日本書紀 現代語訳 天地開闢から日本建国までの日本神話
日本書紀の現代語訳を詳細解説リンク付きでお届けします。日本書紀の巻第一、第一段の天地開闢から、巻三の神武紀、日本建国までの日本神話を全文現代語訳しています。文献学に基づく学術的見地も盛り込んでます。
それゆえに、天と地が開かれる初めには、のちに 洲 くに となる土壌が浮かび漂 っていた。その様は、まるで水に遊ぶ魚が水面に浮いているようなものだった。まさにその時、天地の中に一つの物が生まれた。それは萌え出る葦の芽のようであった。そして、化して神と成った。この神を 国常立尊 くにのとこたちのみこと と言う。次に 国狭槌尊 くにのさつちのみこと 。さらに 豊斟渟尊 とよくむぬのみこと 。あわせて 三柱 みはしら の神である。天の道は単独で変化する。だから、この(男女対ではない)純粋な男神に成ったのである。
関連記事 『日本書紀』巻第一(神代上)第一段 本伝 ~天地開闢と三柱の神の化生~ある書はこう伝えている。天地が初めて分かれ、一つの物がその虚空にあった。その物のかたちは言い表しがたい。その中に、自ら物が化生して生まれた神があった。名を 国常立尊 くにのとこたちのみこと と言う。 また 国底立尊 くにのそこたちのみこと とも言う。 その次に 国狭槌尊 くにのさつちのみこと 。 また 国狭立尊 くにのさたちのみこと とも言う。 さらに 豊国主尊 とよくにぬしのみこと 。 また 豊組野尊 とよくむののみこと とも言う。また 豊香節野尊 とよかぶののみこと 、 浮経野豊買尊 うかぶののとよかふのみこと 、 豊国野尊 とよくにののみこと 、豊齧野尊、 葉木国野尊 はこくにののみこと 、或いは 見野尊 みののみこと とも言う。
〔一書2〕
ある書はこう伝えている。昔むかし、国も 稚 わか く地も 稚 わか かったころは、水に浮かんだ脂のような状態で漂っていた。そんな時、国の中に物が生まれた。その形は葦の芽が突き出たようであった。これにより化生して生まれた神があった。その名を 可美葦牙彦舅尊 うましあしかびひこぢのみこと と言う。次に国常立尊。次に国狭槌尊。 葉木国は、ここでは「はこくに」という。可美は、ここでは「うまし」という。
〔一書3〕
ある書はこう伝えている。天と地が混じり成った時、はじめに神である人があった。その名を 可美葦牙彦舅尊 うましあしかびひこぢのみこと と言う。次に国底立尊。 彦舅は、ここでは「ひこぢ」という。
〔一書4〕
ある書はこう伝えている。天地が初めて分かれ、初めに倶に生まれた(双生の)神がいた。名を国常立尊と言う。次に国狭槌尊。またこうも伝えている。 高天原 たかまがはら に生まれた神の名は、 天御中主尊 あまのみなかぬしのみこと と言う。次に 高皇産霊尊 たかみむすひのみこと 。次に 神皇産霊尊 かむみむすひのみこと 。 皇産霊は、ここでは「みむすひ」という。
〔一書5〕
〔一書6〕
ある書はこう伝えている。天地が初めて分かれ、物があった。葦の芽が空中に生じたようであった。これによって化した神は、 天常立尊 あまのとこたちのみこと と言う。次に可美葦牙彦舅尊。また、物があった。浮かぶ脂が空中に生じたようであった。これによって化した神は、国常立尊と言う。
関連記事 『日本書紀』巻第一(神代上)第一段 一書第1~6 〜体系性を持つ一書群が本伝をもとに展開〜 『日本書紀』第二段 現代語訳 ▲国立国会図書館デジタルライブラリより引用。慶長4(1599)刊版次に現れた神は、 泥土煑尊 うひぢにのみこと (土、これを「うひぢ」と読む) 、 沙土煑尊 すひぢにのみこと (沙土、これを「すひぢ」と読む。またの名は、 泥土根尊 うひぢねのみこと ・ 沙土根尊 すひぢねのみこと ) 。次に現れた神は、 大戸之道尊 おほとのぢのみこと (ある書では、 大戸之辺 おほとのべ と言う) 、 大苫辺尊 おほとまべのみこと (または 大戸摩彦尊 おほとまひこのみこと ・ 大戸摩姫尊 おほとまひめのみこと ・ 大富道尊 おほとまぢのみこと ・ 大富辺尊 おほとまべのみこと とも言う) 。次に現れた神は、 面足尊 おもだるのみこと ・ 惶根尊 かしこねのみこと (または 吾屋惶根尊 あやかしこねのみこと ・ 忌橿城尊 いむかしきのみこと ・ 青橿城根尊 あをかしきねのみこと) ・ 吾屋橿城尊 あやかしきのみこと と言う) 。次に現れた神は、 伊奘諾尊 いざなきのみこと ・ 伊奘冉尊 いざなみのみこと 。
関連記事 『日本書紀』巻第一(神代上)第二段 本伝 ~男女耦生の4代8神~ある書はこう伝えている。この二柱の神は、 青橿城根尊 あおかしきねのみこと の御子である。
〔一書2〕
ある書はこう伝えている。 国常立尊 くにのとこたちのみこと が、 天鏡尊 あまのかがみのみこと を生んだ。天鏡尊が、 天万尊 あめよろづのみこと を生んだ。天万尊が、 沫蕩尊 あわなぎのみこと を生んだ。沫蕩尊が、 伊奘諾尊 いざなきのみこと を生んだ。沫蕩、これを「あわなぎ」と読む。
関連記事 『日本書紀』巻第一(神代上)第二段 一書第1,2 親が子を生みなす新種登場 『日本書紀』第三段 現代語訳 国立国会図書館デジタルライブラリより慶長4(1599)刊版〔本伝〕神世七代
合わせて八柱の神である。これは陰の道と陽の道が入り混じって現れた。それゆえ男と女の性となったのである。そして、 国常立尊 くにのとこたちのみこと から、 伊奘諾尊 いざなきのみこと ・ 伊奘冉尊 いざなみのみこと に至るまでを、 神世七代 かみよななよ と言う。
関連記事 神世七代|『日本書紀』巻第一(神代上)第三段 本伝ある書はこう伝えている。男女が対になって現れた神は、まず 泥土煮尊 うひぢにのみこと ・ 沙土煮尊 すひぢにのみこと 。次に 角樴尊 つのくひのみこと ・ 活樴尊 いくくひのみこと 。次に 面足尊 おもだるのみこと ・ 惶根尊 かしこねのみこと 。次に 伊奘諾尊 いざなきのみこと ・ 伊奘冉尊 いざなみのみこと 。樴は 杭 くい の意味。
関連記事 『日本書紀』巻第一(神代上)第三段 一書第1 〜新しい時代へ向けた準備〜 『日本書紀』第四段 現代語訳 国立国会図書館デジタルライブラリより慶長4(1599)刊版伊奘諾尊 いざなきのみこと と 伊奘冉尊 いざなみのみこと は 天浮橋 あまのうきはし に立って、共に 計 はか り「底の下に、どうして国がないだろうか(きっと国があるはずだ)」と言った。 そこで、 天之瓊矛 あまのぬほこ ( 瓊 けい とは玉である。ここでは 努 ぬ という) を指し下ろし探ると、蒼く深く広がる海があった。その 矛 ほこ の先から滴り落ちた潮が凝り固まり一つの嶋と成った。こ れを名付けて「 磤馭慮嶋 おのごろしま 」という。
二柱の神は、ここにおいて、かの嶋に降り居た。よって共に夫婦となり国を産もうとした。そこで、 磤馭慮嶋 おのごろしま を国の中心である柱とした。そして、 陽神 をかみ は左から巡り、 陰神 めかみ は右から巡った。分かれて国の柱を巡り、同じ所であい会した。その時、 陰神 めかみ が先に唱え、「ああ嬉しい、いい 少男 おとこ に会ったことよ。 ( 少男、ここでは 烏等孤 おとこ という。) 」と言った。 陽神 をかみ はそれを 悦 よろこ ばず、「私が男だ。 理 ことわり の上ではまず私から唱えるべきなのだ。どうして女が理に反して先に言葉を発したのだ。事はすでに不吉になってしまった。改めて巡るのがよい。」と言った。
ここに、二柱の神はもう一度やり直してあい 会 かい した。今度は 陽神 をかみ が先に唱え、「ああ嬉しい。可愛い 少女 をとめ に会ったことよ。」と言った。 (少女、ここでは 烏等咩 をとめ という) 。そこで陰神に「お前の身体には、なにか形を成しているところがあるか。」と問うた。それに対し、陰神が「私の身体には女の元のところがあります。」と答えた。陽神は「私の身体にもまた、男の元のところがある。私の身体の元のところを、お前の身体の元のところに合わせようと思う。」と言った。ここで陰陽(男女)が始めて 交合 こうごう し、夫婦となったのである。
産む時になって、まず 淡路洲 あはぢのしま を 胞 えな としたが、それは 意 こころ に不快なものであった。そのため「 淡路洲 あはぢのしま 」と名付けた。そこで、 大日本豊秋津洲 おほやまととよあきづしま (日本、日本では 耶麻騰 やまと という。以下すべてこれにならえ) を産んだ。次に、 伊予二名洲 いよのふたなのしま を産んだ。次に、 筑紫洲 つくしのしま を産んだ。そして 億歧洲 おきのしま と 佐渡洲 さどのしま を双児で産んだ。世の人に双児を産むことがあるのは、これにならうのである。次に、 越洲 こしのくに を産んだ。次に、 大洲 おほしま を産んだ。そして 吉備子洲 きびのこしま を産んだ。これにより、はじめて「 大八洲国 おほやしまぐに 」の名が起こった。そして、 対馬嶋 つしま 、 壱岐嶋 いきのしま 、及び所々の小島は、全て潮の泡が 凝 こ り固まってできたものである。または、水の泡が凝り固まってできたともいう。
関連記事 国生み『日本書紀』巻第一(神代上)第四段 本伝 ~聖婚、洲国生み~ある書はこう伝えている。 天神 あまつかみ が 伊奘諾尊 いざなきのみこと ・ 伊奘冉尊 いざなみのみこと に、「豊かな 葦原 あしはら で 永久 とわに に瑞々しい稲穂が実る地がある。お前達はそこへ行き、その準備をしなさい。」と言って、 天瓊戈 あまのぬほこ を授けた。
そこで、二神は天上の 浮橋 うきはし に立ち、 戈 ほこ を投げて地を求めた。それで 青海原 あをうなはら をかき回し引き上げると、戈先から垂れ落ちた潮がまとまって島を為した。これを 磤馭慮嶋 おのごろしま と名付けた。
二神はその島に降り居て、 八尋之殿 やひろのとの を化し作った。そして 天柱 あまのみはしら を化し立てた。 陽神 をかみ は 陰神 めかみ に「お前の身体は何か形を成しているところがあるか」と問うた。それに対して「私の身体に備わり成って、 陰 め (女)の元というところが一ヶ所あります。」と答えた。 陽神 をかみ が言うには「私の身体に備わり成って、 陽 を (男)の元というところが一ヶ所ある。私の身体の 陽 を の元を、お前の身体の 陰 め の元に合わせようと思う」と。そう言ったのである。
さっそく 天柱 てんのみはしら を巡ろうとして、「お前は左から巡れ。私は右から巡ろう」と約束した。さて、二神が分かれて巡り出会うと、 陰神 めかみ が先に唱えて「ああ、なんとすばらしい 少男 をとこ でしょう」と言った。 陽神 をかみ はこれに和して「ああ、なんとかわいい 少女 をとめ ではないか」と言った。ついに 夫婦 いもせ となり、まず、 蛭児 ひるこ を生んだ。そこで 葦船 あしふね に載せて流した。次に、 淡洲 あはのしま を産んだ。これもまた子供の数には入れなかった。
そこで、再び帰り天に上り詣でて、こと細かに申し上げた。そのとき天神は 太占 ふとまに で占いを行い、教えて言うには「女の言葉が先にあがったからである。もう一度、戻り行きなさい」と。そして、日時を占い定め、二神を降ろした。
そこで、二神は改めてまた 柱 みはしら を巡った。 陽神 をかみ は左から、 陰神 めかみ は右から巡り、出会った時に陽神が先に唱えて「ああ、なんとかわいい 少女 をとめ ではないか」と言った。陰神はその後に和して「ああ、なんとすばらしい 少男 をとこ でしょう」と言った。
このあと、同じ宮に共に住み、子を生んだ。その子を 大日本豊秋津洲 おほやまととよあきづしま と名付けた。次に、 淡路洲 あはぢのしま 。次に、 伊予二名洲 いよのふたなのしま 。次に、 筑紫洲 つくしのしま 。次に、 億歧三子洲 おきのみつごのしま 。次に、 佐渡洲 さどのしま 。次に、 越洲 こしのしま 。次に、 吉備子洲 きびのこしま 。これにより、これを 大八洲国 おほやしまのくに と言う。
瑞、ここでは 弥図 みづ と言う。妍哉、ここでは 阿那而恵夜 あなにゑや と言う。可愛、ここでは 哀 え と言う。太占、ここでは 布刀磨爾 ふとまに と言う。
関連記事 国生み『日本書紀』巻第一(神代上)第四段 一書第1 〜天神ミッションと無知な二神〜ある書はこう伝えている。伊奘諾尊と伊奘冉尊の二神は、天霧の中に立って「私は国を得ようと思う。」と言った。そして、 天瓊矛 あまのぬほこ を指し下ろしてこれを探ると 磤馭慮嶋 おのごろしま を得た。そこで矛を抜き上げ、喜んで「良かった。国がある。」と言った。
〔一書3〕
ある書はこう伝えている。伊奘諾・伊奘冉尊の二神は、 高天原 たかまのはら に 座 いま して「国があるはずだ」と言った。そこで 天瓊矛 あまのぬほこ でかきまわして 磤馭慮嶋 おのごろしま を成した。
〔一書4〕
ある書はこう伝えている。伊奘諾と伊奘冉の二神は、互いに「物があって、浮かんでいる油のようだ。その中に国があると思う」と言った。そこで、 天瓊矛 あまのぬほこ で探って一つの嶋を成した。名付けて 磤馭慮嶋 おのごろしま という。
〔一書5〕
ある書はこう伝えている。陰神が先に唱え「ああ、なんとすばらしい、いい 少男 をとこ でしょう」と言った。この時、陰神が先に言葉を発したので不吉とした。もう一度改めて巡り、 陽神 をかみ が先に唱え「ああ、なんとすばらしい、いい 少女 をとめ ではないか。」と言った。ついに交合しようとしたが、その方法が分からなかった。その時、 鶺鴒 にはくなぶり が飛んで来て、その 首 あたま と尾を揺り動かした。二神は見てこれを学び、すぐに交合の方法を得た。
〔一書6〕
ある書はこう伝えている。二神は交合して夫婦となった。まず 淡路洲 あはぢのしま ・ 淡洲 あはのしま を 胞 えな として、 大日本豊秋津洲 おほやまととよあきづしま を生んだ。次に、 伊予洲 いよのしま 。次に、 筑紫洲 つくしのしま 。次に、 億歧洲 おきのしま と 佐渡洲 さどのしま とを双児で生んだ。次に、 越洲 こしのしま 。次に、 大洲 おほしま 。次に、 子洲 こしま 。
〔一書7〕
ある書はこう伝えている。まず、淡路洲を生んだ。次に、大日本豊秋津洲。次に、 伊予二名洲 いよのふたなのしま 。次に、佐渡洲。次に、筑紫洲。次に、 壱岐洲 いきのしま 。次に、 対馬洲 つしま 。
〔一書8〕
ある書はこう伝えている。磤馭慮嶋を胞として淡路洲を生んだ。次に、大日本豊秋津洲。次に、伊予二名洲。次に、筑紫洲。次に、 吉備子洲 きびのこしま 。次に、億歧洲と佐渡洲を双児で生んだ。次に、越洲。
〔一書9〕
ある書はこう伝えている。淡路洲を胞として大日本豊秋津洲を生んだ。次に、淡洲。次に、伊予二名洲。次に、 億歧三子洲 おきのみつごのしま 。次に、佐渡洲。次に、筑紫洲。次に、吉備子洲。次に、大洲。
ある書はこう伝えている。陰神が先に唱え「ああ、なんとすばらしい、いい 少男 をとこ でしょう」と言った。そこで陽神の手を握り、遂に夫婦となって、淡路洲を生んだ。次に、蛭児。
関連記事 国生み『日本書紀』巻第一(神代上)第四段 一書第2~10 〜多彩に展開する国生み〜 『日本書紀』第五段 現代語訳 国立国会図書館デジタルコレクションより『日本書紀』慶長4(1599)刊版次に、海を生んだ。次に、川を生んだ。次に、山を生んだ。次に、木の 祖 おや 、 句句廼馳 くくのち を生んだ。次に、草の祖、 草野姫 かやのひめ を生んだ。またの名を 野槌 のつち と言う。
ここまで生むと、伊奘諾尊・伊奘冉尊は共に 議 はか り「我々はすでに 大八洲国 おほやしまぐに をはじめ 山川草木 さんせんそうもく まで生んだ。どうして地上世界の統治者を生まないでいようか」と言った。
そこで、共に 日神 ひのかみ を生んだ。名を 大日孁貴 おほひるめのむち と言う。 (大日孁貴、ここでは 於保比屢咩能武智 おほひるめのむち と言う。孁は、音は 力丁 りょくてい の 反 かへし である。ある書には、 天照大神 あまてらすおほかみ と言う。ある書には、 天照大日孁尊 あまてらすおほひるめのみこと と言う。) この 子 こ は、光り輝くこと明るく色とりどりで、世界の内を隅々まで照らした。 故に、二神は喜び「我々の子供は多いけれども、未だこのように霊妙な子はいない。長くこの国に留め置くのはよくない。すぐに天に送り、天上の事を授けるべきだ」と言った。この時、天と地はたがいに遠く離れていなかった。それで 天柱 あまのみはしら をもって天上に送り挙げた。
次に、 月神 つきのかみ を生んだ。 (ある書には、 月弓尊 つくゆみのみこと 、 月夜見尊 つくよみのみこと 、 月読尊 つくよみのみこと と言う。) その光りの色どりは日神に次ぐものであった。日神とならべて天上を治めさせるのがよいとして、また天に送った。
次に、 蛭児 ひるこ を生んだ。しかし三歳になっても脚が立たなかった。それゆえ 天磐櫲樟船 あまのいはくすぶね に乗せ、風のまにまに放棄した。
次に、 素戔鳴尊 すさのをのみこと を生んだ。 (ある書には、 神素戔鳴尊 かむすさのをのみこと 、 速素戔鳴尊 はやすさのをのみこと と言う。) この神は勇ましく残忍であって、いつも 哭 な き泣くことを行いとしていた。このため、国内の人民の多くを早死にさせ、また青々とした山を枯らしてしまった。それゆえ、父母の二神は素戔嗚尊に勅して「お前は、甚だ道に外れている。この世界に君臨してはならない。必ず、遠く 根国 ねのくに へ行かなければならない」と言い、遂に追放した。
関連記事 神生み『日本書紀』巻第一(神代上)第五段 本伝 〜天下之主者生み〜ある書はこう伝えている。伊奘諾尊が「私は天下を統治する優れて貴い子を生もうと思う」と言い、左手で白銅鏡を持つと化し 出 いづ る神があった。これを、 大日孁尊 おほひるめのみこと と言う。右手に 白銅鏡 ますみのかがみ を持つと化し 出 いづ る神があった。これを、 月弓尊 つくゆみのみこと と言う。 また首を廻らせて見たその時に化す神があった。これを、素戔嗚尊と言う。
関連記事 神生み『日本書紀』巻第一(神代上)第五段 一書第1 〜御寓之珍子生み〜ある書はこう伝えている。日と月は既に生まれた。次に、 蛭児 ひるこ を生んだ。この子は三歳になっても脚が立たなかった。 初めに、 伊奘諾 いざなき ・ 伊奘冉尊 いざなみのみこと が柱を巡った時に、陰神が先に喜びの言葉を発したことで陰陽の原理を違えた。それにより今、蛭児が生まれた。
次に、 鳥磐櫲樟橡船 とりのいはくすぶね を生んだ。この船に蛭児を乗せ、流れにまかせ棄てた。
次に、火神の 軻遇突智 かぐつち を生んだ。この時、伊奘冉尊は軻遇突智によって焼かれ 終 かむさ った。その臨終する間、倒れ臥し土神の 埴山姫 はにやまひめ と水神の 罔象女 みつはのめ を生んだ。
