認された。 また、千葉県長生郡一宮町の 観明寺に残された欄間彫刻は圓哲、脇障子は俊実と同時期に作られたことから、2代・圓哲→3代・俊実へと継承されたのも間違いないと考えられている。
唐四郎が初名とされるが定かではない(次代・源蔵俊準も後に名乗った?)。 俊実の弟子の一人に丈右衛門貞亮がおり、「通称:波の伊八」の初代・武志伊八郎信由の師匠である。 ・観明寺(一宮町):享保3年(1718年)※脇障子、睦沢町に寄贈 ・新勝寺一切経堂・火頭窓(成田市):享保7年(1722年) ※圓哲作とされるが、圓哲は1720年没のため。推定・俊実作 ・調神社旧本殿(さいたま市):享保18年(1733年)?※推定 ・日枝神社本殿(鴻巣市):宝暦6年(1756年)※刻銘あり 【嶋村源蔵俊準】「近世名匠列伝」では9代と記されている。明治5年(1872年)没とされるが、菩提寺の赤羽大松寺にある墓碑銘には、この没年に対応する戒名はないとのこと。通説では、明治時代に牙彫で活躍した嶋村俊明は嶋村家10代目を称し、先代・俊準の次男とされている(同誌は 8代目を 源蔵俊表ではなく留五郎俊正としている )。
まぁ、東京都内の作品は戦災で失われたとか、幕府での作事が全てで銘を残せなかったとかあるのかもしれないが(幕府御用勤ではあっても棟梁でなければ基本的に名は残らない。関口文次郎とかも同じ理由)。 ・記録等が全く発見されていないため不明 【嶋村源蔵俊規】 「彫工左氏後藤氏世系図」では俊準の長男という扱いで、俊準の後に名前が記されている。また、俊準に引き続き「嶋村源蔵」を名乗ったようだ。系図上では俊元→圓哲→俊実→俊準→俊規という流れで5代目となる。 ちなみに、彼の弟が俊縄で「嶋村源六」を名乗っている。 対して、「近世名匠列伝」では6代目(3〜5代は記載なし)と記されている。各地の刻銘や造営記録では、川越氷川神社本殿の造営を請け負った際に取り交わした文書の銘が「嶋村源蔵」で、印が「俊規」になっており、実際の作業は8代・ 俊表が担当している。 そこから考えると、8代・ 俊表の先代か先 々 代と考えるのが妥当だと思える。 4代・俊準の事績が不明で実在性すら定かではないものの、さらにその前、3代・俊実が宝暦7年(1757年)に没しているため、4代・俊準と俊規の間に1〜2代を挟んでいそうである。
面白いのは、 8代目の 俊表が自身の父とされる源六俊縄の「源六」銘を使わずに、叔父に当たる俊規の「源蔵」銘を使っていること。これが何を意味するのかを考えるに、もし俊規が初めて「源蔵」銘を名乗ったのだとしたら、伝統ある銘とは到底言えないだろうし、刻銘などで確認できる作品では俊規の事績は一族中でも際立って素晴らしいようにも見えない。そもそも、初出とされる4代「源蔵俊準」は事績すら全く残っていないのだ。そんな「源蔵」銘が本家の名跡とされたのはどんな理由からなのだろうか? 俊規が「嶋村源蔵」を名跡とする宣言をしたのか?
・大和田氷川神社(新座市):文化13年(1816年)頃? ※嶋村源蔵銘。俊表作の説もあるが彼は1810年頃に生まれた ・新勝寺一切経堂・向拝木鼻(成田市):文化6年(1809年)※推定 ・川越氷川神社本殿(川越市):天保14年(1843年) ※神社造営記録に嶋村源蔵の名とともに印が押されており、それが「俊規」 ・徳願寺本堂(市川市):大正5年(1916年) ※徳願寺の本堂は幕末に焼失し、上記の年に再建されたため嶋村源蔵ということはあり得ない 【嶋村源蔵俊矩】 俊矩の名は「近世名匠列伝」に7代・嶋村源蔵俊矩として現れる。 先代の実子なのか門人なのかも不明。8代目は通説では俊表、「近世名匠列伝」によれば 留五郎俊正で、彼ら二人は 嶋村源六俊縄の子とされているため、何れにしても次代は俊矩の実子による継承ではないとされる。本家ではなく傍系の源六俊縄の子から後継者を選出しているということは、俊矩に実子はおらず、主だった門人もいなかったからではないだろうか?
