浪花節・浪曲を春日井梅鶯 (かすがいばいおう)の名調子で『赤城の子守唄』を聴く。
東海林太郎(しょうじたろう) 浪曲 国定忠治 名月赤城山(1/5)口演;先代広沢虎造 投稿音源ではありません。 昨日は中東アジア、アゼルバイジャン、タジキスタンのメリスマ(こぶし)の効いた民俗歌謡、ポップスをYOUTUBEで鑑賞した。そのこぶしの抑揚で一昔前には歌い語って大衆に人気を博した浪曲を今日は取り上げよう。≪浪花節(なにわぶし)とは、明治時代初期から始まった演芸の一つ。「浪曲」(ろうきょく)とも言い、三味線を伴奏に用いて物語を語る。浪花節は古くから伝わる浄瑠璃や説教節、祭文が基礎になって、明治時代初期、大阪の芸人浪花伊助が新しく売り出した芸が大うけして、演者の名前から「浪花節」と名付け…
昨日は中東アジア、アゼルバイジャン、タジキスタンのメリスマ(こぶし)の効いた民俗歌謡、ポップスをYOUTUBEで鑑賞した。そのこぶしの抑揚で一昔前には歌い語って大衆に人気を博した浪曲を今日は取り上げよう。≪浪花節(なにわぶし)とは、明治時代初期から始まった演芸の一つ。「浪曲」(ろうきょく)とも言い、三味線を伴奏に用いて物語を語る。浪花節は古くから伝わる浄瑠璃や説教節、祭文が基礎になって、明治時代初期、大阪の芸人浪花伊助が新しく売り出した芸が大うけして、演者の名前から「浪花節」と名付けられた。以後、桃中軒雲右衛門や二代目広沢虎造の活躍で戦前まで全盛を迎えた。≫(WIKIPEDIA)私たちの父親の世代までがピークの演芸であった。三筋の糸(三味線)にのせた「大人の子守唄」と、いまでもNHKラジオの浪曲の時間でいわれているように、ラジオの時代大いに聞かれ親しまれていたようである。で、今日の取り上げる浪曲師は春日井梅鶯 (かすがいばいおう) 。その名調子を味わうという趣向である。もっとも音がないのでせいのない話だけれど。≪歿年・昭和49年10月22日 行年69歳 千葉県鶴舞出身 旅回りの浪花節、春日井梅吉に 基礎勉強を教わり、上京後、独学で 興行師に売込んで舞台に立った。 昭和8年2月、東海林太郎が唄って ヒットした「赤城の子守歌」を 秩父重剛氏が名脚色をして 浪曲化に成功。白羽の矢を梅鶯に立て、大ヒットに。雲月調の節だが彼独特のフィリングで 息の長い美音は大衆を魅了した。≫(ネットページより引用)
ところで、東海林太郎が唄って ヒットした「赤城の子守歌」とはつぎの歌詞を持った大ヒット曲であった。 赤 城 の 子 守 唄作詩 佐藤惣之助 作曲 竹岡信幸 歌/東海林太郎 昭和9年
1 泣くなよしよし ねんねしな 山の鴉が 啼いたとて 泣いちゃいけない ねんねしな 泣けば鴉が またさわぐ
2 坊や男児だ ねんねしな 親がないとて 泣くものか お月さまさえ ただひとり 泣かずにいるから ねんねしな 3 にっこり笑って ねんねしな 山の土産に 何をやろ どうせやくざな 犬張子 貰ってやるから ねんねしな 後年懐メロ番組で、その歌唱とともに東海林太郎(しょうじたろう)のトレードマークの直立不動が見られたものである。 さて浪曲『赤城の子守唄』のあらすじは、さいわいネットページで見かけたので利用させてもらうこととしよう。満つれば欠くる月の影 昨日の淵は今日の瀬と 移り変わるも人の世の 定めとあれば是非もなく 飛ぶ鳥落とす勢いの 国定忠治も情けなや 今じゃ十手に追い込まれ 明日をも知らぬその命 此処は三室の村はずれ 七年前の最愛の 女房に別れた勘助は 今年七つの勘太郎と 親子二人の侘び住まい 次第に更け行く秋の夜の 何れの寺の鐘やらん 陰を含んで物凄く
義理の片割れ月夜の鴉 泣いてくれるなお前が泣けば 背中の勘坊眼をさます坊やよい子だねんねしな 親がないとて泣くものか お月様さえ只一人 泣かずに居るからねんねしな 張子の犬でも太鼓でも 貰ってやるからねんねしな……
今の今まで国定の、忠治親分日本一と 思っていたが見直した いかにこの身はやくざでも 親に向けよう、刃を持たぬ 持てぬ刃を振り向けて 育ての親を首にする そのいきさつは誰がした 口には言いわねど腹の中 燃えんばかりの浅太郎 膝を押さえた拳はふるえ 胸にゃ大きな波が打つ
頭を下げた国定忠治 勘助亡きあと浅太郎に 代わって唄う子守唄 勘坊よい子だねんねしな お前の父ちゃん殺したのは 忠治が一生のあやまりだ 許してくれよねんねしな 赤城の山の子守唄、みんなで 唄ってやってくれ 鳶も烏も唄うのだ ねんねんころりよねんねしな 坊やはよい子だねんねしな。