そこで、 軻遇突智 かぐつち は 埴山姫 はにやまひめ を 娶 めと って 稚産霊 わくむすひ を生んだ。この神の頭の上に 蚕 かいこ と 桑 くわ が生じ、 臍 へそ の中に五穀が生じた。
〔一書3〕
ある書はこう伝えている。伊奘冉尊は 火産霊 ほむすび を生む時に、子のために焼かれ 神退 かむさ った。 又は神避ると言う。 その 神退 かむさ る時に、水神 罔象女と土神 埴山姫を生み、また 天吉葛 あまのよさづら を生んだ。
〔一書4〕
ある書はこう伝えている。伊奘冉尊は火神 軻遇突智 かぐつち を生む時に、熱に 悶 もだ え 懊悩 おうのう し、そのため 嘔吐 おうと した。これが神に化した。名を金山彦と言う。次に、小便した。これが化して神となった。名を罔象女と言う。次に、大便した。これが化して神となった。名を埴山媛と言う。
〔一書5〕
ある書はこう伝えている。伊奘冉尊は火神を生む時に焼かれ 神退去 かむさ った。故に、紀伊国の熊野の有馬村に葬った。その土地の習俗としてこの神の魂を祭る時には、花の時期には花をもって祭り、また鼓や笛や旗を用いて歌い舞って祭るのである。
関連記事 神生み『日本書紀』巻第一(神代上)第五段 一書第2,3,4,5 ~卑の極まりと祭祀による鎮魂~ある書はこう伝えている。 伊奘諾尊 いざなきのみこと と 伊奘冉尊 いざなみのみこと は共に 大八洲国 おほやしまぐに を生んだ。
その後に、伊奘諾尊は、「私が生んだ国は朝霧だけが立ちこめ満ちていることよ」と言った。そこで吹き払った気が化して神となった。名を 級長戸辺命 しなとべのみこと と言う。また 級長津彦命 しなつひこのみこと と言う。これが、風の神である。また飢えた時に子を生んだ。名を 倉稲魂命 うかのみたまのみこと と言う。また、 海神 わたのかみ 等を生んだ。名を 少童命 わたつみのみこと と言う。 山神 やまのかみ 等は名を 山祇 やまつみ と言い、 水門神 みなとのかみ 等は名を 速秋津日命 はやあきつひのみこと と言い、 木神 きのかみ 等は名を 句句迺馳 くくのち と言い、 土神 つちのかみ は名を 埴安神 はにやすのかみ と言う。その後に、 悉 ことごと くありとあらゆるものを生んだ。
火神 ひのかみ の 軻遇突智 かぐつち が生まれるに至って、その母・伊奘冉尊は 焦 や かれ 化去 かむさ った。その時、 伊奘諾尊 いざなきのみこと は恨み「このたった一児と、私の愛する妻を引き換えてしまうとは」と言った。そこで 伊奘冉尊 いざなみのみこと の頭の辺りで腹ばい、脚の辺りで腹ばい、 哭 な き叫び 涕 なみだ を流した。その涕が落ちて神と成る。これが 畝丘 うねを の 樹下 このもと に 居 ま す神である。名を 啼沢女命 なきさわめのみこと と言う。
遂に、帯びていた 十握剣 とつかのつるぎ を抜き、 軻遇突智 かぐつち を斬り三段になした。このそれぞれが神へ化成した。 また、剣の刃から 滴 したた る血が 天安河辺 あまのやすのかはら にある 五百箇磐石 いほついはむら となった。これが 経津主神 ふつぬしのかみ の 祖 おや である。また、剣の 鐔 つば から滴る血がほとばしって神となった。名付けて 甕速日神 みかはやひのかみ と言う。次に、 熯速日神 ひのはやひのかみ 。その甕速日神は 武甕槌神 たけみかづちのかみ の 祖 おや である (または、 甕速日命 みかはやひのかみ 、次に 熯速日命 ひのはやひのみこと 、次に 武甕槌神 たけみかづちのかみ と言う)。 また、剣の先から滴る血がほとばしって神となった。名付けて 磐裂神 いはさくのかみ と言う。次に、 根裂神 ねさくのかみ 。次に、 磐筒男命 いはつつのをのみこと (一説には 磐筒男命 いはつつのをのみこと と 磐筒女命 いはつつのめのみこと と言う)。 また、剣の 柄 つか から滴る血がほとばしって神となった。名付けて 闇龗 くらおかみ と言う。次に、 闇山祇 くらやまつみ 。次に、 闇罔象 くらみつは 。
しかる後、 伊奘諾尊 いざなきのみこと は 伊奘冉尊 いざなみのみこと を追って 黄泉 よもつくに に入った。共に語るに及び、伊奘冉尊が「私の愛しい夫よ、どうして来るのが遅かったのですか。私は 黄泉 よもつくに で煮炊きした物をすでに食べてしまったのです。でも、私はこれから寝ようと思います。お願いですから、けっして私をご覧にならないでください」と言った時、伊奘諾尊はそれを聴かず、こっそり 湯津爪櫛 ゆつつまぐし を取り、櫛の端の 雄柱 をばしら を折り 松明 たいまつ としてもって見ると、 膿 うみ がわき 蛆虫 うじむし が流れていた。今、世の人が夜に一つ 火 び を灯すことを 忌 い み、また夜に投げ櫛をすることを忌むのは、これが 由縁 ゆえん である。
その時、伊奘諾尊はおおいに驚き「私は、思いもよらず何と嫌な見る目も 汚穢 きたな い国に来てしまったことだ」と言い、すぐに急いで走り帰った。その時、伊奘冉尊は恨んで「どうして約束を守らず私に恥をかかせたのか」と言い、 泉津醜女 よもつしこめ 八人(一説では 泉津日狭女 よもつひさめ と言う) を遣わし追い留めようとした。ゆえに、伊奘諾尊は剣を抜き、後ろ手に振りながら逃げた。黒い 蔓草 つるくさ の頭飾りを投げたことによりたちまち 葡萄 ぶどう となった。 醜女 しこめ は見てこれを採って食べた。食べ終えると更に追う。伊奘諾尊はまた 湯津爪櫛 ゆつつまぐし を投げた。これはたちまち竹の子になった。醜女はまたもこれを抜いて食べた。食べ終えるやまた追う。最後には、伊奘冉尊もまた自ら来て追ってきた。
この時には、伊奘諾尊はすでに 泉津平坂 よもつひらさか に至っていた。 (一説では、伊奘諾尊が大樹に向かって小便をした。するとこれがすぐに大河と成った。泉津日狭女がその川を渡ろうとしている間に、伊奘諾尊はすでに泉津平坂に至った、という。) そこで、伊奘諾尊は千人でやっと引けるくらいの大きな 磐石 いわ でその坂路を塞ぎ、伊奘冉尊と向き合って立ち、遂に離縁を誓う言葉を言い渡した。 その時、伊奘冉尊は「愛しい我が夫よ、そのように言うなら、私はあなたが治める国の民を一日に千人 縊 くび り殺しましょう」と言った。伊奘諾尊は、これに答えて「愛しい我が妻よ、そのように言うならば、私は一日に千五百人産もう」と言った。そこで「これよりは出て来るな」と言って、さっと杖を投げた。これを 岐神 ふなとのかみ と言う。また帯を投げた。これを 長道磐神 ながちわのかみ と言う。また、衣を投げた。これを 煩神 わずらいのかみ と言う。また、 褌 はかま を投げた。これを 開齧神 あきぐひのかみ と言う。また、 履 くつ を投げた。これを 道敷神 ちしきのかみ と言う。 その 泉津平坂 よもつひらさか 、あるいは、いわゆる泉津平坂はまた別に場所があるのではなく、ただ死に臨んで息の絶える間際、これではないか、とも言う。
伊奘諾尊はすでに帰還し、後悔して「私は今しがた何とも嫌な見る目も汚れ 穢 けが れた所に行ったものだ。だから我が身についた 穢 けが れを洗い去ろう」と言い、 筑紫 つくし の 日向 ひむか の 小戸 をど の 橘 たちばな の 檍原 あはぎはら に至り、 禊祓 みそぎはらえ をした。
こういう次第で、身の穢れをすすごうとして、否定的な言いたてをきっぱりとして「上の瀬は流れが速すぎる。下の瀬はゆるやかすぎる」と言い、そこで中の瀬で 濯 すす いだ。これによって神を生んだ。名を 八十枉津日神 やそまがつひのかみ と言う。次にその神の 枉 まが っているのを直そうとして神を生んだ。名を 神直日神 かむなおひのかみ と言う。次に 大直日神 おほなほひのかみ 。 また海の底に沈んで濯いだ。これによって神を生んだ。名を 底津少童命 そこつわたつみのみこと と言う。次に 底筒男命 そこつつのおのみこと 。また潮の中に潜ってすすいだ。これに因って神を生んだ。名を 中津少童命 なかつわたつみのみこと と言う。次に 中筒男命 なかつつのおのみこと 。また潮の上に浮いて濯いだ。これに因って神を生んだ。名を 表津少童命 うわつわたつみのみこと と言う。次に 表筒男命 うわつつのおのみこと 。これらを合わせて九柱の神である。その底筒男命・中筒男命・表筒男命はすなわち 住吉大神 すみのえのおおかみ である。 底津少童命 そこつわたつみのみこと ・ 中津少童命 なかつわたつみのみこと ・ 表津少童命 うわつわたつみのみこと は 安曇連 あずみのむらじ らが祭る神である
そうして後に左の眼を洗った。これによって神を生んだ。名を 天照大神 あまてらすおおみかみ と言う。また右の眼を洗った。これに因って神を生んだ。名を 月読尊 つくよみのみこと と言う。また鼻を洗った。これに因って神を生んだ。名を 素戔嗚尊 すさのおのみこと と言う。合わせて三柱の神である。
こうして、伊奘諾尊は三子に勅して「天照大神は 高天原 たかあまのはら を治めよ。月読尊は青海原の潮が幾重にも重なっているところを治めなさい。素戔嗚尊は 天下 あまのした を治めなさい。」と任命した。
この時、素戔嗚尊はすでに年が長じていて、また握りこぶし八つもの長さもある 鬚 ひげ が生えていた。ところが、天下を治めようとせず、常に大声をあげて哭き怒り恨んでいた。そこで伊奘諾尊が「お前はどうしていつもそのように哭いているのだ」と問うと、素戔嗚尊は「私は 根国 ねのくに で母に従いたいのです。だから、哭いているだけなのです。」と答えた。伊奘諾尊は不快に思って「気のむくままに行ってしまえ」と言って、そのまま追放した。
関連記事 『日本書紀』巻第一(神代上)第五段 一書第6 ~人間モデル神登場による新たな展開~ある書はこう伝えている。 伊奘諾尊は 剣 つるぎ を抜き 軻遇突智 かぐつち を斬り三段になした。その一つは 雷神 いかづちのかみ となり、一つは 大山祇神 おおやまつみのかみ となり、一つは 高龗 たかおかみ となった。
また別の言い伝えではこう伝えている。軻遇突智を斬った時に、その血がほとばしり、 天八十河中 あまのやそのかはら にあった 五百箇磐石 いほついはむら を染めた。それによって神が化成した。名付けて 磐裂神 いはさくのかみ と言う。次に 根裂神 ねさくのかみ 、次に 磐筒男神 いはつつのをのかみ 、次に 磐筒女神 いはつつのめのかみ 、この児、 経津主神 ふつぬしのかみ 。
〔一書8〕
ある書はこう伝えている。伊奘諾尊は軻遇突智命を斬り五段になした。このそれぞれが五つの 山祇 やまつみ に化成した。一つは首で、 大山祇 おほやまつみ となった。二つは身体で、 中山祇 なかやまつみ となった。三つは手で、 麓山祇 はやまつみ となった。四つは腰で、 正勝山 まさか やまつみ 祇となった。五つは足で、 䨄山祇 しぎやまつみ となった。
関連記事 『日本書紀』巻第一(神代上)第五段 一書第7,8 ~激烈なシーンで化成する激烈な神~ある書はこう伝えている。伊奘諾尊は妻に会いたいと思い、 殯斂 ひんれん のところへ行った。この時、伊奘冉尊は生きている時のいつものように出迎え、共に語った。そして伊奘諾尊に「私の夫君よ、どうか私を見ないで下さい」と言った。言い終わると忽然と姿が見えなくなった。このとき暗闇であった。伊奘諾尊は一つ火を灯してこれを見た。すると、伊奘冉尊の身は膨れあがっていて、その上に 八色 やくさ の雷がいた。
伊奘諾尊は驚き逃げ帰った。その時、雷達が皆起きあがり追いかけてきた。すると、道端に大きな桃の樹があった。伊奘諾尊はその樹の下に隠れ、その実を採って雷に投げると、雷達はみな退き逃げていった。これが、桃で鬼を追い払う由縁である。そして、伊奘諾尊は桃の木の杖を投げつけ、「これよりこちら側には、雷は決して来るまい。」と言った。この杖を 岐神 ふなとのかみ と言う。元の名は 来名戸之祖神 くなとのさへのかみ と言う。
いわゆる八色の雷とは、首にいたのは 大雷 おほいかづち といい、胸にいたのは 火雷 ほのいかづち といい、腹にいたのは 土雷 つちのいかづち といい、背にいたのは 稚雷 わかいかづち といい、尻にいたのは 黒雷 くろいかづち といい、手にいたのは 山雷 やまのいかづち といい、足の上にいたのは 野雷 ののいかづち といい、 陰 ほと の上にいたのは 裂雷 さくいかづち という。
関連記事 『日本書紀』巻第一(神代上)第五段〔一書第9〕 一方的な絶縁スタイルある書はこう伝えている。 伊奘諾尊 いざなきのみこと は後を追って、 伊奘冉尊 いざなみのみこと のいる所に至った。
そこで、そこを出て帰ろうとした。この時、ただ黙って帰らず、 盟 ちか って「必ず離縁しよう」と言った。そしてまた「親族のお前には負けない」と言った。そこで(誓いを固めるために)唾を吐いたところの神を 速玉之男 はやたまのを という。次に、これまでの事柄を一掃したことの神を 泉津事解之男 よもつことさかのを という。合わせて二柱の神である。
その妻と泉平坂で相戦う時になって、伊奘諾尊は、「始め、私が親族のお前のために悲しみ、また慕ったのは、私が弱かったからだ」と言った。すると、 泉守道者 よもつちもりひと が、「伊奘冉尊のお言葉があります。『私はすでにあなたと国を生みました。どうしてさらに生きる事を望みましょうか。私はこの国に留まります。あなたと一緒にこの国を去ることはしません』と仰いました」と言った。この時、 菊理媛神 くくりひめのかみ からも言葉があった。伊奘諾尊はそれを聞いて褒めた。そして、去って行った。
しかし、伊奘諾尊は自ら泉国を見た。これは全く良くないことだった。この穢れを濯ぎ払おうと思い、すぐに 粟門 あわのと や 速吸名門 はやすいなと を見に行った。しかしこの二つの海峡は潮の流れが非常に速かった。それ故、 橘小門 たちばなのをど に帰り、穢れを濯ぎ払った。
その時に、水に入って 磐土命 いはつつのみこと を吹き生んだ。水から出て、 大直日神 おほなほびのかみ を吹き生んだ。また入って、 底土命 そこつつのみこと を吹き生んだ。水を出て、 大綾津日神 おほあやつひのかみ を吹き生んだ。また入って、 赤土命 あかつちのみこと を吹き生んだ。そして水から出て、大地・海原の諸々の神々を吹き生んだ。
関連記事 『日本書紀』巻第一(神代上)第五段〔一書10〕 黄泉との完全なる断絶こうしてすでに天照大神は天上にあり、「葦原中国に 保食神 うけもちのかみ がいると聞く。月夜見尊よ、そこに行き様子をうかがってきなさい」と言った。
月夜見尊が勅命を受けて降り、 保食神 うけもちのかみ のもとに到ると、保食神はさっそく首を巡めぐらし、国に向かえば口から飯を出し、また海に向かえば大小さまざまな魚を口から出し、また山に向かえば大小さまざま獣を口から出した。それらの品物をことごとく備え、たくさんの机に積み上げて饗応した。この時、月夜見尊は怒り顔を真っ赤にして「穢らわしい、卑しいことだ。どうして口から吐いた物でもって私をもてなすことできるのか」と言い、たちまち剣を抜いて打ち殺した。
この後に、天照大神はまた 天熊人 あまのくまひと を遣わし見に行かせた。この時、 保食神 うけもちのかみ はすでに死んでいた。しかし、その神の頭には牛馬と化し、額に粟が生え、眉に繭が生え、眼に稗が生え、腹に稲が生え、陰には麦と大豆・小豆が生えてあった。天熊人はそれを全て取って持ち去り、天照大神に奉った。
時に天照大神は喜び、「この物は、この世に生を営む人民が食べて活きるべきものである。」と言って、粟・稗・麦・豆を陸田(畑)の種とし、稲を水田の種とした。またこれにより 天邑君 あまのむらきみ (村長)を定めた。そこでその稲の種を天狭田と長田に植えることを始めた。その秋には、垂れた稲穂が握り 拳 こぶし 八つにたわむほど茂り、たいへん爽快であった。また、口の中に繭を含み糸を 抽 ひ き出すことができた。これにより養蚕の道ができたのである。
関連記事 『日本書紀』巻第一(神代上)第五段〔一書11〕 天照大神の天上統治と農業開始 『日本書紀』第六段 現代語訳 『日本書紀』国立国会図書館デジタルコレクションより慶長4(1599)刊版この後、伊弉諾尊は、神としての功績をすでに全て終えて、霊妙な命運がまさに 遷 うつ ろうとしていた。そこで、 幽宮 かくれのみや を 淡路洲 あはぢのくに に構え、ひっそりととこしえに身を隠した。またこうも伝えている。伊弉諾尊は、神としての功績がすでに頂点に達し、神德もまた偉大であった。そこで、天に登り 天神 あまつかみ に報告した。これにより、日の 少宮 わかみや に留まり住んだという。 少宮、ここでは「 倭柯美野 わかみや 」と云う。
はじめ、素戔嗚尊が天に昇る時、大海原がこれによって激しく波打ちぶつかりあい、山々はそのために山なりが響きとどろいた。これは、神性の 雄々 おお しく 猛々 たけだけ しいことがそうさせたのである。
天照大神は、もとよりその神の暴悪を知っていて、参上しに来るさまを聞くに及んで、にわかに驚き、「私の弟が来るのは、よもや善意ではあるまい。思うに、きっと国を奪う意志があるのだろう。そもそも父母が既にそれぞれの子に委任しそれぞれが統治する境界をもっている。それなのにどうして赴くべき国を棄て置き 此処 ここ を狙おうとするのか」と言った。 そこで、髪を結って 髻 みづら にし、 裳 も を縛って 袴 はかま にして、 八坂瓊 やさかに の 五百箇御統 いほつみすまる を (御統 ここでは「みすまる」と云う) 髻 みづら ・ 鬘 かづら や腕に巻きつけ、また背には 千箭 ちのり の 靫 ゆき (千箭 ここでは「ちのり」と云う) と 五百箭 いほのり の靫を負い、 臂 ひじ には 稜威 いつ の 髙鞆 たかとも (稜威 ここでは「いつ」と云う。) をつ け、 弓彇 ゆはず を振りたて、剣の 柄 つか を力強く握りしめて、大地を踏んで 股 また までのめり込ませて淡雪のように蹴散らかし (蹴散 ここでは「くゑはららかす」と云う) 、 稜威 いつ の 雄詰 をたけび をし (雄詰 ここでは「をたけび」と云う) 、稜威の 嘖譲 ころひ を発して (嘖讓、ここでは「ころひ」と云う) 、直ちに問い詰めた。
素戔嗚尊はこれに対して「私にはもともと邪悪な心はありません。ただ、父母の厳しい勅命が既にあり、永久に根国に行こうとしているのです。それで、もし姉にお会いしなければ私はどうして 去 ゆ くことができましょうか。それですから、雲や霧を踏み越えて遠路はるばる参り来たのです。姉上が反対に厳しいお怒りの顔をなさるとは思いもしませんでした。」と答えた。
