さだまさし「道化師のソネット」を読む〜ピエロの菩薩行
(概要)歌詞に3回出てくる〈小さい〉という言葉は、個々人の人生における無力さを表している。ピエロは利他行で人を救うとともに自分も救われることを望んでいる。 1 位置づけ 「道化師のソネット」は、さだまさしの人気がピークを迎えていた1980年に発表されている。前年に出した「関白宣言」が社会現象とも言えるブームを巻き起こし、その勢いにのって、続く「親父の一番長い日」という12分以上もある風変わりな曲も大ヒットしていた。 「道化師のソネット」は、さだ本人が主演した映画『翔べイカロスの翼』(1980年)の主題歌として作られたものである。歌詞は映画の内容をふまえていて〈笑ってよ〉〈道化師(ピエロ)〉など…
この歌はサビ始まりで、冒頭が〈笑ってよ 君のために 笑ってよ 僕のために〉となっていて、ここに歌の主題が明示されている。例えばさだの一番人気の「主人公」(作詞、さだまさし、 1978 年)は、〈小さな物語でも 自分の人生の中では誰もがみな主人公〉という主題は歌詞の最後に置かれていて、そこでようやく「主人公」というタイトルの意味がわかる仕組みになっているのであるが、「道化師のソネット」は「道化師」と〈笑ってよ〉という言葉が出だしで結びついているのである。出だしからわかりやすいのである。
ということを書いてから『さだまさし 旅のさなかに』(さだまさし著、 1982 年、新潮文庫)という歌詞集を見たら、「道化師のソネット」についてのエッセイで、こう書いてあった。
「映画でピエロを演じる事になった時、メイクの人に頼んで、左の目の下に涙を入れてもらった。そんなピエロのメイクなんて見た事がない、と言われたが、お願いして入れてもらった。本当は描かずに、演技で見せるべきものなのだろうが、こちらはからきしだから、せめて、思い入れだけでも形にしたかったのだ。 ’’ 涙のピエロ ’’ は珍しかったとみえて、キグレサーカスの子供達は、かわるがわる見に来ては、変なの !? と言った。」(『さだまさし 旅のさなかに』 30-31 頁)
日本の歌ではマリオネットが好まれている。 BOØWY の「 MARIONETTE 」が有名だが、歌に出てくるマリオネットはもの悲しい存在で、自分自身であるとされる。さだまさしにもマリオネットを歌った歌がある。グレープの時代に書いた「哀しきマリオネット」で、〈糸が絡んだ操りピエロ〉と歌っていて、ピエロと同義で使われている。マリオネットは操り人形のことであるが、ピエロを模したマリオネットも少なくない。ピエロもまた操り人形を模したパントマイムをおこなうことがある。
つまり、さだ本人も、タイトルに「ソネット」とつけたのは深い意味がなかったということである。また、ソネットには構成や押韻などに制約があるが、さだがたまたま一致したと喜んでいるのは14行という点だけである。しかもその14行というのは、歌唱で最初にある〈笑ってよ 君のために 笑ってよ 僕のために〉という部分を無視して14行なのである。それを入れると15行になってしまう。そのためシングルレコード添付の歌詞表示はこの部分を省略して14行にしている。歌詞を見て、なんで冒頭部分がないのか疑問に思った人は(私もそうだが)、こういう事情があったのである。
まず形式的な面ですぐ目につくのは、この歌は対句的な発想で書かれているということだ。「笑ってよ 君のために/笑ってよ 僕のために」「舟人/山びと」、そして「小さな舟」と「別々の山」というのも、個別の人生という意味で対応している。なぜ対句的に書かれているかというと、書きやすいからだろう。フォーマットを一つ作れば、あとは応用でできる。1番の歌詞を書いて、それを下敷きにして2番の歌詞を書いたのだろう。
この解釈が正しいことは2番の歌詞からもわかる。そこでは〈僕らは別々の山を それぞれの高さ目指して/息もつかずに登ってゆく 山びと達のようだね〉と歌われている。なぜか〈別々の山を それぞれの高さ目指して〉いるのである。パーティーを組んで協力しあって同じ山頂を目指しているわけではない。人は孤独に各々の人生を生きている。背中には重い荷物をしょっているだろう。同じように、舟もみんなが乗ることができる大きな舟ではなく〈小さな舟〉なのである。〈小さな舟〉だから、そこに積む荷物もたくさんは乗らない。宝舟のようにたくさん乗せられれば財産であるが、必要最小限の荷物だけであり、しかもそれは〈哀しみという荷物〉なのである。
