至高の花魁映画!「吉原炎上」を徹底解説(ネタバレあり)
至高の花魁映画!「吉原炎上」を徹底解説(ネタバレあり)

至高の花魁映画!「吉原炎上」を徹底解説(ネタバレあり)

タリホーです。先日BS松竹東急で放送されていた映画「吉原炎上」を録画視聴したが、いや~…凄かったねぇ。 ちょっとこの作品に対して「面白い」と言って良いのかどうかわからないというか、そんな安直な言葉を使うと本作を演じた方々や制作陣に対して失礼にあたるのではないかと、そこまで思うくらいに凄まじいものを見せてもらったよ。 tariho10281.hatenablog.com この「吉原炎上」は以前アニメ「ダークギャザリング」で花魁の怨霊について解説した際にチラッと取り上げたのだが、その時は映画未見のためいつかこの映画は見ておかないなと思い自分の中で課題図書ならぬ課題映画にしていたのだけど、いざ視聴し…

本作は一本の長編映画ではあるが、四つの章で構成されており、若汐が先輩花魁の九重によって花魁としての手ほどきを受ける「春の章」、若汐の妊娠・堕胎と色恋に溺れていく吉里を描いた「夏の章」、若汐が「紫」の名跡を継ぐのと対照に転落していく小花を描いた「秋の章」、そして若汐の先輩でありながら河岸見世の長屋女郎に転落した菊川を描いた「冬の章」。この四つの章で、久乃だけでなく他の花魁たちの生き様を描いているのが本作の何よりも評価すべきポイントだ。

吉原遊廓は江戸時代から幕府によって公認された遊廓で、元々は日本橋近くにあったが明暦の大火で場所を浅草寺裏の日本堤へと移転している。映画本編では明治44年の吉原大火によって吉原遊廓は終焉を迎えたという感じになっているが、一応遊廓自体は大正・昭和と続いていたようで、完全に遊廓としての幕を下ろしたのは昭和32年(1957年)の売春防止法が施行された頃のことである。

さて、吉原遊廓が他の地方の遊郭と違っていたのは前述した政府公認の遊郭という点だけでなく、 三業組合 の制度があったことも挙げられる。この三業とは、遊女屋である貸座敷、貸座敷に客を送るための待合場所である引手茶屋、その引手茶屋に芸者や幇間(太鼓持ち)を派遣する芸者置屋の三つを指し、それぞれに組合があって更にそれをまとめるのが三業組合だったそうである。

性風俗という卑しい商売とはいえ、吉原にはこういった格式・ルールがあったのが他の遊郭と一線を画す所ではあるものの、明治期にもなるとそんな古くからの仕来りを無視する者もいたのか、映画本編では引手茶屋を通さず直引きで売れっ子の九重を買った学生に遣り手 ※1 のおちかが難色を示す様子が描かれている。

まぁ前述した遊び方は豪商や役人といった富裕層でないと出来ない遊びなので、庶民は中見世・小見世かそれより下の河岸見世で遊女を買うのがお決まりとなる。その辺りの客層に合った見世も用意されているのだから、本編で登場したあの学生は掟破りというか身分不相応の遊びをしていたことがよくわかるのだ。

そうそう、ついでになるが本編で登場した 救世軍 についても触れておかないといけない。イギリスのキリスト教プロテスタントによって作られたこの組織は明治28年(1895年)に日本へ伝来し、それ以降日本でも慈善団体として活動している。

キリスト教の教えに従い、貧困による弱者の救済・児童虐待の防止、それから廃娼運動にも関わっていたようで、1914年に救世軍のメンバーが深川の遊郭で暴力団と衝突し負傷したという記録も残っている。

実は明治5年(1872年)に日本政府は「芸娼妓解放令」という人身売買を規制する法令を布告していたのだが、これは形ばかりの法令で解放された芸娼妓たちの生活の保護やアフターケアなど一切考えていなかったため、結局親元にも帰れず野垂れ死にする者や私娼として活動する者が出て来たので、政府は吉原を始めとする五つの地区を公娼地区とし、その活動を容認していたという。

※1:遣り手は楼の女性従業員で、主に遊女の教育や客と遊女の仲介などを担当する、一言で例えるなら現場主任的存在である。経理や事務といった仕事は楼の女将(御内証)が担当する。

(以下、映画本編のネタバレあり)

分かち難き絆を求めて

ここからはより具体的に本編の感想を語っていくが、まず最初に言わせてもらいたいのは序盤で描かれる吉原遊廓の描写の素晴らしさだ。

アニメにしろドラマにしろ私が作品を批評する上で 「観客をいかに早く作中の世界観に没入させられるか」 を評価基準の一つにしているのだが、本作では序盤の10分~20分の間に吉原遊廓が外の世界とは違う場所であることを見事に映像化している。遊廓がどういう場所かは以前読んだ三津田信三の『幽女の如き怨むもの』というホラーミステリ小説で知っていたけど、やはり文章で読むのと映像で見るのとではインパクトが違う。