その時、天照大神がまた問うて「もしそうだとしたら、何をもってお前の潔白な心を明らかにするか」と言うと、答えて「姉上と共に 誓 うけひ することをお願いします。この 誓約 うけひ の中では、 (誓約之中 ここでは「うけひのみなか」と云う) 必ず子を生むことにしましょう。もし私の生むのが女であれば邪心があるとしてください。もし男であれば清き心があるとしてください」と言った。
そこで、天照大神が素戔嗚尊の 十握剣 とつかのつるぎ を求め取り、打ち折って三段にして、 天真名井 あまのまない で濯いで、がりがりと噛み砕き (○然咀嚼 ここでは「佐さがみにかむ」と云う) 、吹き棄てた 息吹 いぶき の細かな霧で (吹棄気噴之狭霧 ここでは「ふきうつるいふきのさぎり」と云う) 生んだ神を、名付けて 田心姫 たごりひめ と言う。次に、 湍津姫 たぎつひめ 、次に、 市杵嶋姫 いちきしまひめ 。合わせて三女である。
そうしてのち、素戔嗚尊が天照大神の 髻 みづら ・ 鬘 かづら および腕に 纏 ま いている 八坂瓊 やさかに の 五百箇御統 いほつみすまる を乞い取り、天真名井に濯いで、がりがりと噛み砕き、吹き棄てた 息吹 いぶき の細かな霧で生んだ神を、名付けて 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊 まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと と言う。次に、 天穂日命 あまのほひのみこと これは 出雲臣 いづものおみ ・ 土師連 はじのむらじ 等の 祖 おや である。 次に、 天津彦根命 あまつひこねのみこと 。 これは 凡川内直 おほしかふちのあたひ ・ 山代直 やましろのあたひ 等の祖である。 次に、 活津彦根命 いつくひこねのみこと 。次に、 熊野櫲樟日命 くまののくすひのみこと 。合わせて五男である。
この時、天照大神は勅して「その 物根 ものざね をたずねると、八坂瓊の五百箇御統は私の物である。だから五男神はすべて私の子である」と言い、引き取って子として養育した。また勅して「その十握剣は素戔嗚尊の物である。だからこの三女神はすべてお前の子である」と言い、素戔嗚尊に授けた。これは、 筑紫胸肩君 つくしのむなかたのきみ 等が祭る神である。
関連記事 天照大神と素戔嗚尊の誓約|『日本書紀』巻第一(神代上)第六段 本伝〔一書1〕
ある書はこう伝えている。 日神 ひのかみ は、もともと 素戔鳴尊 すさのをのみこと に勇猛で物を突き抜けてその上に出るような 意 こころ のあることを知っていた。その天に昇り至るに及んで、思うようは、「弟の来たわけは、決して善意ではあるまい。必ずやわたしの 天 あま の 原 はら を奪うに違いない。」と。そこで 大夫 ますらを の武の装備をととのえ、身には十握剣・ 九握剣 ここのつかつるぎ ・ 八握剣 やつかつるぎ を帯び、背に 靫 ゆき を負い、また 臂 ひじ には 稜威 いつ の 髙鞆 たかとも を 著 つ け、手に弓と 箭 や をつかみ、みずから迎え防禦した。この時 素戔鳴尊 すさのをのみこと が日神に告げて「私はもともと悪い心(国を奪い取る反逆心)などありません。ただ姉とお会いしたいと思い、ただそれだけで少しの間来たに過ぎないのです。」と言った。そこで日神は、 素戔鳴尊 すさのをのみこと と共に向き合って誓を立て「もし爾の心が明浄で、国を力づくで奪い取る意志がないのならば、汝の生む児は、必ず男のはずだ。」と言い、そう言い終わると、先に身に帯びている 十握剣 とつかのつるぎ を食べて児を生んだ。名を 瀛津島姫 おきつしまひめ と言う。また 九握剣 ここのつかのつるぎ を食べて児を生んだ。名を 湍津姫 たぎつひめ と言う。また 八握剣 やつかのつるぎ を食べて児を生んだ。名を 田心姫 たごりひめ という。合わせて三女神である。
そうしたあと今度は 素戔鳴尊 すさのをのみこと がその 頸 くび にかけている 五百箇御統 いほつみすまる の 瓊 に (数多くの玉を数珠つなぎした美玉)を 天渟名井 あまのぬない 、またの名は 去来 いざ の 真名井 まない に濯いで食べ、そうして子を生んだ。名を 正哉吾勝勝速日天忍骨尊 まさかあかつかちはやひあまのおしほねのみこと と言う。次に 天津彦根命 あまつひこねのみこと 。次に 活津彦根命 いくつひこねのみこと 。次に 天穂日命 あまのほひのみこと 。次に 熊野忍蹈命 くまののおしほみのみこと 。合わせて五男神である。
それゆえ、 素戔鳴尊 すさのをのみこと はすでに勝の 験 しるし (証拠)を得た。そこで、日神は、 素戔鳴尊 すさのをのみこと にもともと悪意がなかったことをまさに知り、そこで日神の生んだ三女神を 筑紫 つくし の 洲 くに に 降 くだ した。これにより、三女神に教えて「 汝 なんじ 三神は、 道中 みちなか (〔一書 第三〕に「海の北の道中」という海路をいう。この 玄界灘 げんかいなだ の沖ノ島に 沖津宮 おきつみや 、大島に 中津宮 なかつみや 、 宗像 むなかた に 返津宮 へつみや がある)に降り居て、 天孫 てんそん (後に降臨する 火瓊瓊杵尊 ほのににぎのみこと )を助け奉り、天孫に祭られなさい。」と言った。
〔一書2〕
ある書はこう伝えている。 素戔鳴尊 すさのをのみこと が天に昇ろうとする時に、名を 羽明玉 はあかるたま という神が迎え奉り、めでたいしるしの 八坂瓊曲玉 やさかにのまがたま (大きな美しい 珠 たま の湾曲した玉)を進呈した。それで、 素戔鳴尊 すさのをのみこと はその 瓊玉 たま を持って天上に到ったのである。
この時、 天照大神 あまてらすおおかみ は、弟に悪い心(国を奪い取る邪悪な心)があることを疑い、軍兵を動員して問い詰めた。 素戔鳴尊 すさのをのみこと はこれに対して「私の来た理由は、実際に姉とお会いしたいと思ったからです。また 珍宝 たから の 瑞八坂瓊曲玉 みずのやさかにのまがたま を献上しようとしただけです。それ以外にことさら意図などありません。」と答えた。この時また 天照大神 あまてらすおおかみ が「汝のその言葉が嘘か 実 まこと か、何を 験 しるし (証拠)とするのか。」と問うと、答えて「私が姉と共に 誓約 うけひ を立てることを要請します。この誓約の間に、女を生めば 黒心 きたなきこころ (国を奪い取る謀反の心)であり、逆に男を生んだら 赤心 きよきこころ (潔白な心)です。」と答えた。そこで 天 あまの 真名井 まない を 三処 みところ 掘り、ともに向き合って立った。
この時、 天照大神 あまてらすおおかみ が 素戔鳴尊 すさのをのみこと に向かって「私の 帯 お びる剣を、今汝に奉ろう。汝の持っている 八坂瓊曲玉 やさにのまがたま を私に授ければよい。」と言った。このように約束し、共に所持品を交換して取った。そうしたあと 天照大神 あまてらすおおかみ は八坂瓊曲玉を天真名井に浮かべ寄せて、 瓊 に の端を噛んで断ち切り、口から吹き出した 気息 いき の中に神を化生した。名を 市杵嶋姫命 いちきしまひめのみこと という。これが大海の遠い沖( 沖津宮 おきつみや )に居る神である。また瓊の中ほどをかんで断ち切り、口から吹き出した
気息 いき の中に神を化生した。名を 田心姫命 たこりひめのみこと という。これが中ほどの沖あい( 中津宮 なかつみや )に居る神である。また瓊の尾(尻に当たる部分)をかんで断ち切り、口ちから吹き出した 気息 いき の中に神を化生した。名を 湍津姫命 たぎつひめのみこと という。これが浜辺( 辺津宮 へつみや )に居る神である。合わせて三女神である。
そこで今度は 素戔鳴尊 すさのをのみこと が持っている剣を天真名井に浮かべ寄せて、剣の末(切っ先)をかんで断ち切り、口ちから吹き出した気息の中に神を化生した。名を 天穂日命 あまのほひのみこと という。次に 正哉吾勝勝速日天忍骨尊 まさかあかつかちはやひあまのおしほねのみこと 。次に 天津彦根命 あまつひこねのみこと 。次に 活津彦根命 いくつひこねのみこと 。次に 熊野櫲樟日命 くまのくすひのみこと 。合わせて五男神であると、 爾 しか 云 い う(「爾」が以上の記述全体を指す。「一書曰」に対応する締め括り辞)。
〔一書3〕
ある書はこう伝えている。 日神 ひのかみ は 素戔鳴尊 すさのをのみこと と 天安河 あまのやすのかは を隔てて向き合い、そこで 誓約 うけひ を立て「 汝 なんじ にもし 姧賊之心 あたなふのこころ (国を奪い取る邪悪な心)がないのであれば、汝の生む子は必ず男である。もし男を生めば、私は子として 天原 あまのはら を治めさせる。」と明言した。さてそこで、日神が先にその帯びている 十握剣 とつかのつるぎ を食べて児の 瀛津嶋姫命 おきつしまひめのみこと を化生した。 亦 また の名を 市杵嶋姫命 いちきしまひめのみこと という。また 九握剣 ここのつかのつるぎ を食べて児の 湍津姫命 たぎつひめのみこと を化生した。また 八握剣 やつかのつるぎ を食べて児の 田霧姫命 たきりひめのみこと を化生した。
そうして今度は 素戔鳴尊 すさのをのみこと がその左手の 髻 みづら に 纏 ま きつけている 五百箇統 いほつみすまる の 瓊 に を口に含み、吐き出して左手の掌中に 著 つ けて男を化生した。そこでこれを 称 たた えて「なんとまさしくも、私が勝ったのだ。」と言った。だから、それによって名付け、 勝速日天忍穂耳尊 かちはやひあまのおしほみみのみこと と言う。また右の髻の瓊を口に含み、吐き出して右手の掌中に著け、 天穂日命 あまのほひのみこと を化生した。また 頸 くび にかけている瓊を口に含み、吐き出して左 臂 ひぢ の中に著け、 天津彦根命 あまつひこねのみこと を化生した。また右臂の中から 活津彦根命 いくつひこねのみこと を化生した。また左足の中より 熯之速日命 ひのはやひのみこと を化生した。また右足の中から 熊野忍蹈命 くまののおしほみのみこと を化生した。亦の名を、 熊野忍隅命 くまののおしくまのみこと という。その 素戔鳴尊 すさのをのみこと の生んだ児は、皆まさに男である。
それゆえに、 日神 ひのかみ はまさに 素戔鳴尊 すさのをのみこと にもともと 赤心 きよきこころ (潔白な心)があったことを知った。そこでその六男を引き取って日神の子とし、 天原 あまのはら を治めさせた。同時に、日神の生んだ 三女神 みはしらのひめかみ は、 葦原中国 あしはらのなかつくに の 宇佐嶋 うさのしま に 降 くだ して 居 を らせた。今、海の北の 道中 みちなか に在って、名を 道主貴 みちぬしのむち と言う。これは、 筑紫 つくし の 水沼君 みぬまのきみ 等 ら の祭る神がこれである。「熯」は、「 干 かん 」である。ここでは「 備 ひ 」と云う。
『日本書紀』第七段 現代語訳〔本伝〕
この後には、 素戔鳴尊 すさのをのみこと の行うことが、甚だ常軌を逸脱したものであった。何かといえば、 天照大神 あまてらすおおかみ は 天狭田 あまのさだ ・ 長田 ながた を 御田 みた としていたが、その時、 素戔鳴尊 すさのをのみこと が春にはその御田のすでに種子を播いた上にさらに種子を播き、「重播種子」は、ここでは「 璽枳磨枳 しきまき 」と云う。しかもまたその 畔 あぜ を壊しなどする。秋には、 天斑駒 あまのふちこま を放ち、稲の実る田の中に伏せさせ、また 天照大神 あまてらすおおかみ が 新嘗 にひなへ (新穀を神に供えかつ食する祭祀)をする時を見計らっては、新造した宮(新嘗を行う殿舎)にこっそり 糞 くそ を放ちかける。また 天照大神 あまてらすおおかみ がまさに 神衣 かむみそ を織って 斎服殿 いみはたどの (機を織る神聖な殿舎)に居るのを看ると、天斑駒の皮を 剥 は ぎ、その 殿 おほとの の 甍 いらか を 穿 うが って投げ込んだ。この時、 天照大神 あまてらすおおかみ は驚愕して、織り機の 梭 ひ で身を傷つけてしまった。
これによって激怒し、そこで 天石窟 あまのいはや に入り、 磐戸 いはと を閉じて籠もってしまった。それゆえ、この世界中が 常闇 とこやみ (はてしなく続く闇)となり、昼と夜の交代も分からなくなってしまった。
この時、 八十万神 やそよろづのかみ が 天安河辺 あまのやすのかはら に会合して、その祈るべき方法を計画した。それゆえ、 思兼神 おもひかねのかみ は深謀遠慮をめぐらせ、遂に 常世 とこよ (神仙境)の 長鳴鳥 ながなきどり (鳴き声を長くのばして 暁 あかつき を告げる鶏)を集めて互いに長鳴きさせ、また 手力雄神 たちからをのかみ を磐戸の側に立たせた。そうして 中臣連 なかとみのむらじ の 遠祖 とほつおや 天児屋命 あまのこやねのみこと と 忌部 いみべ の 遠祖 とほつおや 太玉命 ふとたまのみこと が、 天香山 あまのかぐやま の 五百箇 いほつ 真坂樹 まさかき (神域を画するりっぱな 境木 さかき )を根こそぎ掘り出し、上の枝には 八坂瓊 やさかに の 五百箇御統 いほつみすまる をかけ、中の枝には 八咫鏡 やたのかがみ をかけ、あるいは「 真経津鏡 まふつのかがみ 」と云う。下の枝には 青和幣 あをにきて 、「和幣」は「 尼枳底 にきて 」と云う。 白和幣 しろにきて をかけ、一緒にその 祈祷 きとう に尽くした。また 猨女君 さるめきみ の
天鈿女命 あまのうずめのみこと は、手に 茅 ちがや を 纏 ま いた 矟 ほこ を持ち、 天石窟戸 あまのいはやと の前に立って巧みに 俳優 わざおき (独特の所作を伴う舞踊。演者を 倡優 しょうゆう という)をした。また 天香山 あまのかぐやま の 真坂樹 まさかき を 鬘 かづら (髪飾り)にし、 蘿 ひかげ ( 蘿蔓 ひかげのかずら で、常緑のシダ類)「蘿」は、ここでは「 比舸礙 ひかげ 」と云う。を 手繦 たすき にして、「手繦」は、ここでは「 多須枳 たすき 」と云う。かがり火を焚き、 覆槽 うけ (逆さに伏せた 桶 おけ )を伏せ置き、「覆槽」は、ここでは「 于該 うけ 」と云う。 顕神明之憑談 かむがかり (神の 憑依 ひょうい による神託を顕現すること)した。「顕神明之憑談」は、ここでは「 歌牟鵝可梨 かむがかり 」と云う。
この時、 天照大神 あまてらすおおかみ はこれを聞いて「私がこのごろ 石窟 いはや を閉じて籠もっている以上、 豊葦原中国 とよあしはらのなかつくに は必ず長く続く夜であるのに、どうして天鈿女命はこのように大笑いして楽しんでいるのだろうか。」と言い、そこで 御手 みて で 磐戸 いはと を少しだけ開いて 窺 うかが った
その時とばかり、 手力雄神 たちからをのかみ が 天照大神 あまてらすおおかみ の手を承け奉り、引いて石窟からお出し申し上げた。そこで、 中臣神 なかとみのかみ と 忌部神 いみべのかみ がただちに 端出之縄 しりくめなは (しめなわ。通常とは逆に左 捻 ひね りにわらの端を出したまま 綯 な う)を石窟の入り口に引き渡して境とし、「縄」また「左縄端出」と云う。ここでは「 斯梨倶梅儺波 しりくめなは 」と云う。そこで「二度とお戻りなさってはいけません。」と請い申しあげた
その後 諸神 もろもろのかみたち は 罪過 つみとが を 素戔鳴尊 すさのをのみこと に帰して、 千座置戸 ちくらおきと (物を置く数多くの場所。そこに置く莫大な賠償品)を科し、遂に督促して徴収した。これに応じないため、髪を抜いてその罪を 購 あがな わせるに至った。また別に、その手足の爪を抜いて購ったと言う。こうしたあと、遂に放逐して降したのである。
〔一書1〕
ある書はこう伝えている。 誓約 うけひ の後に、 稚日女尊 わかひるめのみこと が 齊服殿 いみはたどの に 坐 いま して神の 御服 みそ を織っていた。 素戔鳴尊 すさのをのみこと はこれを見ると、生きたまま 班駒 ふちこま を 逆剥 さかは ぎ(尻のほうから皮を 剥 は ぐこと)に剥いで、その 殿内 おほとののうち に投げ入れた。 稚日女尊 わかひるめのみこと は、これに驚いて 機 はた から墜ち、持っていた 梭 ひ で体を傷つけて死去した。それゆえ、 天照大神 あまてらすおおかみ は 素戔鳴尊 すさのをのみこと に対して「 汝 なんじ はやはり 黒心 きたなきこころ がある。汝と会おうとは思わない。」と言い、そこで 天石窟 あまのいはや に入り、 磐戸 いはと を固く閉じてしまった。ここにおいて天下は常に闇となり、昼と夜の交替も無くなってしまった。
それゆえ、 八十万神 やそよろずのかみ を 天高市 あまのたけち (交易する市のように神の集う小高い場所)に会し、善後策を問うた。この時、 高皇産霊尊 たかみむすひのみこと の子息の 思兼神 おもひかねのかみ という者がいた。思慮の智があったので、思いをめぐらして「あの神の 象 みかた をかたち造って、招き 禱 いの り 奉 たてまつ るのがよい。」と申しあげたのである。それゆえさっそく 石凝姥 いしこりどめ を鍛冶工とし 天香山 あまのかぐやま の 金 かね を採って 日矛 ひほこ を作った。また 真名鹿 まなか ( 愛子 まなご の 愛 め で、愛らしい鹿)の皮を 丸剥 まるは ぎにして 天羽鞴 あまのはぶき (火を起こすさい風を送る道具、ふいご)を作った。これらを用いて 天照大神 あまてらすおおかみ の像を造り奉った神が、 紀伊国 きのくに に鎮座する 日前神 ひのくまのかみ である。「石凝姥」は、ここでは「 伊之居梨度咩 いしこりどめ 」と云う。「全剥」、ここでは「 宇都播伎 うつはぎ 」と云う。
ある書はこう伝えている。 日神尊 ひのかみのみこと が 天垣田 あまのかきた を 御田 みた としていた。この時、 素戔鳴尊 すさのをのみこと は、春にはその田の 渠 みぞ を埋め、 畦 あぜ を壊し、また秋の穀物がすでに成熟すれば、横取りあるいは収穫を妨害するため勝手に 絡縄 あぜなは (丈夫な縄)をその田に引き渡した。また 日神 ひのかみ が 織殿 はたどの に居た時には、 班駒 ふちこま を生きたまま皮を剥いでその 殿内 おほとののうち に投げ込んだ。おしなべてこの 諸事 もろもろのわざ は、ことごとくが 暴虐 ぼうぎゃく であった。そうではあっても、 日神 ひのかみ は、情け深い親愛の 意 こころ があり、怒らず恨まずに、すべて穏やかな心で容認した。
それでも、 日神 ひのかみ が 新嘗 にひなへ に当たっている(新穀を神に供え、神と共食する神聖な行事のさなか)時に及ぶと、 素戔鳴尊 すさのをのみこと はそれを見計らってその新嘗を行う 新宮 にひなへのみや の 日神 ひのかみ の 御席 みまし の下にひそかに 糞 くそ をした。 日神 ひのかみ は、なにも知らないまま、じかにその席の上に 坐 すわ った。これにより、 日神 ひのかみ は全身が病んでしまった。それゆえ、たいそう怒り恨み、ただちに天石窟に籠もってその磐戸を閉じた。