「驛舎(えき)」(作詞、さだまさし、 1981 年)は、都会でうまくいかずに故郷へ帰ってきた女性を駅で出迎えるという内容である。〈君の手荷物は 小さな包みがふたつ〉で、〈重すぎるはずの君の手荷物〉とされる。ここでも〈荷物〉は〈小さな〉ものである。その量は、一人ぶんの人生にみあったものだ。生きてきて最低限必要なものがそれだけだったものを持ち帰ったということである。都会で生きてきた何年間は、たったふたつの〈小さな包み〉にまとめられてしまうほどの価値しかなかった。それが〈重すぎるはず〉というのは、具体的な荷物は〈哀しみという荷物〉という象徴も帯びているということである。
「主人公」(作詞、さだまさし、 1978 年)は先にも引用したが、学生時代を思い出して、あなたの存在を糧に、〈小さな物語でも 自分の人生の中では誰もがみな主人公〉と前向きになる応援ソングである。この〈小さな物語〉とは、平凡な〈自分の人生〉のことである。私は誰かの物語の一部を生きているわけではなく、私以外のもっと「大きな物語」のために生きているわけでもなく、人はそれぞれ個人の〈小さな物語〉を生きていて、その物語の主役であるということだ。そうした価値転換をもたらす歌であるために、広く長くファンに支持された。本稿の文脈で確認しておきたいのは、この〈小さな物語〉はおのおのの物語であり〈小さな舟〉、〈別々の山〉と同じことであるということだ。それぞれ生きている個人が一人の力でできることは小さい。その無力感は諦念とともに受容される。
この紅白のテーマは「 Colorful ~カラフル~」である。趣旨説明にはこうある。コロナ禍のために日常の暮らしは彩りの欠けたものになってしまった。だから少しでも世の中を「カラフル」に彩りたい、「そして「カラフル」には、多様な価値観を認め合おうという思いも込められています。あらゆる色が集い、重なり合い、称え合い、素敵な大みそかを彩る。それが今年の紅白です。」( https://www.nhk.or.jp/kouhaku/theme/ )
タイトルに「カラフル」「 colorful 」がつく歌は、歌詞検索サイトで検索すると150曲以上みつかる。「 color 」も含めるともっと増える。そんなにあるなら、テーマによる出場枠を作って誰かが「カラフル」という歌を歌えばいいのにと思うが、そういう歌はなかった。代わりにというわけではないが、出場者の中でテーマに関係した歌を歌うのは、ゆず「虹」と BUMP OF CHICKEN 「なないろ」(連続テレビ小説の主題歌)である。「なないろ」も虹のことである。(検索するとタイトルに「なないろ」「七色」とつく歌は100曲以上出てくるので驚く。)出場者の NiziU は名前に「虹」が含まれている。
さだまさしはこれまで『紅白歌合戦』に20回出場しているが、「道化師のソネット」を歌うのは初めてだという。さだは企画枠での出場なので、「カラフル」というテーマとこの選曲とは密接な関係があると推測される。そこで歌詞を見ると、該当しそうなのが、〈僕らは別々の山を それぞれの高さ目指して/息もつかずに登ってゆく 山びと達のようだね/君のその小さな腕に 支えきれない程の哀しみを〉という部分である。それぞれの人が別々の山を、哀しみという荷物を抱いて(背負って)登っているという歌詞で強調されているのは、「みんなちがう」ということである。金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」という詩に対し、さだの歌が言っているのは「みんなちがって、みんなかなしい」ということである。先に紹介したゆずの「虹」(作詞、北川悠仁、 2009 年)という歌でも〈特別な事ではないさ それぞれ悲しみを抱えてんだよ〉と歌われている。これも「道化師のソネット」と重なる言葉を持つ歌詞である。なぜ同じような言葉遣いになるかというと、人は個人個人に切り離されると弱くなり〈それぞれ悲しみを抱え〉るからである。多様性を認め合うには、人はいったんバラバラに切り離される時期を経ることになる。そのとき、それぞれの荷物を自分で持たなければならない。自分の悲しみを自分が引き受けなければならない。「道化師のソネット」は今のそういう時期を歌っているようにも受け取れる歌なのである。