客入り前の神棚の前で行われる儀式は、具体的にはどういった意味でああいうことをやっているのかわからない部分も多いけど、厄除けや縁起担ぎ、或いは性病などを持った客が来ないことを祈る意味合いがあるのは何となくでもわかるし、その後の左とん平さん演じる妓夫太郎 ※2 による客引きの口上なんかは落語や講談なんかを聞いているような心地よさがあって、あの場面は繰り返して見るくらい気に入っている。こうして序盤でガッと作中の世界観に没入出来るよう作られているので、この後の物語もスムーズに頭に染み込んだ気がする。

最初の「春の章」はまだ花魁として染まっていない久乃が廓の一番の売れっ子花魁である九重によって仕込まれるパートで、特に布団部屋での乳房をむき出しにして睦み合う官能的なシーンが印象的だと取り上げる人も多いはずだ。ただ、私は九重の同性愛要素は先天的なものではなく後天的なもの、つまりこの廓の中での生活によって生じたのではないかと考えている。

この後の吉里や小花と比べれば九重は物語の中ではまだマシな結末を迎えた女性だが、それでも彼女は トップであるがゆえに他の花魁たちとは共有出来ない孤独・寂しさを抱えた女性 だったような気がする。トップであるということは、それだけ多くの男と関わったということでもあるし、「身請けしてやる」といった男の浮ついた発言に小躍りし、その結果裏切られるという憂き目に何度も遭ったであろう。

そういう経験を経ているだけに、青春を奪われ年増の花魁となった彼女は異性ではなく同性に対して深い絆を求めたというのも心理的に納得がいく。タバコで根性焼きをしたり布団部屋で睦み合ったりと、久乃に対する教育にしては様子がおかしいし、やはりあれは遊廓の世界に染まっていない彼女を自分の分身として染め上げ、分かち難き絆を結ぶことで自分の空虚さを埋め合わせようとしたような気がしてならない。

※2:妓夫太郎(ぎゅうたろう)は男性従業員の中でも客引きと楼の用心棒を務める役職。この見習いに相当するのが立仲(多分岸辺一徳さんが演じていたのがそうかな?)で、それより下の仲どんは掃除や布団の揚げ降ろし、花魁のお使いなど雑用全般をこなす。

赤子へと退化する小花

「秋の章」は仁支川峰子さん演じる小花が病気により仕事が出来なくなり、それが原因で周囲に言っていた良家の家柄が経歴詐称だとバレてしまった挙句、狂乱の末に病死するという役どころだ。文章だとイマイチ伝わらないけど、実際に本編を見たらかなり壮絶なことになっているので是非見てもらいたい。(壮絶だけどグロくはないので!)

この章の凄まじいポイントは赤い布団の山の中で狂乱状態になっている小花のシーンも勿論挙げられるが、 一人の女性が大人から子供、そして赤子へと退化していく様 を描いている というのが評価すべきポイントである。

これは小花が登場するシーンを最初から追っていけば気付くと思うが、最初の小花はそれこそ良家の子女らしく微笑んで久乃を迎え、写真撮影の下りでも着替えで服を脱いだ時にちょっと恥じらいを見せるといった仕草があった。しかし、自分の本当の生まれがバレた後は良家の子女としての演技をかなぐり捨てて「男が欲しいんだよ!」と喚き散らし、お職の座を奪おうとする久乃に敵意をむき出しにしている。そして最後は布団部屋で 「噛んでぇ!ここ、ここ噛んでぇ!」 と言いながらのたうち回り狂い死ぬ。 ※3

こうして彼女が堕ちていく道筋を見ていると、教育の行き届いた「大人」が自分の本能に忠実な「子供」となり、最後はただただ自分の欲求を喚く「赤子」へと退化しているのがわかるだろう。特にあの布団部屋の赤い布団の山を見ていると、まるでそれが子宮内部の肉壁のように見えてしまい、それが余計にあの中で悶え苦しむ彼女を赤子だと思わせてしまうのだ。

以上のことはあくまでも私が勝手に抱いたイメージであって五社英雄監督が狙ってやったことではないと思うが、それでもこの場面は 人間の虚飾された部分を剥いていけば、その核となる部分は赤子も同然だという、人間の本質を映し出したようにも見えてくる 。実はこれに関しては本作のキーパーソンである古島信輔にも同様のことが言えるので、次の項ではその点についても言及しよう。