この時、 諸神 もろもろのかみたち は憂慮し、そこで 鏡作部 かがみつくり の 遠祖 とほつおや である 天糠戸 あまのあらと には鏡を造らせ、 忌部 いみべ の遠祖である 太玉 ふとたま には 幣 にきて を造らせ、 玉作部 たますりべ の遠祖である 豊玉 とよたま には玉を造らせた。また 山雷 やまつち (山の神)には 五百箇真坂樹 いほつまさかき の 八十玉籤 やそたまくし (神にささげる祭具、 玉串 たまぐし )を採らせ、 野槌 のつち (野の神霊)には 五百箇野薦 いほつのすすき の八十玉籤を採らせた。おしなべてこの諸諸の物が皆来て集まった。その時に 中臣 なかとみ の遠祖である 天児屋命 あまのこやねのみこと が 日神 ひのかみ の祝い 言 こと を言葉の限り 称 とな えあげた。ここにおいて、 日神 ひのかみ はまさに磐戸を開いて出た。この時に鏡をその石窟に入れたので、戸に触れて鏡に小さな 瑕 きず ができてしまった。その瑕は、今もなお残っている。これがつまり、伊勢のあがめ敬う神秘な大神である。
そうしたあと、罪を 素戔鳴尊 すさのをのみこと に科して、その罪を 祓 はら うためのものを出させた。こうして 手端 たなすゑ の 吉棄物 よしきらひもの (祓えの具として切った手の爪)、 足端 あしすゑ の 凶棄物 あしきらひもの (祓えの具として切った足の爪)があり、また 唾 つば を 白和幣 しろにきて (唾液の供え物)とし、 洟 はな を 青和幣 あをにきて (鼻水の供え物)とし、これらを用いて 解除 はらへ ( 罪穢 つみけが れを除去する祓え)をやり終え、遂に 神逐 かむやらひ (神の追放)の理によって追放した。「送糞」は、ここでは「 俱蘇摩屢 くそまる 」と云う。「玉籤」は、ここでは「 多摩俱之 たまくし 」と云う。「祓具」は、ここでは「 波羅閉都母能 はらへつもの 」と云う。「手端吉棄」はここでは「 多那須衛能余之岐羅毘 たなすゑのよしきらひ 」と云う。「神祝祝之」は、ここでは「 加武保佐枳保佐枳枳 かむほさきほさきき 」と云う。「逐之」は、ここでは「 波羅賦 はらふ 」と云う。
〔一書3〕
ある書はこう伝えている。この後に([一書 第一]と同じ書き出しのかたちをとるが、 誓約 うけひ の後ではなく、先行する内容は不明)、 日神 ひのかみ の田は三カ所あった。名を 天安田 あまのやすだ ・ 天平田 あまのひらた ・ 天邑并田 あまのむらあわせた という。これは皆良田であった。 長雨 ながあめ や 干魃 かんばつ に見舞われても、損なわれたり壊れたりなどしない。一方、その弟の 素戔鳴尊 すさのをのみこと の田も、また三カ所あった。名を 天樴田 あまのくひだ ・ 天川依田 あまのかはよりだ ・ 天口鋭田 あまのくちとだ という。これは、どこも土地がやせて狭小であり、石も多い。雨が降れば流れ、また 旱 ひでり であれば 焦 や けてしまう。それゆえ、 素戔鳴尊 すさのをのみこと は姉の田を妬んで害を加えた。春には、田の用水路をだめにし、溝を埋め、 畔 あぜ を壊し、またすでに 種子 たね を播いた上に重ね播きする。秋には、収穫前の田に串を刺して自分のものとしたり、馬を入れて 腹這 はらば いにさせたりする。すべてこの悪事の止む時がまったく無かった。それにもかかわらず、 日神 ひのかみ は怒らず、いつも穏やかで思いやりの心で容認していた。 云云 うんぬん 。(省略を表す語。その省略は、日神の天石窟閉居を導く 素戔鳴尊 すさのをのみこと の 悪辣 あくらつ な行為を主な内容とする先行[一書 第二]を前提とする)。
日神 ひのかみ が 天石窟 あまのいはや にとじ籠もるに及んで、 諸神 もろもろのかみたち は 中臣連 なかとみのむらじ の 遠祖 とほつおや である 興台産霊 こごとむすひ の児の 天児屋命 あまのこやねのみこと を遣わして祈らせた。そこで 天児屋命 あまのこやねのみこと は、 天香山 あまのかぐやま の 真坂木 まさかき を根ごと掘り出し、その上の枝には、 鏡作 かがみつくり の 遠祖 とほつおや である 天抜戸 あまのぬかと の児の 石凝戸辺 いしこりとべ が作った 八咫鏡 やたのかがみ を掛け、中の枝には、 玉作 たますり の遠祖である 伊奘諾尊 いざなきのみこと の 児 みこ の 天明玉 あまのあかるたま が作った 八坂瓊 やさかに の 曲玉 まがたま を掛け、下の枝には、 粟国 あはのくに の 忌部 いみべ の遠祖である 天日鷲 あまのひわし が作った 木綿 ゆふ (木の繊維を糸状にした祭器。 榊 さかき に掛け、 襷 たすき にして神事に使う)を掛け、そうして忌部の 首 おびと の遠祖である 太玉命 ふとたまのみこと にこの真坂木を手に取り持たせ、壮大・重厚に賛美するたたえごとを祈り申し上げた。時に、 日神 ひのかみ はこれを聞いて「このごろ人が何度も 石窟 いはや から出るように誓願するが、いまだこんなにも 麗美 うるは しい言葉はない。」と言い、そこで磐戸を細めに開けて外を 窺 うかが った。この時、 天手力雄 あまのたちからを が磐戸の 側 かたわら にひかえていたので、ただちに磐戸を引き開けると、 日神 ひのかみ の光が世界の隅々まで満ちた。
それゆえ、 諸神 もろもろのかみたち は大いに喜び、さっそく 素戔鳴尊 すさのをのみこと に 千座置戸 ちくらおきと の 解除 はらへ (罪 穢 けが れを祓うためのもの、祓えの 具 ぐ )を科し、手の爪を吉爪棄物とし、足の爪を 凶爪棄物 あしきらひもの とした。そこで、 天児屋命 あまのこやねのみこと にその解除のこの上なく荘重・厳粛な 祝詞 のりと を 掌 つかさど り、唱えさせた。 世人 よのひと が自分の爪を慎重に収めるのは、これがその縁(ことの起こり)なのである。
そうしたあと、諸神は 素戔鳴尊 すさのをのみこと を責めとがめて「 汝 なんじ が所行は甚だ常軌を逸している。だから天上に住んではならない。また 葦原中国 あしはらのなかつくに にも居てはならない。今すぐに 底根之国 そこつねのくに に往くがよい。」と言い、そこで共に天上から 逐 お い降り 去 い かせた。
ちょうどこの時、霖雨が降っていた。 素戔鳴尊 すさのをのみこと は青草を結い束ねて笠や蓑とし、宿を多くの神に乞うた。神神は「汝は、みずからの所行が濁って悪辣だから追い払われ流されるのだ。それなのに、どうして宿を私に乞うのか。」と言い、結局みな同じように拒絶した。そこで、風雨は甚だしかったけれども、留まり休むことができずに、つらく苦しみながら降った。それ以来、世の人では、笠や 蓑 みの を着けたまま他人の家の屋内に入ることを 諱 い むのである。また束ねた草を負って他人の家の内に入ることも諱む。これを犯す者があれば、必ず 解除 はらへ (祓えの具)を出して 償 つぐな わさせる。これは、太古から残されてきたきまり・制度である。
この後に、 素戔鳴尊 すさのをのみこと は「 諸神 もろもろのかみたち が私を追放した。私は、今ここから永久に去ろうと思うけれども、どうして姉と会うことも無く、自分勝手にただちに去ることができようか。」と言い、また天地を揺るがして天に昇った。この時、 天鈿女 あまのうずめ が見て、 日神 ひのかみ に報告した。日神は「私の弟が天に昇って来る理由は、決して好意ではない。必ず我が国を奪おうとしているのではないか。私は婦女だが、どうして避けようか。」と言い、みずから戦いの 備 そな えを身に装った。 云云 うんぬん (省略を表す語。前出)。
そこで 素戔鳴尊 すさのをのみこと は 誓 うけひ をして「私がもし善くない心を懐いて再度ここに昇って来たのであれば、私がいま玉を噛んで生む児は、必ずや女であるはずです。そうだとしたら、この女の児を葦原中国に降すことができます。もし清い心があるのであれば、必ずや男を生むはずです。そうだとしたら、この男の児に天上を統治させることができます。また姉の生むのも(生む児の男女とその処遇との対応)、またこの誓いと同じです。」と言った。ここにおいて、日神が先に 十握剣 とつかのけん を噛み、云云。
素戔鳴尊 すさのをのみこと は、そこで 緒 お もくるくるとその左の 髻 みずら に 纏 ま いている 五百箇統 いほつみすまる の 瓊 に の緒を解き、瓊の触れ合う音もさやかに 天渟名井 あまのぬない に 濯 すす ぎ浮かべ、その瓊の端を噛み、吐き出して左の 掌 たなごころ に置いて児の 正哉吾勝勝速日天忍穂根尊 まさかあかつかちはやひあまのおしほねのみこと を生んだ。また右の瓊を噛み、吐き出して右の掌に置いて、児の 天穂日命 あまのほひのみこと を生んだ。これが、 出雲臣 いずものおみ ・ 武蔵国造 むさしのくにのみやつこ ・ 土師連等 はじのむらじら の 遠祖 とほつおや である。次に 天津彦根命 あまつひこねのみこと 。これが、 茨城国造 うばらきのくにのみやつこ ・ 額田部連 ぬかたべのむらじ 等 ら の遠祖である。次に 活目津彦根命 いくめつひこねのみこと 。次に 熯速日命 ひのはやひのみこと 。次に 熊野大角命 くまののおほすみのみこと 。合わせて 六男 むはしらのひこかみ である。
そこで 素戔鳴尊 すさのをのみこと は日神に「私の再び天上に昇って来た理由は、多くの神神が私を 根国 ねのくに に追放処分したことです。今そこに退去しなければならず、もし姉とお会いしなければ、とうてい別離にたえられません。それゆえ、本当に清い心で再び昇って来ただけなのです。今はもうお目見えもすみました。多くの神神の意向に従い、これより永久に根国に赴くべきなのです。どうか姉上には 天国 あまつくに (語構成上は天の国であり、 高天原 たかあまはら とみるのが通説だが、存疑。天上と葦原中国との対応上は、天地に通じる天と国との熟合の可能性もある)に 照臨 しょうりん (四方を照らし、君臨すること)し、おのずから平安でおられるのがよろしい。私は、清い心で生んだ児らもまた姉上に奉ります。そうしたあと、再び、葦原中国に還り降った。「廃渠槽」は、ここでは「 秘波鵝都 ひはがつ 」と云う。「捶籤」は、ここでは「 久斯社志 くしざし 」と云う。「興台産霊」はここでは「 許語等武須毘 こごとむすひ 」と云う。「太諄辞」はここでは「 布斗能理斗 ふとのりと 」と云う。「○轤然」はここでは「 乎謀苦留留爾 おもくるるに 」と云う。「瑲瑲」は、ここでは「 奴儺等母母由羅爾 ぬなとももゆらに 」と云う。
『日本書紀』第八段 現代語訳〔本伝〕
この時(諸神に追放されて高天原を降る時)、 素戔鳴尊 すさのをのみこと は天より降り、 出雲国 いずものくに の 簸 ひ の 川 かわ の 上 ほとり に至った。その際、川の上に死を 痛 いた んで 哭 な きさけぶような声がするのを聞いたので、その声を尋ね求めて往けば、 老翁 おきな と 老婆 おうな が中に少女を置いて 撫 な でながら哭いていた。 素戔鳴尊 すさのをのみこと が「 汝 なんじ らは誰か、どうしてそんなありさまで哭いているのか。」と問うと、これに対して「私は 国神 くにつかみ で、名を 脚摩乳 あしなづち と申します。私の妻は 手摩乳 てなづち と申します。この 童女 をとめ は私の児で、 奇稲田姫 くしいなだひめ と申します。哭く理由というのは、過去に私の児は八人の 少女 をとめ がいましたが、年ごとに一人ずつ 八岐大蛇 やまたのをろち に呑み込まれてしまいました。今、この少女が 大蛇 をろち に呑み込まれようとしています。なんとも 脱 の がれる手立てがありません。それで(この少女の死を)悲しみいたんでいるのです。」と答えた。 素戔鳴尊 すさのをのみこと が 勅 ちょく して「もしそうだとするならば、汝は 女 むすめ を私に 奉 たてまつ るか。」と言うと、「勅に従って奉ります。」と答えた。
それゆえ、 素戔鳴尊 すさのをのみこと はたちまち奇稲田姫を 湯津爪櫛 ゆつつまくし (神聖な爪を立てた形状の櫛(くし))に化身させて、 御髻 みみずら に 挿 さ した。そこで脚摩乳と手摩乳に 八醞 やしほをり の酒(醸造を何度もくり返した強い酒)を造り、あわせて 仮庪 さずき (桟敷)を 八間 やま (八つの仮の棚)作り、「仮庪」は、ここでは「 佐受枳 さずき 」と云う。そのおのおのに一つの 酒桶 さかおけ を置いて酒をそれに盛らせ、大蛇の到来を待ったのである。
その時期に至ると、はたして大蛇が姿を現した。頭と尾は、それぞれ 八岐 やまた に分かれ、眼は 赤酸醤 あかかがち (ほうずき)のようであり、「赤酸醤」は、ここでは「 阿箇箇鵝知 あかかがち 」と云う。松や柏( 栢 かや 。常緑高木)がその背に生えて、八つの丘、八つの谷の間に蛇体を 這 は いわたらせていた。酒を得ると、八岐の頭をそれぞれ酒桶に突っ込んで飲み、酔って 睡 ね てしまった。この時を見はからって、 素戔鳴尊 すさのをのみこと は 帯 お びていた 十握剣 とつかのつるぎ を抜き、細かくその大蛇を斬り刻んだ。尾に至ったところで、その剣の刃が少し欠けた。それでその尾を切り裂いて見れば、中に一振りの剣があった。これが、いわゆる 草薙剣 くさなぎのつるぎ である。「草薙剣」は、ここでは「 俱裟那伎能都留伎 くさなぎのつるぎ 」と云う。ある書には、「もとは名を 天叢雲剣 あまのむらくものつるぎ という。思うに、大蛇のいる上には、常に 雲気 うんき がただよっている。それゆえに、そう名付けたのではないか。 日本武皇子 やまとたけるのみこ に至って、名を改めて草薙剣という」とつたえている。 素戔鳴尊 すさのをのみこと は「是は 神剣 あやしきけん である。私がどうしてあえて自分のものとして置こうか。」と言い、そこで 天神 あまつかみ に献上したのである。
その後、 素戔鳴尊 すさのをのみこと は 奇稲田姫 くしいなだひめ と結婚するのに最適な場所を求めて探し訪ね、その果てに遂に出雲の 清地 すが に到った。「清地」は、ここでは「 素鵝 すが 」と云う。そこで「私の心は 清清 すがすが しい」と言い、この次第で、今この地を「 清 すが 」と言う。その場所に宮を建てた。ある説には、時に 武素戔嗚尊 たけすさのをのみこと が「 八雲 やくも たつ 出雲 いづも 八重垣 やへがき 妻籠 つまご めに 八重垣作る その八重垣ゑ」と歌ったと伝えている。そこで結婚して児の 大己貴神 おほあなむちのかみ を生んだ。これにより、勅して「私の児の宮を管理する 首 つかさ (司長)は、脚摩乳と手摩乳である。」と言い、それで、この 二神 ふたはしらのかみ に名号を賜り、 稲田宮主神 いなだのみやぬしのかみ と言うのである。そうしたあと、 素戔鳴尊 すさのをのみこと は 根国 ねのくに に行った。
〔一書1〕
ある書はこうつたえている。 素戔鳴尊 すさのをのみこと は天から降り、出雲の 簸 ひ の川の 上 ほとり に到った。そうして 稲田宮主簀狹之八箇耳 いなだみやぬしすさのやつみみ の子女、 稲田媛 いなだひめ に会い、そこで 奇御戸 くみど (隠処、寝所)に 睦事 むつごと を始めて児を生み、 清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠 すがのゆやまぬしみなさもるひこやしましの と名付けた。一説に 清之繫名坂軽彦八嶋手命 すがのゆひなさかかるひこやしまでのみこと と云う。また一説に、 清湯山主三名狹漏彦八嶋野 すがのゆやまぬしみなさもるひこやしまの と云う。この神の五世の孫が 大国主神 おほくにぬしのかみ である。「篠」は「 小竹 ささ 」である。ここでは「 斯奴 しの 」と云う。
〔一書2〕
ある書はこうつたえている。この時、 素戔鳴尊 すさのをのみこと は天から下り、 安芸国 あきのくに の 可愛 え の川の 上 ほとり に到ったのである。そこに神がいた。名を 脚摩手摩 あしなづてなづ と言う。その妻は名を 稲田宮主簀狹之八箇耳 いなだのみやぬしすさのやつみみ と言う。この神はまさに妊娠中であった。夫と妻は共に愁え、そこで 素戔鳴尊 すさのをのみこと に「私の生んだ児は多かったのですが、生むたびに、八岐大蛇が来て呑み込んでしまい、一人も生き残ることができていません。いま私は児を産もうとしていますが、おそらくはまた呑まれてしまいます。それで悲しみいたんでいるのです。」と告げた。
素戔鳴尊 すさのをのみこと はそこで 二神 ふたはしらのかみ に教えて「汝は多くの木の実で酒を 八甕 やかめ 醸造したらよい。私が汝のために 蛇 をろち を殺してやる。」と言った。二神はこの教えどおり、酒を設けそなえた。いよいよ産む時に至ると、確かにあの 大蛇 をろち が戸につき当たって児を呑みこもうとした。 素戔鳴尊 すさのをのみこと は蛇に勅して「汝は恐れ敬うべき神だ。是非とも酒を供えてもてなさなければならない。」と言い、そこで八つの 甕 かめ の酒を、大蛇の八つの口ごとに注ぎ込んだ
するとその蛇は、酒に酔って 睡 ね てしまった。 素戔鳴尊 すさのをのみこと は剣を抜いて斬った。尾を斬る時に至ったところで、剣の刃が少し欠けた。尾を割いて見れば、中に剣があった。名を草薙剣と言う。これがいま 尾張国 おはりのくに の 吾湯市村 あゆちのむら にある。 熱田祝部 あつたはふり の 管掌 かんしょう する神がこれである。その蛇を断ちきった剣は、名を 蛇之麁正 おろちのあらまさ と言う。これが、今は 石上 いそのかみ にある。
この後、 稲田宮主簀狹之八箇耳 いなだのみやぬしすさのやつみみ の生んだ児、 真髪触奇稲田媛 まかみふるくしいなだめ を出雲の 簸 ひ の川の 上 ほとり に遷し置き、養育して、成長させた。そうした後に 素戔鳴尊 すさのをのみこと が妃となして生んだ児の六世の孫が、名を 大己貴命 おほあなむちのみこと と言うのである。「大己貴」は、ここでは「 於褒婀名娜武智 おほあなむち 」と云う。
〔一書3〕
ある書はこうつたえている。 素戔鳴尊 すさのをのみこと が奇稲田媛を 娶 めと ろうと思って乞うた。 脚摩乳 あしなずち ・ 手摩乳 てなずち はこれに答えて「どうか先にあの 蛇 をろち を殺して下さい。その後に娶るというのであれば 宜 よろ しいでしょう。あの 大蛇 をろち は、頭ごとにそれぞれ 岩松 いはまつ があり、 両脇 ふたつのわき に山があって、甚だ恐るべきです。なにで殺すのでしょうか。」と言った。