他には、身延山諸堂記に「京 都 臨 時 工 島 村 源 蔵 俊 矩 佐 野 繁 八」の文字が見える。これの意味するところは不明だが、おそらく焼失した堂宇の再建・造営(いつの再建かは不明だが)に携わったことを示していると思われる。源 蔵 俊 矩とあるので、嶋村本家を継承したと見ていいだろう。ただ、「京都臨時工」が何の事なのかが全く不明だ。
・身延山久遠寺の再建?※久遠寺の火災は1度や2度じゃないので、時期を特定することはほぼ不可能 【 嶋村留五郎俊正】 嶋村源六俊縄の子、兄弟に俊表がいるという。一時期「 嶋村 俊元 / 八代孫 / 俊正」のように、あたかも嶋村本家の8代目を継承したかのように称していたが、実際に8代目となったのは 俊表というのが通説。そのため、 嶋村源蔵は名乗らず「 留五郎俊正」と名乗っていた。 「彫工左氏後藤氏世系図」では 「嶋村源蔵」は 俊準のことであって、その俊準の次男が源六俊縄である。
10代目を称している 嶋村 俊明は8代目を俊表ではなく 俊正としており、先代の9代目に 俊準を挙げている。おそらく、 8代・俊正→9代・ 俊準→10代・俊明のラインは 嶋村家の傍系ということなのだろうが、にも関わらず本家を含めて 俊明が10代目を称したのは、 俊正と 俊表の8代目争いが何かしらの遺恨を残すものだったからではないだろうか(まぁ、単純に 嶋村家10代目を名乗った方がセールス的に有利だったからかもしれないが )。
ただ、勝浦 下本町屋台は 俊正& 俊表の両者が携わってるらしいしなぁ。 思うほど仲が悪かったわけではないのかもしれないな。俊正の生年は不明なため何とも言えないが、 俊表が1810年頃の生まれとされているので大きくは違わないだろう。とすると、千葉県旭市の長禅寺本堂にある欄間彫刻が 俊正のものとされているが、それは本当に 俊正の作品なのだろうか。本堂は 寛政10年(1798年)の造営とされているため、この時に彫刻も嵌め込まれたのなら 俊正はおそらくまだ生まれていない。刻銘が本当に 俊正のものなら、彫刻自体は後に嵌め込まれたものだろう。もしくは、本堂の造営年代が間違っているか、だ(wikiには、本堂再建時に寄進された彫刻と記載されているのだが. )。
・菅原神社拝殿(勝浦市):嘉永2年(1849年)?※刻銘あり ・愛宕神社本殿(八日市場市):嘉永2年(1849年)?刻銘あり ・砂新田春日神社(川越市):刻銘あり ※刻銘あり、他に4代・伊八信明や初代・後藤義光の名も ・下本町屋台(勝浦市):※刻銘あり、 俊表 の刻銘もある、合同で作業した? ・長禅寺本堂(旭市):寛政10年(1798年)? ※刻銘があるらしいが、造営時にはおそらくまだ生まれていない 【嶋村源蔵俊表】 「天才」「東洋のミケランジェロ」とも称された、嶋村本家の8代目。 「刻銘のある作品は全て文化財に指定されている」と言われているが、さいたま市の調神社拝殿には俊表の刻銘があっても文化財の指定は受けていない(調神社の文化財は旧本殿と社叢で、現拝殿と本殿ではない)。 嶋村源六俊縄の長男とされ、初名は俊善、後に俊表と改めた。 兄弟の俊正と 嶋村本家の8代目争いがあったとも言われ、 俊正も一時期は8代目を称した。 また彼はいくつかの寺社や屋台彫刻で2代・圓哲の印章を使用しているが、 俊正との8代目争いが決着していない最中にあって、自分こそが 嶋村本家の正統な後継者との自負で使っていたのかもしれない。源蔵俊規が実際に何代目だったのか不明だが、川越氷川神社本殿の造営を請け負ったのが俊規で、その直後に亡くなったことで実際の作業は俊表が担当したことを考えると、俊規は7代目もしくは6代目と思われる。「近世名匠列伝」には6代・俊規、7代・俊矩と続いている(8代目は 俊正 )。通説では俊表は嶋村源六俊縄の息子とされるが、それは本当なのだろうか。(通説である)父の「源六」銘を継承せずに、(嶋村家にとっても)さほど重要とは思えない「源蔵」銘を名乗ったのは、俊表が実は源蔵俊規の息子だったからではないだろうか。