仮に『紅白歌合戦』が理想的に改善されたとしても、それで歌手のセクシュアリティの扱いにおける問題が解決されるわけではない。AKBや坂道グループはどうして女性ばかりなのか、ジャニーズはどうして男性ばかりなのか、エグザイルはどうして男性ばかりなのか。女性はどうして E-girls という妹分として外部グループを作るのか。一部のグループ、バンドやコーラス、ダンサーなどを除くと、芸能活動をするグループは男女が截然と分かれている。AKB48の第17期生メンバーの募集資格には「 2022 年 2 月 7 日時点で満 12 歳~満 20 歳までの女性(現小学校 6 年生から)」とある。AKBはアイドルになりたい人が全員女性だったというわけではない。募集時点で女性に限定されている。『紅白歌合戦』は、男性性、女性性をことさらに意識させるパフォーマーを分類して掛け合わせるのに適したシステムである。『紅白』は戦後72年も続いてきた、日本中が注目するイベントである。その歴史性を考えても、『紅白』はいろんなものを映し出す鏡であり続ける。これからどのように変容していくか注目していきたい。
この〈小さな手〉は外見がそう見えることからきているが、比喩としてもっと拡大して解釈されることが読み手に期待されている。字面をそのまま読めば〈君〉は小柄な女性だという推測がなされる。しかしこの人が手にしているのは〈哀しみ〉である。既に〈僕達は小さな舟に 哀しみという荷物を積んで〉という表現があることを見ておいたが、〈哀しみ〉イコール〈荷物〉として捉えられている。「驛舎(えき)」に〈君の手荷物は 小さな包みがふたつ〉とあるように、どこへ行ってもこの荷物は人についてまわるものである。
では〈哀しみ〉とは何かというと、これは生きることそのものである。人が生きることに哀しみはつきまとっていて、そこから逃れることはできない。さだはこのころ「防人の詩」という仏教の四苦(生 (しょう )・老・病・死)を読み込んだ歌を作っている。〈生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと/病いの苦しみと 死にゆく悲しみと〉とある。生苦は、一般的には生まれることと説明される。人が生まれることがすべての苦の大本だ。今、「親ガチャ」という言葉が若者のあいだで流行っているが、生まれた条件は自分で選べずしかもそれは変えられないということであり、「親ガチャ」は生苦の現代的な表現だと言っていいだろう。最近、ファンタジーで「転生もの」や「人格交代もの」「タイムリープもの」などが大流行しているように、人は人生をやりなおしたいという思いが強い。だが、今の自分の肉体から外に出ることは不可能であり、自分の「生・老・病・死」は他の人と交換できない。
では、この〈小さな〉ことからくる無力さであるが、それを克服する方法はあるのだろうか。たんに諦めるしかないのか。答えは簡単だ。他の人が手を差し伸べればいいのである。みたび「驛舎(えき)」という歌を持ち出すと、〈重すぎるはずの 君の手荷物をとれば〉とあるように、ここで手助けしてくれる人が現れるのである。小さくても一人で持つには〈重すぎる〉荷物である。はおそらく〈君〉一人だけでは立ち直れないかもしれない。動き始めるまでは負担が重い。駅に着いたとき、つまり再起しようとする瞬間にちょっとだけでいいから手を差し伸べてくれる人がいれば随分助かるのである。ちょっと手を貸すことはできる。だが助っ人といえどもそれ以上は立ち入れない。「驛舎(えき)」の歌詞は次のように続いている。〈ざわめきの中で ふたりだけ息を止めてる/口を開けば 苦しみが全て 嘘に戻るようで〉。言葉をかわして相手に少しでも〈苦しみ〉を分有してもらおうと思ってもそれは無理なのだ。〈苦しみ〉は自分で引き受けるしかない。他人は〈君〉の人生を生きることができない。
〈せめて笑顔が救うのなら 僕は道化師(ピエロ)になれるよ〉 〈せめて笑顔が救うのなら 僕は道化師(ピエロ)になろう〉
「道化師のソネット」は、〈小さな舟〉とか〈別々の山〉〈それぞれの高さ〉といった小乗的な言葉で語られている。その中からやがて、ピエロという利他的な行いをするものが出てくる。だが、この歌に描かれる段階ではまだ自分のための修行という面が表れている。それは〈笑ってよ 君のために 笑ってよ 僕のために〉の〈僕のために〉という部分である。ピエロの役割は笑われることにある。〈僕〉がピエロになったとしても笑ってもらえなければ自分が救われない。自分のことを考えて相手に笑ってくれというのでは、まだ未熟さが残っている。無理もない、まだピエロを志願したばかりなのだ。ツラい菩薩行に耐えられるのはごくわずかである。多くの修行者は途中で脱落してしまうはずだ。そのとき、弱い心の者もみんな含めて救われるように書かれたのが〈笑ってよ 僕のために〉である。〈笑ってよ 君のために〉は自分以外の全員に向けられている。〈笑ってよ 僕のために〉は自分に向けられている。この二つがあわさって取り残しのない全員になる。泣き顔のピエロという自己犠牲の思想は普遍性をもちえない。「道化師のソネット」は自己犠牲の熾烈さを超えたやさしさをもっている。