素戔鳴尊 すさのをのみこと は、そこで計略をめぐらし、 毒酒 あしきさけ を醸造して大蛇に飲ませた。蛇は酔って睡ってしまった。 素戔鳴尊 すさのをのみこと は、そこで 蛇韓鋤之剣 をろちのからさひのけん で頭を斬り、腹を斬った。その尾を斬る時に、剣の刃が少し欠けた。それゆえ尾を裂いて見ると、別に 一振 ひとふ りの剣があった。名を草薙剣とした。この剣は、昔は 素戔鳴尊 すさのをのみこと の 許 もと にあったが、今は 尾張国 をはりのくに にある。その 素戔鳴尊 すさのをのみこと が蛇を断ち斬った剣は、今は 吉備 きび の 神部 かむとものを (神職)のもとにある。出雲の簸の川の 上 ほとり の山がこれである。
〔一書4〕
ある書はこうつたえている。 素戔鳴尊 すさのをのみこと の所業が暴虐極まりなかった。それゆえ、諸神は千座置戸(罪過を贖う莫大な賠償品)を 素戔鳴尊 すさのをのみこと に科して、遂に天上から追放した(第七段 [本伝]の抄録)。
この時、 素戔鳴尊 すさのをのみこと は子の 五十猛神 いたけるのかみ をひき連れて 新羅国 しらぎのくに に降り到って、その 曽尸茂梨 そしもり という所に居住した。そこで 声高 こわだか に言葉を発して「この地は、私は居たいとは思わない。」と言い、遂に 埴土 はに で舟を作り、これに乗って海を東に渡り、 出雲国 いずものくに の 簸 ひ の川の 上 ほとり に所在する 鳥上 とりかみ の 峯 たけ に到った。まさにこの時、そこには人を呑み込む 大蛇 をろち がいた。 素戔鳴尊 すさのをのみこと はそこで、 天蠅斫之剣 あまのははきりのつるぎ でその大蛇を斬った。その際、蛇の尾を斬ったところで、刃が欠けた。すぐに裂いてよく見ると、尾の中に一振りの 神剣 あやしきけん があった。 素戔鳴尊 すさのをのみこと は「これは、私が自分一人だけで使用してはならないものだ。」と言い、そこで、五世の孫に当たる 天之葺根神 あまのふきねのかみ を遣わして天に献上した。これが、今にいう 草薙剣 くさなぎのつるぎ である。
当初、 五十猛神 いたけるのかみ が 素戔鳴尊 すさのをのみこと に伴って 天降 あまくだ った時に、多く木の種を持って下った。しかし 韓地 からくに (新羅)にはそれを一切植えることなく、全て東渡の際に持ち帰り、遂に 筑紫 つくし から始め 大八洲国 おほやしまのくに の国内すべてのところに 播 ま き植え、ことごとく 青山 あをやま に成した。このはたらき、功績により、 五十猛命 いたけるのみこと を 有功之神 いさをしのかみ と称するのである。すなわち 紀伊國 きのくに に鎮座する 大神 おほかみ (和歌山市 伊太祈曾 いたきそ の 伊太祁曾神社 いたきそじんじゃ )がこれである。
〔一書5〕
ある書はこうつたえている。 素戔鳴尊 すさのをのみこと が「 韓 から の 郷 くに (地方)に所在する嶋には金銀がある。もし私の児(第八段[本伝]に「生児 大己貴神 おほあなむちのかみ 」と伝える)の支配する国に浮く宝(船)がなければ、それは良くない(金銀のある嶋に渡れない)と言い、そこで 鬚 あごひげ ・ 髯 ほほひげ を抜いて播いた。すると、それがたちまち杉に成った。また胸の毛を抜いて播くと、これが 檜 ひのき に成った。尻の毛は 柀 まき に成り、眉の毛が 櫲樟 くす に成った。そうして、あとでその用途を定めた。そこで「杉および 櫲樟 くす は、二つの樹とも浮く宝(船)にすべきだ。 檜 ひのき は、 瑞宮 みづみや (宮殿)の用材とすべきだ。 柀 まき は、 顕見蒼生 うつしきあをひとくさ (現にこの世に生きる 民草 たみくさ 。人民)の 奧津棄戸 おきつすたへ (墓所)に臥す具(棺)とすべきだ。さて食用にすべき 八十木種 やそこだね (数多くの果実の種)は、どれも播いて生かすことができた。」と 称 とな えた。
この時、 素戔鳴尊 すさのをのみこと の 子 みこ (児とは違う)は名を 五十猛命 いたけるのみこと と言い、その妹は 大屋津姫命 おほやつひめのみこと であり、次が 枛津姫命 つまつひめのみこと である。みなこの 三柱 みはしら の神も、木の種を広く播いた。そこで 紀伊国 きのくに に渡し奉ったのである。そうした後、 素戔鳴尊 すさのをのみこと は 熊成峰 くまなりのたけ に居住し、遂に 根国 ねのくに に入ったのである。「棄戸」は、ここでは「 須多杯 すたへ 」と云う。「柀」は、ここでは「 磨紀 まき 」という。
〔一書6〕
ある書はこうつたえている。 大国主神 おほくにぬしのかみ は、また 大物主神 おほものぬしのかみ と名付け、また 国作大己貴命 くにつくりのおほあなむちのみこと と 号 ごう し、また 葦原醜男 あしはらのしこを と言い、また 八千戈神 やちほこのかみ と言い、また 大国玉神 おほくにたまのかみ と言い、また 顕国玉神 うつしくにたまのかみ と言う。その子は、全部で百八十神いる。
そもそも 大己貴命 おほあなむちのみこと は、 少彦名命 すくなひこなのみこと と力を合わせ心を一つにして 天下 あめのした を経営した。また 顕見蒼生 うつしきあをひとくさ および家畜のためには、その病を治療する方法を定め、また 鳥獣 とりけだもの や 昆虫 はふむし の災害(わざわい、害悪、変異現象)を払い除くためには、その災難やたぶらかしを押さえとどめる( 呪禁 じゅきん )方法を定めた。これにより、人民は今に至るまでみなこの恩恵を 蒙 こうむ っている。
かつて大己貴命が少彦名命に向かって「われらの造った国は、どうして善くできたといえるだろうか。」と言った。少彦名命はこれに対して「あるいはできたところがある。またあるいはできていないところもある」と答えた。この両者の 談 かたり は、思うに深遠な 趣 おもむき がある。その後、少彦名命は 熊野 くまの の岬まで行き至ったところで、遂に 常世郷 とこよのさと に 適 い ってしまった。またこれとは別に、 淡嶋 あはのしま に至って、 粟 あは の茎をよじ登れば、弾かれて常世郷に渡り至ったという。
これより後に、国内のまだ造り終えていない所は、 大己貴神 おほあなむちのかみ が一人で巡り造りあげて、遂に出雲国に到った。そこで 声高 こわだか に言葉を発して「そもそも 葦原中国 あしはらのなかつくに は、もとは荒れて広々とした状態であり、 岩石 いはほ や 草木 くさき に至るまでみな強暴であった。しかし私がすでにそれらを 摧 くだ き伏せてしまい、すっかりおとなしく従順になっている。」と言い、遂には、それで「今この国を治めるのは、ただ私一人だけである。さて私と共に天下を治めることのできる者が、はたしているだろうか」と言った。
その時、 神神 こうごう しい光が海を照らし、忽然として浮かんで寄り来る者がいて、「もし私がいなかったらならば、汝はどうしてこの国を平定することができただろうか。私がいたことによって、それで汝はその国を平定するという大きな功績をうちたてることができたのだ。」と言った。この時に、大己貴神は「そうだとすれば、汝は誰なのか。」と問い、これに対して「私は、汝の 幸魂 さきみたま ( 幸 さいわい をもたらす魂)・ 奇魂 くしみたま (霊妙なはたらきの魂)である。」と答えた。大己貴神が「まさしくそうだ。なるほど汝は私の幸魂・奇魂であることが分かる。今どこに住みたいのか。」と言うと、これに応じ、「私は 日本国 やまとのくに の 三諸山 みもろのやま (奈良県桜井市の三輪山)に住みたいと思う。」と言った。それゆえ、さっそく宮殿をその地に造営し、そこに行き住まわせた。これが 大三輪 おほみわ の神である。この神の子が、 甘茂君 かものきみ 等 たち ・ 大三輪君 おほみわのきみ 等 たち であり、また 姫蹈鞴五十鈴姫命 ひめたたらいすずひめのみこと である。
また次のように伝えている。 事代主神 ことしろぬしのかみ が 八尋熊鰐 やひろくまわに (「 尋 ひろ 」は広げた両手の幅。巨大なさめ)に化(変身)し、 三嶋溝樴姫 みしまのみぞくひひめ に通じて、あるいは 玉櫛姫 たまくしひめ と云う。児の 姫蹈鞴五十鈴姫命 ひめたたらいすずひめのみこと を生んだ。これが神日本磐余彦火火出見天皇(神武天皇)の后である。
はじめ大己貴神が国を平定するに際して、行き巡り 出雲国 いずものくに 五十狹狹 いささ の 小汀 をはま に到って飲食しようとした。この時、海上に忽然と人の声がした。そこで驚いて探し求めたけれども、全くなにも見当たらない。しばらくすると、一人の 小男 をぐな が 白薟 かがみ (カガイモまたヤブカラシ)の皮を舟として、 鷦鷯 さざき (ミソサザイ)の羽を着衣とし、潮流に乗って浮かび到った。大己貴神はさっそく取り上げ掌中に置いてもてあそんでいると、飛び上がって 頬 ほお を噛んだ。そこでその小男の形状を怪しんで、使いを遣わして 天神 あまつかみ に申しあげた。その時、 高皇産霊尊 たかみむすひのみこと はその報告を聞き、それで「私の産んだ児は全部で千五百 座 はしら いる。その中の一児は最悪で、教え育てようにも従わない。私の指の間から漏れ墜ちたのが、きっとそのものだ。可愛がって養育すれば良い。」と云った。 少彦名命 すくなひこなのみこと がこれである。「顕」は、ここでは「 于都斯 うつし 」と云う。「蹈鞴」は、ここでは「 多多羅 たたら 」と云う。「幸魂」は、ここでは「 佐枳弥多摩 さきみたま 」と云う。「奇魂」は、ここでは「 俱斯美侘磨 くしみたま 」と云う。「鷦鷯」は、ここでは「 裟裟岐 さざき 」と云う。
『日本書紀』巻第二(神代下)
『日本書紀』第九段 現代語訳〔本伝〕
天照大神 あまてらすおおかみ の子の 正哉吾勝勝速日天忍穂耳 まさかあかつかちはやひあめのおしほみみ 尊は、 高皇産霊 たかみむすひ 尊の娘の 栲幡千千姫 たくはたちぢひめ を娶り、 天津彦彦火瓊瓊杵 あまつひこひこほのににぎ 尊を生んだ。そこで 皇祖 みおや の 高皇産霊 たかみむすひ 尊は特に愛情を注いで貴んで養育した。こうして 皇孫 すめみま の 天津彦彦火瓊瓊杵 あまつひこひこほのににぎ 尊を立てて、葦原中國の君主にしようと考えた。
しかし、その国には蛍火のように 妖 あや しく光る神や、五月ごろの蝿のようにうるさく騒ぐ邪神がいた。また、草や木さえもが精霊を持ち、物を言って不気味な様子であった。そこで、高皇産霊尊は多くの神々を召し集めて、問われるには「私は葦原中國の邪神どもを除き平定させようと思う。誰を遣わしたらよかろう。汝ら諸神よ、知っていることを隠さずに申せ。」と言った。皆は、「 天穂日 あめのほひ 尊は傑出した神です。この神を使わしてみてはいかがでしょうか。」と言った。そこで、高皇産霊尊はこれら諸神の意見に従って天穂日尊を葦原中国の平定のために遣わせることにした。ところが、この神は大己貴神におもねり媚びて、三年たってもいっこうに報告しなかった。そこで、その子の 大背飯三熊之大人 おおせいみくまのうし ――またの名は 武三熊之大人 たけみくまのうし ――を遣わした。これもまた、その父に従って、とうとう報告に戻らなかった。
そこで高皇産霊尊は、さらに諸神を集めて、遣わすべき神を尋ねた。皆は、「 天國玉 あまつくにたま の子の 天稚彦 あめのわかひこ は勇壮です。試してみるべきでしょう。」と言った。そこで、高皇産霊尊は天稚彦に 天鹿児弓 あめのかごゆみ と 天羽羽矢 あめのははや を授けて遣わした。だが、この神もまた誠実ではなかった。葦原中国に到着するや 顕國玉 うつしくにたま の娘の 下照姫 したてるひめ <またの名は 高姫 たかひめ 。またの名は 稚國玉 わかくにたま >を娶って、そのまま住み着いて、「私もまた葦原中國を統治しようと思う。」と言って、報告に戻らなかった。
さて、高皇産霊尊は天稚彦が久しく報告に来ないことを不審に思い、 無名雉 ななしきぎし を遣わして様子を窺わせた。その 雉 きじ は飛び降って、天稚彦の門の前に植わっていた神聖な 杜木 かつら の梢にとまった。すると、 天探女 あまのさぐめ がこれを見つけて、天稚彦に「不思議な鳥が来て、杜の梢にとまってます。」と言った。天稚彦は、高皇産霊尊から授かった天鹿児弓と天羽羽矢を手に取り、 雉 きじ を 射殺 いころ した。その矢は雉の胸を深く貫き通って、高皇産霊尊の御前に届いた。すると、高皇産霊尊はその矢を見て「この矢は昔、私が天稚彦に授けた矢である。見ると血が矢に染みている。思うに、これは 国神 くにつかみ と戦って血が付いたのだろうか。」と言った。そして、矢を取って下界に投げ返した。その矢は落下して、そのまま天稚彦の仰臥している胸に命中した。その時、天稚彦は 新嘗 にひなへ の祭事をして仰眠しているところだった。その矢が命中してたちどころに死んだ。これが、世の人が「 反矢 かへしや 恐るべし」と言うことの由縁である。
天稚彦の妻の下照姫が大声で泣き悲しみ、その声は天に届いた。この時、 天國玉 あまつくにたま はその泣く大声を聞いて、天稚彦がすでに死んでしまったことを知り、 疾風 はやち を遣わして、屍を天上に持ってこさせ、さっそく喪屋を造って 殯 もがり を行った。
そして 川雁 かわかり を 持傾頭者 きさりもち と 持帚者 ははきもち とした。<一説には、鶏を持傾頭者とし、川雁を持帚者としたと言う>。また、雀を 舂女 つきめ とした。<一説には、川雁を持傾頭者とし、また持帚者とした。 鴗 そに (かわせみ)を 尸者 ものまさ とした。雀を舂女とした。 鷦鷯 さざき を 哭者 なきめ とした。 鵄 とび を 造綿者 わたつくり とした。 烏 からす を 宍人者 ししひと とした。すべて諸々の鳥に 殯 もがり の所役に任命したと言う>。そのようにして八日八夜の間、大声で泣き悲しんで歌い続けた。
これより前、天稚彦が葦原中國にいた頃、 味耜高彦根 あぢすきたかひこね 神と親交があった。そこで、 味耜高彦根 あぢすきたかひこね 神は天に昇って喪を弔った。その時、この神の顔かたちは、まさに天稚彦の生前の容貌そのままであった。そこで、天稚彦の親族や妻子はみな、「我が君は死なずに、なお生きていた。」と言って、帯にすがりつき、喜んだりひどく泣いたりした。その時、 味耜高彦根 あぢすきたかひこね 神は激怒して顔を真っ赤にして、「朋友の道として弔うのが道理だ。だからこそ、穢らわしいのもいとわず、遠くからやってきて哀悼の意を表しているのだ。その私を、どうして私を死人と間違えるのか。」と言って、即座に帯びていた剣の 大葉刈 おほはがり <またの名は 神戸劒 かむどのつるぎ >を抜いて、喪屋を斬り倒した。これがそのまま落ちて山となった。今の 美濃國 みののくに の 藍見川 あゐみのかは の川上にある喪山が、これである。世の人が、生者を死者と間違えることを忌むのは、これがその由縁である
この後、 高皇産霊 たかみむすひ 尊はさらに神々を招集して、葦原中國に遣わすべき者を選定した。皆は、「 磐裂 いはさく ・ 根裂 ねさく 神の子の 磐筒男 いはつつのを ・ 磐筒女 いはつつのめ が生んだ子、 經津主 ふつぬし 神がよいでしょう。」と言った。この時、 天石窟 あめのいはや に住む神である 稜威雄走 いつのをはしり 神の子に 甕速日 みかはやひ 神がいて、その甕速日神の子に 熯速日神 ひはやひのかみ がいて、その 熯速日神 ひはやひのかみ の子に 武甕槌 たけみかづち 神がいた。この神が進み出て、「どうして經津主神だけがひとり立派で、私は立派ではないのか」と言った。その語気は非常に激しかった。そのため、經津主神にこの神を副えて、葦原中國の平定に遣わした。
經津主 ふつぬし 神と 武甕槌 たけみかづち 神の二神は、出雲國の 五十田狭之小汀 いたさのをばま に降って来て、 十握劒 とつかのつるぎ を抜いて逆さに大地に突き立てると、その剣の切っ先にあぐらをかいて座り、大己貴神に問うて「高皇産霊尊が 皇孫 すめみま を降らせ、この国に君臨させようと思っている。そこで、まず我ら二神を遣わし、邪神を 駆除 はら い平定させることとなった。あなたの考えはどうだ、国を譲るか否か。」と言った。すると 大己貴 おほあなむち 神は「我が子に尋ね、その後で返事をしましょう。」と答えた。この時、その子の 事代主 ことしろぬし 神は、出雲國の 三穂之碕 みほのさき にいて魚釣りを楽しんでいた。――あるいは、鳥の狩りをしていたとも言う。
そこで、 熊野諸手船 くまののもろたふね <またの名は 天鴿船 あめのはとふね >に、使者の 稲背脛 いなせはぎ を乗せて遣わした。そうして 高皇産霊 たかみむすひ 尊の 勅 みことのり を 事代主 ことしろぬし 神に伝え、その返事を尋ねた。そのとき、事代主神は使者に、「今、 天神 あまつかみ の御下問の勅がありました。我が父はお譲りするでしょう。私もまたそれと異なることはありません。」と言った。そこで、海中に幾重もの 蒼柴籬 あおふしかき を造り、船の 舳先 へさき を踏み傾けて退去した。使者はそういう次第で、戻ってこのことを報告すると、 大己貴 おほあなむち 神は我が子の言葉をもって二柱の神に、「私が頼りにしていた子もすでに国を譲りました。そこで、私もまたお譲りしましょう。もし私が抵抗すれば、国内の諸神もきっと同じように抵抗するでしょう。今私がお譲りすれば、誰ひとりとして従わない者はいないでしょう。」と申し上げた。そして 大己貴 おほあなむち 神は、かつてこの国を平定した時に用いた 広矛 ひろほこ を二神に授け、「私はこの矛で、国の平定という功を成し遂げました。 天孫 あめみま がもしこの矛を用いて国を治めたならば、きっと天下は平安になるでしょう。今から私は、 百 もも 足らず 八十隈 やそくまで に隠れましょう。」と言って、言い終わるやとうとう隠れてしまった。
そして、二柱の神は帰順しない諸々の邪神たちを誅伐し、<一説には、二神はついに邪神や物を言う不気味な草・木・石の類を誅伐して、すっかり平定し終えた。唯一、従わない神は 星神 ほしのかみ 香香背男 かかせを だけであった。そこで 倭文神 しとりがみ である 建葉槌 たけはつち 命を遣わして服従させた。そして二神は天に昇ったと言う>、ついに報告に戻った。
さて、高皇産霊尊は、 真床追衾 まとこおふふすま で皇孫の 天津彦彦火瓊瓊杵 あまつひこひこほのににぎ 尊を覆って降臨させた。皇孫は 天磐座 あまのいはくら を押し離し、また天の八幾雲を押し分けて、威風堂々と良い道を選り分けて、 日向 ひむか の 襲 そ の 高千穂峯 たかちほのたけ に天降った。こういう次第で、そこから皇孫の出歩いた様子は、 串日 くしひ の 二上 ふたかみ の天浮橋から、浮島の平らなところ降り立ち、その痩せて不毛の国を 丘伝 おかづた いに良い国を求めて歩き、 吾田 あた の長屋の 笠狭碕 かささのみさき に辿り着いた、というものであった。