久乃(若汐)と古島の心理描写について

この古島について、「仁義なき戦い」の脚本を担当した笠原和夫氏は彼をインポテンツ(=性的不能者)であると述べ、久乃と古島の心理的すれ違いをこの映画は全然描けていないと批評している。

この批評はWikipedia から得た情報だが 私は正直言ってこの批評には賛同出来ない

確かに古島は最後まで若汐を抱かずに彼女の元を去ってはいるが、終盤の河岸見世で長屋女郎のお春を抱いているのだから単なる性的不能者ではないのは明らかである。では、何故久乃を花魁として抱けなかったのか?という話になるが、私は古島にとって久乃は保護・庇護の対象であり、彼女が脱走した際に助けられなかったという負い目が終始彼の心の中にあったからこそ、性的な形で関わることが出来なかったと分析したのだ。つまり、彼のインポテンツは肉体ではなく精神的な所に原因があったのではないかと考えたのだ。

「秋の章」で古島は 「君は、いつから心の底まで娼婦に成り下がってしまったんだ…」 と久乃を軽蔑するが、あのシーンは男女の間に横たわる大きな溝をちゃんと描いていると評価したポイントだ。

女性は妊娠・出産をすれば否が応でも「母」として変化しなければならないし、そのためにはこれまでの理念みたいなものを捨ててでも別の道を選択せざるを得ない局面が出てくる。しかし、男性はやはり出産という経験をしないからかどうしても女性のそういった変化に鈍感であるというか、「親」としての自覚や子育てに非協力的だったり疎い。本作の久乃と古島のすれ違いもある意味こういった性別や身体構造による経験の違いと同じものではないかと思っていて、私たち視聴者は久乃が経験したこと(旧知の仲の片山勇吉の裏切りや堕胎など)を見ているから彼女が花魁として変化せざるを得ない事情もわかるのだけど、その裏事情を知らない古島と同じ目線で見ると数年で花魁として染まった彼女を軽蔑するのもわからなくはない。

とはいえ、そこが 男の鈍さ・浅はかさ というもので、古島の方は「売春の制度は理不尽であり撤廃すべきもの」という理念を心の底でずるずると引きずっているから娼婦になった久乃を軽蔑しているけど、久乃だって売春がいかに理不尽なものかはわかっているはずだ。しかし、それを嫌だと言っていたら故郷の母親と子供が借金で苦しむだけだし、理念云々の前に現実的な問題をクリアしないといけないのだから花魁の頂点を目指すのも当然だ。彼女が小花の経歴詐称に怒りを露わにしたのも花魁同士フェアプレイで競うべきであり「良家の子女」だと偽って特別扱いされることを許さなかったからだと考えている。そこを推し量れないのが古島の未熟さであり鈍さと言えるのだ。

こうして久乃と古島は決別し、久乃は古島の金で花魁道中を開催することで吉原一の花魁となり、反対に古島は崇高な理想も理念も崩れ、財閥の御曹司という地位も失い単なる「男」として河岸見世の長屋女郎に心酔する。彼が大見世ではなく河岸見世を選んだのは自分自身が地位も名誉も失った男だから、というのも勿論あるだろうが、虚飾にまみれた大見世よりも最下層の河岸見世の方が剥き身の偽りのない女性に出会えるという考えもあったに違いない。

前述したように、久乃は当初からなろうと思って吉原一の花魁になった訳ではないし、彼女を突き動かしていたのは 犠牲となった花魁たちの情念 である。だからその花魁たちの情念が憑依している間は高みを目指していく道しるべがあったけど、いざ頂点に立って目的が果たされた彼女には達成感などあるはずもなく、ぽっかりと穴の開いた空虚な心境だったのではないかと思っている。そんな空っぽの心の底に残っていたのが、かつて河岸で自分を助けようとしていた古島の姿であり、そこで久乃は「今までの自分は本当の自分ではなかった」という旨を彼に伝えたかったのではないかと推察している。

さいごに

以上が「吉原炎上」における私なりの解釈を含めた解説になる。なかなか気軽に見られる作品ではないし、見るにしろレビューするにしろ相当なカロリーを消費する作品だけど、日本人として性風俗の光と闇の歴史を知らないのは恥ずべきことだと思うので、このブログを読んでいる方は是非とも本作を見てもらいたい。

色々見所も多いしそれぞれのキャラも個性的なので本作のMVPを誰にするか迷ったが、 個人的にはかたせ梨乃さん演じる菊川をMVPとして推そうと思う 。古島にしろ花魁たちにしろ皆自分を見失ったり理念を崩したりと色んな意味でブレまくるなか、唯一最後まで一本筋の通った生き方を見せたのがこの菊川であり、彼女自身は割と踏んだり蹴ったりな目に遭っているにもかかわらず、自分の幸せではなく他人の幸せを応援出来る精神がカッコ良かったね。