・東福寺(草加市):文政7年(1824)?※圓哲の印を用いて俊表が彫った? ・八幡神社(越生町):天保4年(1833年) ・川越氷川神社本殿(川越市):天保14年(1843年) ※刻銘あり、 飯田岩次郎も協力? ・木野目稲荷神社(川越市):嘉永5年(1852年) ・諏訪神社拝殿(花見川区):嘉永年間(1848年~1853年) ※本殿は竹田重三郎、後に本殿向拝部を嶋村多宮定直が修復 ・前橋東照宮(前橋市):嘉永年間(1848年~1853年)※伝承、本殿の龍? ・新勝寺釈迦堂(成田市):安政5年(1858年)※二十四孝の彫刻 ・調神社(さいたま市):安政5年(1858年)?※拝殿・本殿とも? ・田無神社本殿(西東京市):安政6年(1859年) ・妙海寺(勝浦市):※俊表の刻銘と圓哲の印 ・松江町一丁目屋台(川越市):※圓哲の印を用いて俊表が彫った? ・上本町屋台(勝浦市):※刻銘あり ・下本町屋台(勝浦市):※刻銘あり、 俊正 の刻銘もある、合同で作業した? 【嶋村源蔵俊豊】 嶋村本家を継いだ9代目と考えられるが、資料が少ないため不明。 一説には俊表の息子とも言われるが、それさえも不明。 ただ、各所の作品に刻銘は残っているので実在性は確かで、先代の俊表が残した作品の年代とこの俊豊の作品との間に大きな乖離はないため、俊表が8代目とした場合は次世代は俊豊と見て問題ないと思われる。 しかし、嶋村本家を本当に継いだのかどうかは評価できる資料がない。 ・仲町羅陵王山車(川越市):文久2年(1862年) ・伊弉子神社本殿(茂原市):慶応元年(1865年)※他3名 ・宝性寺本堂(勝浦市):※推定 ・皇産霊神社(九十九里町):※俊豊他3名通説では、初名を唐四郎、俊準の次男とされる。安政2年(1855年)生〜明治29年(1896年)没ともされるが、谷中墓地の墓碑銘によれば明治24年(1891年)没である。初期は寺社彫刻を手掛けるが、すぐに流行りの牙彫の道へ向かう。明治 14年(1881年)、第2回内国勧業博覧会に牙彫「曾我兄弟復讐夜撃」を出品して妙技 2等賞を受賞。
この人物の実在性に関しては疑いようがない。問題は、通説で語られる嶋村家の系図と「彫工左氏後藤氏世系図」の間に大きすぎる相違があることだ。「近世名匠列伝」では、6代・俊規→7代・俊矩→8代・ 俊正→9代・ 俊準→10代・俊明と続くが、6代・俊規と 9代・ 俊準は「彫工左氏後藤氏世系図」ではそれぞれ5代目と4代目(4→5代目は実子相伝)となり、継承した代数も順番も全く違う。さらなる問題は8代の 俊正で、彼の名は刻銘や造営記録にも残されているので実在性も確かだが、 俊正は初期でこそ8代目を名乗っていたが、正式に嶋村家8代目を継いだのは 俊表とされている(兄弟説あり)。この俊表も川越氷川神社を始め各地の刻銘や資料等で確認できるので実在確実なのだが、「近世名匠列伝」でその名は登場しない。
俊準に関しては刻銘や造営記録等にその名が一切見られないため、そもそもが実在性すら定かではないのだが、「近世名匠列伝」にある8代・ 俊正という記述から見れば、 嶋村俊明は嶋村本家(源蔵銘)の伝承者ではなく 留五郎 俊正から続く方の嶋村家なのではないだろうか。そして、8代目を 俊表と 俊正の両者が名乗っていた事実から考えると、 (通説では)傍系でありながら本家を含めた10代目を名乗っているのは、 8代目争いが実は平和的には終わっておらず、 俊明は 俊正から続く自分こそ 嶋村本家の継承者との自負を持って10代目を称したのではないだろうか。