その地に一人の人がいて、自ら 事勝國勝長狭 ことかつくにかつながさ と名乗った。 皇孫 すめみま が、「国があるかどうか。」と尋ねると、「ここに国があります。どうぞ御心のままにごゆっくりなさってください。」と答えた。そこで皇孫はそこに滞在した。
その時、その国に 美人 たをやめ がいた。名を 鹿葦津姫 かしつひめ と言う。<またの名は 神吾田津姫 かむあたつひめ 。またの名は 木花之開耶姫 このはなのさくやびめ >。皇孫がこの美人に、「おまえは誰の子か」と尋ねると、「私は 天神 あまつかみ が 大山祇 おほやまつみ 神を娶って生んだ子です。」と答えた。そこで皇孫が召すと、この姫は一夜にして懐妊した。皇孫はこれを疑い、「たとえ天神であっても、どうしてたった一晩で身重にさせることができるだろうか。お前が身ごもったのは、きっと私の子ではあるまい。」と言った。これを聞いて、 鹿葦津姫 かしつひめ は怒り恨んで、さっそく戸のない産屋を造り、その中に籠って 誓約 うけい をして、「私の身ごもった子が、もし天孫の御子でなければ、きっと焼け死ぬでしょう。もし本当に天孫の御子であれば、火もその子を害することはできないでしょう。」と言って、火をつけて産屋を焼いた。初め、燃え上がった煙の先から生まれ出た御子は、 火闌降 ほのすそり 命と言う。<これは 隼人 はやひと 等の始祖である>。次に火の熱を避けて生れ出た御子を 彦火火出見 ひこほほでみ 尊と言う。次に生まれ出た子を 火明 ほのあかり 命と言う。<これは 尾張連 をはりのむらじ 等の始祖である>。併せて三柱の御子である。
それからしばらくして 天津彦彦火瓊瓊杵 あまつひこひこほのににぎ 尊が崩御された。そこで筑紫の日向の 可愛之山陵 えのみささぎ に葬った。
〔一書1〕
ある書ではこう伝えている。 天照大神 あまてらすおおかみ は 天稚彦 あめのわかひこ に 勅 みことのり して、「 豊葦原中國 とよあしはらのなかつくに は我が子が君主たるべき国である。しかしながら、思うに残忍凶暴な邪神どもがいる様子だ。そこで、まずお前が行って平定しなさい。」と言った。そして 天鹿児弓 あめのかごゆみ と 天眞鹿児矢 あめのまかごや を授けて遣わした。天稚彦は勅を受けて豊葦原中国に 降 くだ り、 國神 くにつかみ の娘たちを次々に娶り、八年の歳月が過ぎても復命しなかった。
そこで 天照大神 あまてらすおおかみ は 思兼 おもひかね 神を召して、天稚彦が帰って来ない事情を問うた。すると思兼神は熟慮して、「また雉を遣わして尋ねさせましょう」と告げた。そこで、その神の策に従って、さっそく雉を遣わして様子をうかがわせた。その雉は飛び下りると、天稚彦の門の前の神聖な 杜樹 かつら の梢に止まって、「天稚彦よ、どうして八年の間、復命しないのか」と鳴いて問うた。その時、國神で 天探女 あまのさぐめ という名の者がいた。その雉を見て、「鳴き声の悪い鳥がこの樹の上にとまっています。射殺しなさい。」と言った。天稚彦は、そこで天神から賜った 天鹿児弓 あめのかごゆみ と 天眞鹿児矢 あめのまかごや を取り、すぐに射殺してしまった。その矢は雉の胸を貫き、ついに天神の御前にまで届いた。その時、天神はその矢を見て、「これは昔、私が天稚彦に授けた矢である。今になってどうして飛んできたのだろう」と言って、矢を取り呪いをかけて「もし 悪心 きたなきこころ で射たのならば、天稚彦はきっと災いに遭うだろう。もし 平心 きよきこころ で射たのならば、無事でいるだろう。」と言い、矢を投げ返すと、その矢は中国に落ちて天稚彦の仰臥している胸に命中し、たちどころに死んでしまった。これが世の人が「 返矢 かへしや 恐るべし」と言うことの由縁である。
そこで、天稚彦の妻子たちが天から降って来て、柩を持って天に昇っていき、天上に喪屋を造って 殯 もがり をして大声で泣いた。これより前、天稚彦は 味耜高彦根 あぢすきたかひこね 神と親友であった。そこで、味耜高彦根神は天に昇って喪を弔い、大声をあげて泣いた。その時、この神の容貌は、もともと天稚彦と同じといってもよいほど似ていた。そのため、天稚彦の妻子たちはこの神を見て喜び、「我が君は死なずにまだ生きていた。」と言って、その帯にとりすがって離そうとしなかった。その時、味耜高彦根神は怒り、「親友が亡くなった。だから私はすぐに弔いに来たのだ。どうして死者と私を間違えるのか」と言って、十握劒を抜いて喪屋を斬り倒した。その小屋が落ちて山となった。これが 美濃國 みののくに の喪山である。世の人が死者を自分と間違えることを忌むのは、これがその由縁である。
時に、味耜高彦根神は容姿端麗で、二つの丘、二つの谷にわたって照り輝いた。そこで、喪に集まった人が歌を詠んだ。――ある伝えに、味耜高彦根神の妹の 下照媛 したてるひめ が、集まった人たちに、丘や谷に照り輝くのは味耜高彦根神であることを知らせようと思った。それで詠んで、と言う。
天なるや 弟棚機 おとたなばた の 頸 うな がせる 玉の 御統 みすまる の 穴玉 あなだま はや み谷 二渡 ふたわた らす 味耜高彦根 あぢすきたかひこね
(天上にいる若い 機織女 はたおりめ の首にかけている連珠の美しい穴玉よ。そのように麗しく谷二つに渡って輝いている味耜高彦根神よ。)
天離 あまさか る 夷 ひな つ女の い渡らす 迫門 せと 石川片淵 いしかはかたふち 片淵 かたふち に 網張り渡し 目ろ寄しに 寄し寄り来ね 石川片淵 いしかはかたふち
(天から遠く離れた田舎の娘が渡る 狭門 せと の石川の片淵。その片淵に鳥網を張り渡し、その網目にたぐり寄せられるように、鳥たちはこちらに寄せられ、そのように寄っておいで。この石川の片淵で。)
この二首の歌は今、 夷曲 ひなぶり と言う。
こういう次第で、 天照大神 あまてらすおおかみ は、思兼神の妹の 萬幡豊秋津媛 よろづはたとよあきつひめ 命を 正哉吾勝勝速日天忍穂耳 まさかあかつかちはやひあめのおしほみみ 尊に娶らせて妃とし、葦原中國に降らせた。この時、 勝速日天忍穂耳 かちはやひあめのおしほみみ 尊は天浮橋に立って見下ろし、「あの国はまだ平定されていない。気に入らず心に染まない見る目も穢れた国であるよ。」と言って、再び天上に還り昇り、天降りしなかった理由を詳しく述べた。
そこで 天照大神 あまてらすおおかみ はまた 武甕槌 たけみかづち 神と 經津主 ふつぬし 神とを遣わして、まずそこへ行き悪神どもを駆除させた。そのとき、二柱の神は出雲に降り着き、さっそく大己貴神に「汝はこの国を天神に献上するかどうか。」と尋ねた。すると、「我が子の事代主が鳥猟に行って、 三津之碕 みつのさき にいます。今、それに尋ねて返事をしましょう。」と答えた。そこで使者を遣わして訪問させた。すると、「天神の望まれるところであれば、どうして奉らないことがありましょう。」と答えた。そこで大己貴神はその子の言葉どおりに二柱の神に報告した。二神は天に昇って復命をして、「葦原中國はみなすっかり平定しました。」と報告した。そこで、 天照大神 あまてらすおおかみ は勅を下して「もしそうであれば、今まさに我が子を降臨させよう。」と言った。
まさに天降ろうとしていた間に、 皇孫 すめみま が生まれた。名を 天津彦彦火瓊瓊杵 あまつひこひこほのににぎ 尊と言う。その時に、天忍穂耳尊の奏上があって、「この皇孫を代わりに降臨させようと思う」と言った。そこで 天照大神 あまてらすおおかみ は、天津彦彦火瓊瓊杵尊に 八坂瓊曲玉 やさかにのまがたま と 八咫鏡 やたのかがみ 、草薙劒の 三種宝物 みくさのたから を授けた。
また、 中臣 なかとみ の祖神である 天児屋 あめのこやね 命、 忌部 いみべ の祖神である 太玉 ふとたま 命、 猿女 さるめ の祖神である天鈿女命、 鏡作 かがみつくり の祖神である 石凝姥 いしこりどめ 命、 玉作 たまつくり の祖神である 玉屋 たまのおや 命、併せて五部神々をお供として付き従わせた。そして皇孫に勅して、「 葦原千五百秋之瑞穂國 あしはらのちいほあきのみつほのくに は、我が子孫が君主たるべき地である。汝、皇孫よ、行って治めなさい。さあ、行きなさい。 宝祚 あまつひつぎ の栄えることは、天地とともに窮まることがないであろう。」と言った。
こういう次第で皇孫が降ろうとしている間に、先駆の者が引き返してきて、「一人の神がいます。 天八達之衞 あまのやちまた にいます。その鼻の長さは 七咫 ななあた 、座高は 七尺 ななさか あまり、身長はまさに 七尋 ななひろ と言うべきでしょう。また口や尻が明るく光っています。眼は八咫鏡のようで、照り輝いているさまは赤い 酸漿 ほおずき のようです。」と言った。そこでお供の神を遣わして、行って尋ねさせた。その時、 八十萬神 やそよろづのかみ であったが、だれも皆、眼力で相手を圧倒して尋ねることができなかった。そこで特に 天鈿女 あめのうずめ 命に勅して、「汝は眼力が勝れ相手を威圧する力をもっている。行って尋ねてきなさい。」と命じた。天鈿女命はその胸乳をあらわにし、裳の紐を 臍 へそ の下に押し垂らして、呵々大笑して向かい立った。そのとき、 衢神 ちまたのかみ が尋ねて、「天鈿女よ、汝がそうするのはどういう理由からか。」と言う。天鈿女は答えて「 天照大神 あまてらすおおかみ の御子が進む道に、このように立ちふさいでいるお前こそ誰だ。反対に尋ねたい。」と答えた。衢神は、「 天照大神 あまてらすおおかみ の御子が今、降臨すると聞いた。それで、お迎えしようと待っているのだ。私の名は 猿田彦 さるたびこ 大神だ。」と言った。そこで天鈿女命が再び、「汝が私を先導するか、それとも私が汝より先に行くか。」と尋ねると、「私が先に立ってご案内しよう。」と言った。天鈿女命がさらに、「汝はどこへ行こうというのか、皇孫はどこに着くことになるのか。」と尋ねると、「天神の御子は、筑紫の 日向 ひむか の 高千穂串触之峯 たかちほのくじふるのたけ に着くだろう。私は伊勢の 狭長田 さなだ の 五十鈴川 いすずのかは の川のほとりに着くことになる。」と答え、そして、「私を世に現出せしめたのは汝である。だから、汝は私を送り届けるべきだろう。」と言った。
天鈿女命は天に還って報告をした。そこで、皇孫は 天磐座 あめのいはくら を押し離し、天の幾重もの雲を押し分け、威風堂々とよい道を選り分け選り分けて天降った。はたして、先の約束通り、皇孫は筑紫の日向の高千穂串触之峯に辿り着いた。
その猿田彦神は伊勢の狭長田の五十鈴川の川のほとりに着き、天鈿女命は猿田彦神の願い通り、ついに伊勢まで送っていった。そのとき、皇孫は天鈿女命に勅して、「汝が世に現出せしめた神の名を 姓氏 うぢ とせよ。」と言った。これによって 猿女君 さるめのきみ の名を賜った。それで猿女君らの男女は皆、相手を「君」と呼ぶ。これがその由縁である。
〔一書2〕
ある言い伝えには、天神は 經津主 ふつぬし 神と 武甕槌 たけみかづち 神とを遣わして葦原中國を平定させた。その時、二柱の神は、「天に悪神がいます。名を 天津甕星 あまつみかほし 、またの名を 天香香背男 あめのかかせを と言います。どうかまずこの神を誅して、その後に降って葦原中國を平定しましょう。」と言った。この時、 天津甕星 あまつみかほし を誅するための斎主の神がおり、この神を 斎之大人 いはひのうし と言う。この神は今、 東國 あづまのくに の 楫取 かとり の地に鎮座している。
そうして二柱の神は出雲の 五十田狭之小汀 いたさのをばま に天降ってきて、大己貴神に「おまえはこの国を天神に献上するかどうか。」と尋ねた。すると、「あなた方、二柱の神は、本当に私のもとに来られたのではないように思われる。だから、申し出を許すことはできない。」と答えた。そこで經津主神は天に還り昇って報告した。
その時、 高皇産霊 たかみむすひ 尊は二神を出雲に戻し遣わして、大己貴神に勅して、「今お前が言うことを聞くと、深く通にかなっている。そこで、さらに条件を提示しよう。あなたが治めている現世の仕事は、我らの子孫が治めよう。あなた改めて一つ一つについて勅をしよう。そもそも、お前が治めている現世の政事は、我が皇孫が治めるのだ。お前は、幽界の神事をつかさどれ。また、おまえが住む 天日隅宮 あめのひすみのみや は、今、造営してやろう。千尋もある長い 𣑥縄 たくなわ で、しっかり結んで百八十結びに造り、その宮を建てるのに、柱は高く太く、板は広く厚くしよう。また、御料田を提供しよう。また、おまえが往来して海で遊ぶ備えのために、高い橋や浮橋、 天鳥船 あめのとりふね も造ろう。また、 天安河 あめのやすのかは にも打橋を造ろう。また、繰り返し縫い合わせたじょうぶな白楯を造ろう。まら、お前の祭祀をつかさどる者は、 天穂日 あめのほひ 命である。」と伝えた。そこで 大己貴 おほあなむち 神は、「 天神 あまつかみ の申し出は、かくも懇切である。どうして勅命に従わないことがありましょうか。私が治めている現世の政事のことは、今後は皇孫が治めさてください。私は退いて神事を司りましょう。」と答えた。そうして 岐神 ふなとのかみ を二柱の神に推薦して、「この神が、私に代わって皇孫にお仕えするでしょう。私はここで退きましょう」と言って、 瑞之八坂瓊 みつのやさかに を身につけて 永久 とこしえ に隠れた。
そこで經津主神は 岐神 ふなとのかみ を国の先導役とし、周囲を巡りながら平定していった。反抗する者がいれば斬り殺し、帰順する者には褒美を与えた。この時に帰順した実力者が 大物主 おほものぬし 神と事代主神である。そして八十萬神を 天高市 あめのたけち に集め、これらを 率 ひき いて天に昇り、その柔順に至ったことを示した。
この時、 高皇産霊 たかみむすひ 尊は 大物主 おほものぬし 神に、「おまえがもし 國神 くにつかみ を妻とするのならば、私はなお、おまえに迷いの心があると思うだろう。そこで今、私の娘の 三穂津姫 みほつひめ をおまえに娶わせて妻とさせる。八十萬神を率いて、永遠に皇孫を守って差し上げよ」と命じ、帰り降らせた。そして紀國の 忌部 いみべ の祖神の 手置帆負 たおきほおひ 神を笠作りと定めた。 彦狭知 ひこさち 神を盾作りとした。 天目一箇 あめのまひとつ 神を鍛冶とした。 天日鷲 あめのひわし 神を 木綿 ゆふ 作りとした。 櫛明玉 くしあかるたま 神を玉作りとした。そして 太玉 ふとたま 命の弱い肩に太い 襷 たすき をかけ、代表者とした。このようにしてこの神を祭るようになったのは、これが起源である。
また、 天児屋 あめのこやね 命は神事の根本を掌る神であったため、 太占 ふとまに の占いによって仕えさせた。高皇産霊尊は、「私は 天津神籬 あまつひもろき と 天津磐境 あまついはさか を造り立てて、皇孫のために祭祀をしよう。おまえたち、天児屋命と太玉命は、天津神籬を持って葦原中國に降り、また皇孫のために祭祀をしなさい」と命じ、二神を遣わして 天忍穂耳 あめのおしほみみ 尊に従わせて降らせた。
この時、 天照大神 あまてらすおおかみ は手に 宝鏡 たからのかがみ を持ち、 天忍穂耳 あめのおしほみみ 尊に授けて、「我が子よ、この宝鏡を見るのには、まさに私を見るようにしなさい。ともに床を同じくし、御殿をともにし、祭祀の鏡としなさい」と祝いを述べた。また、 天児屋 あめのこやね 命と太玉命に、「おまえたち二神も、ともに御殿の内側に 侍 はべ り、よくお守りをしなさい」と命じた。また、「私が高天原に所有する 斎庭之穂 ゆにはのいなのほ を我が子に持たせなさい」と命じた。そして、高皇産霊尊の娘、名は 萬幡姫 よろづはたひめ を 天忍穂耳 あめのおしほみみ 尊に娶らせて 妃 みめ とさせ、降らせた。
そして、その途中に大空において生まれた子を 天津彦火瓊瓊杵 あまつひこほのににぎ 尊と言う。このため、この皇孫を親に代わって降らせようと考え、 天児屋 あめのこやね 命と太玉命、及び諸氏族の神々をことごとく授け、また、衣服等の物もそれらと同様に授けた。そうした後に 天忍穂耳 あめのおしほみみ 尊は天に再び帰った。
そこで、天津彦火瓊瓊杵尊は日向の 串日高千穂峯 くしひのたかちほのたけ に降り立ち、不毛の地を丘づたいに国を求めて通り、浮島のある平らな土地に立った。そして、 國主 くにのぬし の 事勝國勝長狭 ことかつくにかつながさ を呼んで尋ねると、「ここに国があります。どうぞご自由に」と答えた。
そこで皇孫は宮殿を立て、そこで休息した後、海辺に進んで一人の 美人 をとめ を見かけた。皇孫が、「おまえは誰の子か」と尋ねると、「私は 大山祇 おほやまつみ 神の子です。名は 神吾田鹿葦津姫 かむあたかしつひめ 、またの名は 木花開耶姫 このはなのさくやびめ です」と答え、さらに、「また、私には姉の 磐長姫 いはながひめ がいます」と申し上げた。皇孫が、「私はあなたを妻にしようと思うがどうか」と尋ねると、「私には父の 大山祇 おほやまつみ 神がいます。どうかお尋ねください」と答えた。皇孫がそこで大山祇神に、「私はあなたの娘を見かけた。妻としたいと思う」と語ると、大山祇神は二人の娘に多くの飲食物を載せた机を持たせて進呈した。すると皇孫は、姉の方は醜いと思って招くこともなく、妹の方は美人であったので招いて交わった。すると一夜にして身籠った。そこで磐長姫は大いに恥じ、「もし天孫が私を退けずに招いていたら、生まれる子は長寿で、堅い岩のように 長久 とこしえ に繁栄したことでしょう。今そうではなく妹だけを一人招いたので、生まれる子はきっと木の花のように散り落ちることでしょう」と呪詛を述べた。――あるいは、磐長姫は恥じ恨んで、唾を吐いて泣き、「この世の人々は木の花のように儚く移ろい、衰えることでしょう」と言った。これが世の人が短命であることの発祥であると言う。
この後、 神吾田鹿葦津姫 かむあたかしつひめ が皇孫を見て、「私は天孫の子を娠みました。自分だけで生むべきではありません」と言うと、皇孫は、「たとえ天神の子であっても、どうして一夜にして人を娠ませられるのか。もしや我が子ではないのではないか」と言った。 木花開耶姫 このはなのさくやびめ は大いに恥じ恨んで、戸口のない小屋を作り、誓を立てて、「私が娠んだのがもし他の神の子ならば、きっと不幸になるでしょう。本当に天孫の子ならば、きっと無事に生まれるでしょう」と言って、その小屋の中に入り、火をつけて小屋を焼いた。
その時、炎が立ち昇りはじめた時に生まれた子を 火酢芹 ほすせり 命と言う。次に、火の燃え盛る時に生まれた子を 火明 ほあかり 命と言う。次に、生まれた子を 彦火火出見 ひこほほでみ 尊と言う。または 火折 ほをり 尊と言う。
〔一書3〕
最初に炎が明るい時に生まれた子が 火明 ほあかり 命である。次に、炎が燃え盛る時に生まれた子が 火進 ほすすみ 命である。――または 火酢芹 ほすせり 命と言う。次に、炎が鎮まった時に生まれた子が 火折彦火火出見 ほをりひこほほでみ 尊である。この併せて三子は火の害を受けることもなく、母もまた少しも害を受けなかった。そして竹の刀でその子の臍の緒を切った。その捨てた竹の刀が後に竹林となった。そこで、その地を竹屋と言う。その時に 神吾田鹿葦津姫 かむあたかしつひめ が占いで定めた田を狭名田と言う。その田の稲で天の美酒を醸して 嘗 にひなへ を催した。また、 渟浪田 ぬなた の稲を用いて飯を作って嘗を催した。
〔一書4〕
高皇産霊 たかみむすひ 尊は、 真床覆衾 まとこおふふすま を 天津彦國光彦火瓊瓊杵 あまつひこくにてるひこほのににぎ 尊に着せて、 天磐戸 あめのいはと を引き開けて、天の幾重もの雲を押し分けて降らせた。この時、 大伴連 おほとものむらじ の祖神である 天忍日 あめのおしひ 命が、 来目部 くめべ の祖神である 天串津大来目 あめくしつのおほくめ を率い、背には 天磐靫 あめのいはゆき を背負い、腕には威力のある 高鞆 たかとも をつけ、手には 天梔弓 あめのはじゆみ と 天羽羽矢 あめのははや を取り、 八目鳴鏑 やつめのかぶら を取り揃え、また 頭槌劒 かぶつちのつるぎ を帯びて、 天孫 あめみま の前に立って進み降り、日向の 襲之高千穂 そのたかちほ の 串日 くしひ の二つの頂のある峯に辿り着き、浮島のある平らな土地に立ち、不毛の地を丘伝いに国を求めて通り、 吾田 あた の長屋の 笠狭之御碕 かささのみさき に辿り着いた。
すると、その地に一人の神がいた。名を 事勝國勝長狭 ことかつくにかつながさ と言う。そこで 天孫 あめみま がその神に、「国があるか」と尋ねると、「あります」と答え、さらに、「お言葉のままに奉りましょう」と言った。そこで天孫はその地に留まり住んだ。その事勝國勝長狭は伊奘諾尊の子である。またの名は 塩土老翁 しほつつのをぢ 。
〔一書5〕
天孫は大山祇神の娘の 吾田鹿葦津姫 あたかしつひめ を娶った。一夜にして身籠り、四人の子を生んだ。そこで 吾田鹿葦津姫 あたかしつひめ は子を抱いてやって来て、「 天神 あまつかみ の子をどうして自分だけで育てられるでしょう。なので、そのことを申し上げてお聞かせします」と言った。この時、天孫はその子たちを見て嘲笑い、「なんとまあ、我が子たちがこんなにも生まれたと聞くとは」と言った。そこで 吾田鹿葦津姫 あたかしつひめ が怒って、「どうして私を嘲笑うのですか」と言うと、天孫は、「本心では疑っているから嘲笑ったのだ。なぜなら、たとえ天神の子であっても、どうして一夜の間に人を身籠らせることができるだろうか。本当は私の子ではあるまい」と言った。これを聞いて吾田鹿葦津姫はますます恨み、戸口のない小屋を作ってその中に入り、誓いを立てて、「私が娠んだのがもし天神の子でなければ、きっと亡くなるでしょう。これがもし天神の子であれば、害を受けることはないでしょう」と言って、火をつけて小屋を焼いた。
その火の明るくなりはじめた時に、子が勇ましく進み出て、自ら、「私は天神の子。名は 火明 ほあかり 命。我が父上はどこにおられるか」と名乗った。
次に、火の燃え盛った時に、子が勇ましく進み出て、「私は天神の子。名は 火進 ほすすみ 命。我が父上と兄上はどこにおられるか」とまた名乗った。
次に、炎の衰えた時に、子が勇ましく進み出て、「私は天神の子。名は 火折 ほをり 尊。我が父上と兄上たちはどこにおられるか」とまた名乗った。
次に、火の熱が鎮まった時に、子が勇ましく進み出て、「私は天神の子。名は 彦火火出見 ひこほほでみ 尊。我が父上と兄上たちはどこにおられるか」とまた名乗った。
そうした後に、母の 吾田鹿葦津姫 あたかしつひめ が焼け跡の中から出て来て、言葉に出して、「私が生んだ子も私の身も、自ら火に向かったのに少しも害を受けませんでした。 天孫 あめみま はこれをご覧になりましたか」と言うと、「私は最初から我が子であるとわかっていたのだよ。ただ、一夜にして身籠ったことを疑う者がいるだろうと思ってだな、人々にこれらが我が子であり、また天神が一夜にして娠ませることがあるのだと知らせようと思ったのだ。また、おまえが奇異な威力を持っていてだな、子たちもまた人を超越した気配を持っていることをだな、明らかにしようと思ったのだ。だから先日のように嘲笑う言葉を言ったのだ」と答えた。
〔一書6〕
天忍穂根 あめのおしほね 尊は、 高皇産霊 たかみむすひ 尊の娘の 栲幡千千姫萬幡姫 たくはたちぢひめよろづはたひめ 命――または 高皇産霊 たかみむすひ 尊の子の 火之戸幡姫 ほのとはたひめ の子、 千千姫 ちぢひめ 命と言う――を娶った。そして子の 天火明 あめのほあかり 命を生んだ。次に 天津彦根火瓊瓊杵根 あまつひこねほのににぎね 尊を生んだ。その 天火明 あめのほあかり 命の子の天香山が 尾張連 をはりのむらじ 等の祖神である。
皇孫の 火瓊瓊杵 ほのににぎ 尊を葦原中國に降臨させることになり、高皇産霊尊は多くの神々に、「葦原中國は岩の根や木の株、草の葉までがよく文句を口にする。夜は火の粉のようにやかましく、昼は蝿のようにわきあがる」と述べた――と、云々。
その時、高皇産霊尊は、「昔、 天稚彦 あめのわかひこ を葦原中國に遣わしたが、今に至るまで長く戻って来ないのは、國神に強靭な者がいるからだろうか」と述べ、 無名雄雉 ななしをのきぎし を遣わして見に行かせた。この雉は降りて来るなり粟畑や豆畑を見て、そこに留まって帰らなかった。これが世に言う、 雉頓使 きぎしのひたつかひ の発祥である。
そこで、また 無名雌雉 ななしめのきぎし を遣わした。この鳥は降りて来るなり天稚彦に射られ、その矢に射上げられることで戻って報告をした――と、云々。
さて、高皇産霊尊は 真床覆衾 まとこおふふすま を皇孫の 天津彦根火瓊瓊杵根 あまつひこねほのににぎね 尊に着せて、天の幾重もの雲を押し分けて、降らせた。そこで、この神を称して 天國饒石彦火瓊瓊杵 あめくににぎしひこほのににぎ 尊と言う。その時に降り立った所を日向の 襲之高千穂 そのたかちほ の 添山峯 そほりのやまのたけ と言う。その進む時になり――と、云々。
吾田 あた の 笠狭之御碕 かささのみさき に辿り着き、長屋の 竹嶋 たかしま に登った。その地を眺め回すと、そこに人がいた。名を 事勝國勝長狭 ことかつくにかつながさ と言う。 天孫 あめみま がそこで、「ここは誰の国か」と尋ねると、「ここは 長狭 ながさ の住む国です。しかし今は天孫に奉りましょう」と答えた。天孫がまた、「あの波立っている上に広い御殿を立てて、糸玉をゆらゆらと機を織っている少女は誰の娘か」と尋ねると、「 大山祇 おほやまつみ 神の娘たちで、姉を 磐長姫 いはながひめ と言い、妹を 木花開耶姫 このはなのさくやびめ と言い、または 豊吾田津姫 とよあたつひめ と言います」と答えた――と、云々。
皇孫がそこで 豊吾田津姫 とよあたつひめ を招くと、一夜にして身籠った。皇孫は疑った――と、云々。そして 火酢芹 ほすせり (命を生んだ。次に 火折 ほをり 尊を生んだ。または 彦火火出見 ひこほほでみ 尊と言う。
しかし 豊吾田津姫 とよあたつひめ は皇孫を恨んで口をきかなかった。皇孫は愁えて歌を詠んだ。
沖つ藻は 邊へには寄れども さ寝床も 与はぬかもよ 濱つ千鳥よ
〔一書7〕
高皇産霊 たかみむすひ 尊の娘に 天萬栲幡千幡姫 あまよろづたくはたちはたひめ がいた。――あるいは、高皇産霊尊の子の 萬幡姫 よろづはたひめ の子の 玉依姫 たまよりびめ 命と言う。この神が 天忍骨 あめのおしほね 命の妃となって、子の 天之杵火火置瀬 あめのぎほほおきせ 尊を生んだ。――あるいは、 勝速日 かちはやひ 命の子の 天大耳 あめのおほしみみ 尊が 丹潟姫 にくつひめ を娶って、子の火瓊瓊杵尊を生んだと言う。――あるいは、神皇産霊尊の娘の 栲幡千幡姫 たくはたちはたひめ が、子の火瓊瓊杵尊を生んだと言う。――あるいは、天杵瀬命が吾田津姫を娶って、子の火明命を生んだ。次に 火夜織 ほより 命。次に 彦火火出見 ひこほほでみ 尊。
〔一書8〕
正哉吾勝勝速日天忍穂耳 まさかあかつかちはやひあめのおしほみみ 尊が 高皇産霊 たかみむすひ 尊の娘の 天萬栲幡千幡姫 あまよろづたくはたちはたひめ を娶って妃とし、子を生んだ。 天照國照彦火明 あまてるくにてるひこほあかり 命と言う。これは 尾張連 をはりのむらじ 等の祖神である。
次に 天饒石國饒石天津彦火瓊瓊杵 あめにぎしくににぎしあまつひこほのににぎ 尊。この神は大山祇神の娘の 木花開耶姫 このはなのさくやびめ 命を娶って妃とし、子を生んだ。 火酢芹 ほすせり 命と言う。次に 彦火火出見 ひこほほでみ 尊。
『日本書紀』第十段 現代語訳〔本伝〕
兄の 火闌降 ほすそり 命には自づから海幸があり、弟の 彦火火出見 ひこほほでみ 尊には自づから山幸があった。はじめに兄弟二人は語り合い、「試しに道具を取り換えう」と言って交換したが、どちらも獲物を得ることができなかった。兄は悔やんで弟の弓矢を返し、自分の釣針を求めた。弟はその時すでに兄の釣針を失っていて、探し出すことができなかった。そこで別に新しい釣針を作って兄に渡したが、兄は許さず、その元の釣針を要求した。弟は悩み、自分の刀から新しい釣針を作り、 箕 み に山盛りにして渡したが、兄は怒って、「私の元々の釣針でなければ、多くても受け取らない」と言って、ますます激しく求めた。そこで 彦火火出見 ひこほほでみ 尊はとても深く悩み苦しみ、海辺に行って口籠っていた。
すると、 塩土老翁 しほつつのをぢ と出会った。 老翁 をぢ が、「どうしてこんなところで悩んでおるのか」と尋ねたので、その事情を答えると、老翁は、「悩むことはない。私があなたのために計らってあげよう」と言って、 無目籠 まなしかたま を作り、 彦火火出見 ひこほほでみ 尊を籠の中に入れて海に沈めた。すると自然に美しい小浜に着いた。そこで籠を捨てて進むと、すぐに 海神 わたつみ の宮に行き着いた。
その宮は垣根が立派に整っていて、御殿は光り輝いていた。門の前には一つの井戸があり、井戸のほとりに清浄な桂の木があって枝を広げていた。彦火火出見尊がその木の下に進んで、うろうろと歩いていると、しばらくして一人の美人が扉を開けて出て来た。そして綺麗なお椀に水を汲もうとしたので、目でじっと見つめた。そこで驚いて帰り戻り、その父母に、「一人の珍しいお客がいます。門の前の木の下にいます」と申し上げた。 海神 わたつみ はそこで、多くの畳を重ね敷いて招き入れ、座につかせて、その来た理由を尋ねた。そこで 彦火火出見 ひこほほでみ 尊はその事情を詳しく答えた。そこで海神が大小の魚を集めて問いただすと、皆は、「知りません。ただ 赤女 あかめ <赤女は鯛の名である>が近頃、口に怪我をして、来ません」と言った。呼んでその口を探すと、やはり失った釣針が見つかった。
そうして 彦火火出見 ひこほほでみ 尊は海神の娘の 豊玉姫 とよたまびめ を娶り、海の宮に留まり住んで三年が経った。そこは安らかで楽しかったが、やはり故郷を思う心があり、たまにひどく溜息をつくことがあった。 豊玉姫 とよたまびめ はそれを聞いて、その父に、「天孫が悲しんでいて、しばしば嘆くことがあります。もしかすると、陸地を懐かしんで悩んでいるのでしょうか」と語った。海神は彦火火出見尊を招くと、「天孫がもし国に帰りたいと思うのなら、私が送って差し上げよう」と丁寧に語り、すぐに探し出した釣針を渡して、「この釣針をあなたの兄に渡す時、こっそりとこの釣針に『 貧鉤 まぢち 』と言ってから渡しなさい」と教えた。また、 潮満瓊 しほみちのたま と 潮涸瓊 しほひのたま を授けて、「潮満瓊を水に浸すと、潮がたちまち満ちるでしょう。これであなたの兄を溺れさせなさい。もし兄が悔やんで救いを求めたら、 潮涸瓊 しほひのたま を水に浸せば、潮は自然と引くでしょう。これで救いなさい。このように攻めて悩ませれば、あなたの兄も自ら平伏すでしょう」と教えた。そして帰ろうとする時になり、豊玉姫は天孫に、「私はすでに妊娠していて、もうすぐ産まれます。私は波風の速い日にきっと浜辺を訪れますので、どうか私のために産屋を作って待っていてください」と語った。
彦火火出見 ひこほほでみ 尊は元の宮に帰り、まるごと海神の教えに従った。すると兄の 火闌降 ほすそり 命は困り果てて自ら平伏し、「今より後、私はあなたの 俳優之民 わざをきのたみ になりましょう。どうか、情けをかけて生かしてほしい」と言った。そこで、その願いの通りについに許した。その火闌降命は、 吾田君小橋 あたのきみをばし 等の 本祖 とほつおや である。
その後、豊玉姫は前の約束通り、その妹の 玉依姫 たまよりびめ を連れて、波風に逆らって海辺にやって来て、産む時が迫ると、「私が産む時に、どうか見ないでください」と頼んだ。天孫が我慢できず、こっそり訪れて覗くと、豊玉姫は産もうとして龍に姿を変えていた。そして大いに恥じて、「もし私を辱しめることがなかったら、海と陸とは通じていて、永久に隔絶することはなかったでしょう。今すでに辱しめを受けました。どうして睦まじく心を通わせることができるでしょうか」と言って、草で子を包んで海辺に捨て、海への道を閉じてすぐに去った。
そこで、その子の名を 彦波瀲武盧茲草葺不合 ひこなぎさたけうかやふきあへず 尊と言う。
その後、しばらくして彦火火出見尊が亡くなられた。日向の 高屋山上陵 たかやのやまのうへのみはか に埋葬した。
〔一書1〕
兄の 火酢芹 ほすせり 命はよく海幸を得て、弟の 彦火火出見 ひこほほでみ 尊はよく山幸を得た。ある時、兄弟はお互いの道具を取り換えようと思った。そこで兄は弟の呪的な弓を持ち、山に入って獣を探したが、ついに獣の足跡さえ見つからなかった。弟も兄の呪的な釣針を持ち、海に行って魚を釣ったが、全く釣れず、しかもその釣針を失ってしまった。この時、兄が弟の弓矢を返して自分の釣針を求めると、弟は悩み、帯びていた刀で釣針を作り、箕に山盛りにして兄に渡した。兄はこれを受け取らず、「やはり自分の呪的な釣針が欲しい」と言った。そこで彦火火出見尊は、どこを探していいかもわからず、ただ悩み口籠ることしかできなかった。
そして海辺に行き、たたずんで嘆いていると、一人の老人がたちまちにして現れた。自ら 塩土老翁 しほつつのをぢ と名乗り、「君は誰か。どうしてここで悩んでおるのか」と尋ねたので、 彦火火出見 ひこほほでみ 尊は詳しくその事情を話した。老翁が袋の中の櫛を取り、地面に投げつけると、茂った竹林となった。そこでその竹を取って 大目麁籠 おほまあらこ を作り、 火火出見 ほほでみ 尊を籠の中に入れて海に投げ入れた。――あるいは、 無目堅間 まなしかたま で浮かぶ木舟を作り、細い縄で彦火火出見尊を結びつけて沈めたと言う。 堅間 かたま と言うのは、今の竹の籠のことである。
すると、海の底に美しい小浜があり、浜に沿って進むと、すぐに海神の 豊玉彦 とよたまびこ の宮に辿り着いた。その宮は城門が飾られ、御殿は美しかった。門の外には井戸があり、井戸のほとりに桂の木があった。そこで木の下に進んで立っていると、しばらくして一人の美人が現れた。容貌は世にまたとないほどで、従えていた侍女たちの中から出て来て、綺麗な壺に水を汲もうとして 彦火火出見 ひこほほでみ 尊を仰ぎ見た。そこで驚いて帰り、その父の神に、「門の前の井戸のほとりの木の下に、一人の立派なお客がいます。体格は普通ではありません。もし天から降りてきたなら、天の 垢 おーら があるはずです。地上から来たのなら、地上の垢があるはずです。本当にこれは奇妙な美しさです。 虚空彦 そらつひこ と言う者でしょうか」と申し上げた。――あるいは、 豊玉姫 とよたまびめ の侍女が綺麗な瓶に水を汲もうとしたが、満たすことができなかった。井戸の中を覗き込むと、逆さまに人の笑顔が映っていた。そこで仰ぎ見ると、一人の美しい神がいて、桂の木に寄り立っていた。そこで帰り戻ってその王に申し上げたと言う。
そこで 豊玉彦 とよたまびこ が人を遣わして、「おたくはどなたか。どうしてここにやって来たのか」と尋ねると、 火火出見 ほほでみ 尊は、「私は天神の孫である」と答えて、そのやって来た理由を語った。
すると 海神 わたつみ は出迎えて拝み、招き入れて丁重に慰め、そして娘の豊玉姫を妻とさせた。そして海の宮に留まり住んで三年が経った。
その後、火火出見尊はしばしば溜息をつくことがあった。 豊玉姫 とよたまびめ が、「天孫はもしや故郷に帰りたいとお思いですか」と尋ねると、「そうだ」と答えた。豊玉姫は父の神に、「ここにおられる立派なお客が、地上の国に帰りたいと思っておられます」と申し上げた。海神がそこで、海の魚たちをすべて集め、その釣針を求め尋ねると、一尾の魚がいて、「赤女――あるいは赤鯛と言う――が長いこと口に怪我をしています。もしやこれが呑んだのでしょうか」と答えた。そこで赤女を呼んでその口を見ると、釣針がまだ口の中にあった。すぐにこれを取り、 彦火火出見 ひこほほでみ 尊に渡して、「釣針をあなたの兄に渡す時に、呪詛をかけて、『 貧窮之本 まぢのもと ・ 飢饉之始 うゑのはじめ ・ 困苦之根 くるしみのもと 』と言ってから渡しなさい。また、あなたの兄が海に出ようとした時に、私が必ず波風を起こし、それによって溺れさせて苦しめましょう」と教えた。そして火火出見尊を 大鰐 わに に乗せて、元の国に送り届けた。
これより前、別れる時になり、 豊玉姫 とよたまびめ は、「私はすでに身籠っています。波風の速い日に海辺を訪れますので、どうか私のために産屋を作って待っていてください」と丁寧に語った。その後、豊玉姫はやはりその言葉通りにやって来て、火火出見尊に、「私は今夜、子を産みます。どうか見ないでください」と申し上げた。火火出見尊はそれを聞かず、櫛に火を灯して覗いた。すると豊玉姫は 八尋大熊鰐 やひろのわに に姿を変え、もぞもぞと這い回っていた。そこで辱しめを受けたことを恨み、ただちに海の国に帰ったが、その妹の 玉依姫 たまよりびめ を留めて子を育てさせた。
子の名を 彦波瀲武盧茲草葺不合 ひこなぎさたけうかやふきあへず 尊と呼ぶ理由は、その浜辺の産屋の屋根を、すべて鵜の羽を草のように用いて 葺 ふ こうとしたのに、それが終わらないうちに子が生まれたため、そう名付けたのである。
〔一書2〕
門の前に一つの良い井戸があり、井戸のほとりに枝の繁った桂の木があった。そこで 彦火火出見 ひこほほでみ 尊は飛び跳ねてその木に登り立った。すると 海神 わたつみ の娘の 豊玉姫 とよたまびめ が手に綺麗なお椀を持ってやって来て、水を汲もうとした。人の姿が井戸の中にあるのを見て、仰ぎ見るや、驚いてお椀を落とした。お椀は砕け散ったが、かまわずに帰り戻り、父母に、「私は人が井戸のほとりの木の上にいるのを見ました。顔はとても美しく、容貌は涼やかです。普通の人ではありません」と語った。すると父の神はこれを聞いて奇妙に思い、多くの畳を重ね敷いて迎え入れ、座についてからやって来た理由を尋ねた。その事情をあるがままに答えると、海神はすぐに憐れみの心を抱き、ことごとく 鰭 ひれ の大きな魚や鰭の小さな魚を呼んで尋ねた。皆は、「知りません。ただ、 赤女 あかめ だけが口に怪我をしていて来ていません」と言った。――または、 口女 くちめ が口に怪我をしていた。急いで呼んでその口を探すと、失った釣針がたちどころに見つかった。そこで海神は、「やい口女め。これから先、おまえは餌を口にしてはならない。また天孫の御膳に加わってもならない」と禁じた。口女〔クチメ〕の魚を御膳に出さないのは、これがその発祥である――と言う。
彦火火出見 ひこほほでみ 尊が帰ろうとする時になり、海神は、「今まで天神の孫が 忝 かたじけな くも私のところにおられた。その喜びはいつまでも忘れないだろう」と申し上げた。そして思うがままの 潮溢之瓊 しほみちのたま と思うがままの潮涸之瓊をその釣針とともに奉り、「皇孫よ。遥か遠くに隔たっていても、どうか時には思い出し、捨て置かないでくれよ」と言って、そして、「この釣針をあなたの兄に渡す時に、『 貧鉤 まぢち ・ 滅鉤 ほろびち ・ 落薄鉤 おとろへち 』と言葉に出し、言い終わってから後ろの手で投げ捨てて渡しなさい。正面から渡してはなりません。もし兄が怒って反抗しようとしたら、 潮溢瓊 しほみちのたま を出して溺れさせなさい。もし苦しんで救いを求めたら、潮涸瓊を出して救いなさい。このように攻めて悩ませれば、自づから 臣従 しんじゅう するだろう」と教えた。
そこで 彦火火出見 ひこほほでみ 尊はその玉と釣針とを受け取り、元の宮に帰って来て、まるごと海神の教えた通りに、まずその釣針を兄に渡した。兄は怒って受け取らなかった。そこで弟が潮溢瓊を出すと潮が大いに満ち、兄は溺れて、「私はあなたに仕えて下僕となりましょう。どうか助けてほしい」と懇願した。弟が潮涸瓊を出すと潮は自然と引き、兄は元の状態に戻った。そうしたところ、兄は前言を改め、「私はおまえの兄だ。どうして人の兄でありながら弟に仕えるのか」と言った。弟はそこで 溢瓊 みちのたま を出した。兄はこれを見て高い山に逃げ登ったが、潮は山もまた沈めた。兄は高い木に登ったが、潮は木もまた沈めた。兄は追い詰められて逃げ去る所もなくなり、平伏して、「私の過ちだった。これから先は、私の子孫の末代まで、常にあなたの 俳人 わざひと ――あるいは 狗人 いぬひと と言う――になりましょう。どうか、お情けを」と言った。弟が 涸瓊 ひのたま を出すと潮は自然と引いた。そこで兄は弟に神々しい威力があることを知り、ついにその弟に平伏した。
こういうわけで、 火酢芹 ほすせり 命の末裔の様々な 隼人 はやひと たちは、今に至るまで 天皇 すめらみこと の宮の垣根のそばを離れず、代々吠える番犬のように仕えているのである。世の人が失った釣針を催促しないのは、これがその発祥である。
〔一書3〕
兄の 火酢芹 ほすせり 命はよく海幸を得たので海幸彦と呼ばれ、弟の 彦火火出見 ひこほほでみ 尊はよく山幸を得たので山幸彦と呼ばれた。兄は風雨のたびにその道具を失ったが、弟は風雨であってもその道具をなくさなかった。ある時、兄が弟に、「私は試しにおまえと道具を取り換えようと思う」と語り、弟も承諾して交換した。そこで兄は弟の弓矢を持ち、山に入って獣を狩り、弟は兄の釣針を持ち、海に入って魚を釣ったが、ともに獲物を得られず、手ぶらで帰って来た。兄は弟の弓矢を返し、自分の釣針を求めたが、その時、弟はすでに釣針を海中に失っていて、探し出すことができなかった。そこで、別に新しい釣針を千本作って渡したが、兄は怒って受け取らず、元の釣針を激しく求めた――と、云々。
そこで弟が浜辺に行ってうなだれ、悩み口籠っていると、 川雁 かわかり がいて、罠にかかって苦しんでいた。哀れに思い、罠を解いて放してやると、しばらくして 塩土老翁 しほつつのをぢ が現れた。そして 無目堅間 まなしかたま の小舟を作り、 火火出見 ほほでみ 尊を乗せて海の中へと押し出した。すると自然に沈み、たちまち良い潮路に出くわした。そこで流れのままに進むと、自然と海神の宮に辿り着いた。すると、 海神 わたつみ が自ら迎えて招き入れ、多くの 海驢 みち の皮を重ね敷いてその上に座らせ、さらに多くの品々を載せた机を用意し、主人としての礼を尽くした。そして、「天神の孫がどうして、忝くも参られたのでしょうか」――あるいは、「近頃、我が子が来て、天孫が浜辺で悩んでいると語っていた。本当かどうかわからなかったが、もしや本当であったのか」――と丁寧に尋ねた。彦火火出見尊は詳しく事情を述べた。そして留まり住んで、海神の子の豊玉姫を妻とし、睦まじく愛し合い、そして三年が経った。
帰ることになり、海神が 鯛女 たひめ を呼んでその口を探すと、釣針が見つかった。そこでその釣針を 彦火火出見 ひこほほでみ 尊に進呈し、「これをあなたの兄に渡す時に、『 大鉤 おほぢ ・ 踉旁鉤 すすのみぢ ・ 貧鉤 まぢち ・ 痴矣鉤 うるけぢ 』と言葉に出し、言い終わってから後ろの手で投げ渡しなさい」と教えて差し上げた。そして 鰐魚 わに を呼び集めて、「天神の孫が、今帰ろうとしている。おまえたちは何日でお送りできるか」と尋ねると、様々な鰐魚が、それぞれの体長に応じてその日数を申し出た。その中に 一尋鰐 ひとひろのわに がいて、自ら、「一日のうちに送りましょう」と申し出た。そこでその一尋鰐魚を遣わして、送って差し上げた。また、 潮満瓊 しほみちのたま と 潮涸瓊 しほひのたま の二種の宝物を進呈し、玉の使用法を教えた。また、「兄が高地に田を作ったら、あなたは窪地に田を作りなさい。兄が窪地に田を作ったら、あなたは高地に田を作りなさい」と教えた。海神はこのようにして誠を尽くして助けて差し上げたのである。
そこで 彦火火出見 ひこほほでみ 尊は帰って来て、まるごと神の教えの通りに行動した。その後、 火酢芹 ほすせり 命は日に日にやつれて悩み、「私はすでに貧しくなった」と言って、弟に平伏した。弟が 潮満瓊 しほみちのたま を出すと、兄は手を上げて溺れ苦しみ、反対に潮涸瓊を出すと元に戻った。
これより前、 豊玉姫 とよたまびめ は 天孫 あめみま に、「私はすでに妊娠しています。天孫の子を海の中で産むべきではないので、産む時には必ずあなたのところを訪れましょう。私のために海辺に産屋を作って待っていてくれることを願います」と申し上げた。そこで彦火火出見尊は国に帰ると、鵜の羽で屋根を葺いて産屋を作ったが、屋根を未だ葺き終えないうちに、豊玉姫が大亀に乗り、妹の 玉依姫 たまよりびめ を連れ、海を照らしながらやって来た。すでに臨月を迎えていて、出産が目前に迫っていた。そこで葺き終えるのを待たずにただちに入り、天孫に、「私が産むのをどうか見ないでください」と丁寧に語った。天孫が内心その言葉を怪しみ、こっそりと覗くと、 八尋熊鰐 やひろのわに に姿を変えていた。しかも、天孫が覗いたことに気づいて深く恥じ、恨みを抱いた。
すでに子が生まれた後、天孫が訪れて、「子の名を何と名付ければよいだろうか」と尋ねると、「 彦波瀲武盧茲草葺不合 ひこなぎさたけうかやふきあへず 尊と名付けてください」と答えたが、そう言い終わると、海を渡ってただちに去ってしまった。そこで彦火火出見尊は歌を詠んだ。
沖つ鳥 鴨著 かもづ く嶋に 我が 率寝 ゐね し 妹は忘らじ 世の 尽 ことごと も
(鴨の寄り着く島で、私が共寝をした妻のことは、決して忘れないだろう、生きている限り。)
――または、彦火火出見尊は婦人を募り、 乳母 ちおも 、 湯母 ゆおも 、及び 飯嚼 いひかみ 、 湯坐 ゆゑびと とし、すべて様々に準備をして育てた。その時、母親の代わりに他の婦人の乳によって皇子を育てた。これが世間で乳母を決めて子を育てることの発祥である――と言う。
赤玉の 光はありと 人は言へど 君が装し 貴くありけり
(赤い玉は輝いていると人は言いますが、あなたの姿はそれ以上に立派に思えます。)
〔一書4〕
兄の 火酢芹 ほすせり 命は山幸を得て、弟の 火折 ほをり 尊は海幸を得た――と、云々。
弟が悩み、口籠って浜辺にいると、 塩筒老翁 しほつつのをぢ に出会った。 老翁 をぢ が、「どうしてそのように悩んでおるのか」と尋ねたので、火折尊が答えた――と、云々。
老翁が、「心配なさるな。私が計らおう」と言って、計らい、「 海神 わたつみ の乗る駿馬は 八尋鰐 やひろのわに で、その 背鰭 せびれ を立てて 橘之小戸 たちばなのをど にいる。私が彼とともに策を考えよう」と言った。そして火折を連れて、ともに見に行った。すると鰐魚は策を考え、「私が八日のうちに天孫を海の宮にお送りしましょう。ただし、我が王の駿馬は 一尋鰐魚 ひとひろのわに です。これは一日のうちに必ずお送りすることでしょう。そこで、今私が帰って、彼を来させましょう。彼に乗って海に入りなさい。海に入ると、海の中に美しい小浜があります。その浜に沿って進めば、きっと我が王の宮に辿り着くでしょう。宮の門の井戸のほとりに清浄な桂の木があります。その木の上に登っていてください」と言って、言い終わるや海に入り去った。そこで天孫は鰐の言った通りに留まり、待って八日になった。しばらくして 一尋鰐魚 ひとひろのわに がやって来たので、乗って海に入り、どれも以前の鰐の教えに従った。
すると、 豊玉姫 とよたまびめ の侍女がいて、綺麗なお椀に水を汲もうとした。人の姿が水底にあるのを見て、汲み取ることができず、そこで 天孫 あめみま を仰ぎ見た。そして戻ってその王に、「私は、我が王一人が最も美しいと思っていましたが、今一人のお客がいて、遥かに勝っています」と告げた。 海神 わたつみ はこれを聞いて、「ためしに見てみよう」と言って、三つの床を設けて招き入れた。すると天孫は、端の床でその両足を拭き、中の床でその両手を押さえ、内の床の 眞床覆衾 まとこおふふすま の上にゆったりと座った。海神はこれを見て、天神の孫であることを知り、ますます崇めた――と、云々。
海神が 赤女 あかめ と 口女 くちめ を呼んで尋ねると、口女が口から釣針を出して奉った。赤女は赤鯛のことで、口女は 鯔 いな のことである。すると海神は、釣針を 彦火火出見 ひこほほでみ 尊に渡して、「兄に釣針を返す時に、天孫は、『おまえの子孫の末代まで、 貧鉤 まぢち ・ 狭狭貧鉤 ささまぢち 』と言いなさい。言い終わったら三度唾を吐いて渡しなさい。また兄が海に入って釣りをする時には、天孫は風招をしなさい。風招とは、ふーっと息を吹き出すことです。このようにすれば、私が沖の風や浜辺の風を起こし、激しい波で溺れさせて悩ませましょう」と教えた。
火折 ほをり 尊は帰って来ると、細部まで神の教えに従った。兄が釣りをする日になり、弟は浜辺でふーっと息を吹き出した。すると疾風がたちまちに吹いて、兄は溺れて苦しみ、助かる見込みもなかった。すぐに遠くにいる弟に頼んで、「おまえはしばらく海原にいた。きっと良い術を持っていることだろう。どうか救ってほしい。もし私を生かしてくれたら、私の生む子の末代まで、おまえの垣根のそばを離れず、 俳優之民 わざをきのたみ となろう」と言った。そこで弟が息を吹き出すことを止めると、風もまた止んだ。そこで兄は弟の威力を知り、自ら平伏した。ところが、弟は怒った表情のまま口をきかなかった。そこで兄は 褌 ふんどし をし、赤土を手に塗り、顔に塗り、その弟に、「私はこの通り、身を汚した。永久にあなたの 俳優 わざをき となろう」と告げた。そして足を上げて踏み込み、その溺れ苦しんだ様子を演じた。
これより前、豊玉姫がやって来て、産もうとする時に皇孫にお願いを言った――と、云々。皇孫は従わなかった。豊玉姫は大いに恨んで、「私の言葉を聞かず、私に恥をかかせた。なのでこれから先、私の 奴婢 つかひびと があなたの元に行っても、返すことはありません。あなたの奴婢が私の元に来ても、返しませんので」と言って、 真床覆衾 まとこおふふすま と草でその子を包んで渚に置くと、海に入り去った。これが海と陸とが通じなくなったことの発祥である。――あるいは、子を渚に置いたのではなく、豊玉姫命自身が抱いたまま去った。しばらくして、「天孫の子を海の中に置いておくべきではない」と言って、玉依姫に抱かせて送り出したと言う。
さて、豊玉姫が別れ去る時に、しきりに恨みを口にした。そこで 火折 ほをり 尊は、再び会うことはないと知り、歌を贈った。これはすでに上で述べた。
『日本書紀』第十一段 現代語訳〔本伝〕
彦波瀲武盧茲草葺不合 ひこなぎさたけうかやふきあへず 尊は、その 姨 おば の 玉依姫 たまよりびめ を 妃 みめ として、 彦五瀬 ひこいつせ 命を生んだ。次に 稲飯 いなひ 命。次に 三毛入野 みけいりの 命。次に 神日本磐余彦 かむやまといはれびこ 尊。併せて四人の男を生んだ。
しばらくして 彦波瀲武盧茲草葺不合 ひこなぎさたけうかやふきあへず 尊は 西洲之宮 にしのくにのみや で亡くなられた。そこで 日向 ひむか の 吾平山上陵 あひらのやまのみはか に埋葬した。
〔一書1〕
まず 彦五瀬 ひこいつせ 命を生んだ。次に 稲飯 いなひ 命。次に 三毛入野 みけいりの 命。次に 狭野 さの 尊。または 神日本磐余彦 かむやまといはれびこ 尊と言う。狭野というのは、年少の時の名である。後に天下を平定して 八洲 やしま を治めた。そのため、名を加えて 神日本磐余彦 かむやまといはれびこ 尊と言う。
〔一書2〕
まず 五瀬 いつせ 命を生んだ。次に 三毛野 みけの 命。次に 稲飯 いなひ 命。次に 磐余彦 いはれびこ 尊。または 神日本磐余彦火火出見 かむやまといはれびこほほでみ 尊と言う。
〔一書3〕
まず 彦五瀬 ひこいつせ 命を生んだ。次に 稲飯 いなひ 命。次に 神日本磐余彦火火出見 かむやまといはれびこほほでみ 尊。次に 稚三毛野 わかみけの 命。
〔一書4〕
まず 彦五瀬 ひこいつせ 命を生んだ。次に 磐余彦火火出見 いはれびこほほでみ 尊。次に 彦稲飯 ひこいなひ 命。次に 三毛入野 みけいりの 命。
『日本書紀』巻第三(神武紀)
『日本書紀』神武紀 現代語訳1. 神武天皇の家系図
「 神日本磐余彦天皇 かんやまと いわれひこ の すめらみこと 」は、「 彦火火出見 ひこほほでみ 」を 諱 いみな とし、 彦波激武鸕鷀草葺不合尊 ひこなぎさたけ うがやふきあえずの みこと の4番目の子である。母は 玉依姫 たまよりひめ で、海神の娘である。
彦 火火出見 ほほでみ は生まれついて聡明で、何事にも屈しない強い心を持っていた。十五歳で皇太子となり、さらに 長 ちょう じて、日向国の 吾田邑 あたむら の 吾平津媛 あひらつ ひめ を 娶 めと って妃とし、 手研耳命 たぎしみみ のみこと を生んだ。
関連記事 神武天皇の家系図|天照大神の第五世代直系子孫であり高皇産霊神・山神・海神の子孫でもある件2. 東征発議と旅立ち
(彦 火火出見 ほほでみ が)四十五歳になったとき、兄達や子供等に建国の決意を語った。
「昔、我が 天神 あまつかみ である 高皇産霊尊 たかみむすひのみこと ・ 大日孁尊 おおひるめのみこと は、この 豊葦原瑞穂 とよあしはらのみずほ の国のすべてを我が天祖である 彦火瓊瓊杵尊 ひこ ほのににぎ の みこと に 授 さず けた。 そこで火瓊々杵尊は、天の 関 せき をひらき、雲の路をおしわけ、 日臣命 ひのおみのみこと らの先ばらいを駆りたてながらこの国へ来たり至った。これは、遙か大昔のことであり、世界のはじめであって暗闇の状態であった。それゆえ諸事に暗く分からない事も多かったので、物事の道理を養い、西のはずれの地を治めることとした。 我が祖父と父は霊妙な神であって物事の道理に精通した聖であった。彼らは素晴らしい 政 まつりごと により 慶事 けいじ を重ね、その徳を輝かせてきた。そして多くの歳月が経過した。 天祖が天から降ってからこのかた今日まで、179万2470有余年が過ぎたが、遠く遥かな地は、いまだ王の徳のもたらす恵みとその恩恵をうけていない。その結果、国には君が有り、村には長がいて、各自が支配地を分け、互いに領土を争う始末だ。 さて、一方で 塩土老翁 しおつちのおじ からはこんな話を聞いた。『東に、美しい土地があって、青く美しい山が四方を囲んでいる。そこに 天磐船 あまのいわふね に乗って飛びその地に降りた者がいる。』と。 私が思うに、かの地は 豊葦原瑞穂 とよあしはらのみずほ の国の平定と統治の偉業を大きく広げ、王の徳を天下のすみずみまで届けるのにふさわしい場所に違いない。きっとそこが天地四方の中心だろう。そこに飛んで降りた者とは「 饒速日 にぎはやひ 」という者ではないだろうか。私はそこへ行き都としたい。」
諸々の皇子は、「なるほど、建国の道理は明白です。我らも常々同じ想いを持っていました。さっそく実行すべきです。」と賛同した。この年は、 太歳 たいさい) ・ 甲寅 きのえとら (紀元前667年)であった。
その年の冬10月5日に、彦 火火出見 ほほでみ は、自ら諸皇子や水軍を率いて、東へ進発した。
関連記事 神武紀|東征発議と旅立ち|東征の動機とか意義とか建国の決意とかをアツく語った件 神武東征神話No.2速吸之門 はやすいなのと に到る。この時、一人の 漁人 つりびと が小舟に乗ってやって来た。彦 火火出見 ほほでみ はその者を招き、「お前は誰か」と問うた。その者が答えて、「私は 国神 くにつかみ です。名を『 珍彦 うづひこ 』と言います。湾曲した入江で魚を釣っています。 天神子 あまつかみこ が来ると聞き、それですぐにお迎えに参りました。」と言った。彦 火火出見 ほほでみ が「おまえは私を先導することができるのか?」と問うたところ、「先導いたします。」と答えた。そこで彦 火火出見 ほほでみ は詔をくだし、その漁師に「椎の木の竿の先」を授けて執らせ、そして舟に引き入れ「海路の先導者」としたうえで、特別に「 椎根津彦 しいねつひこ 」という名前を下された。(これが「倭直部(やまとのあたいら) 」の始祖である。)
さらに進み、筑紫の国の 菟狭 うさ に到る。
その時、菟狭の 国造 くにのみやつこ の祖先がいた。名を「 菟狭津彦 うさつひこ 」「 菟狭津媛 うさつひめ 」という。その者達は、菟狭川のほとりに 一柱騰宮 あしひとつあがりのみや を建て、彦 火火出見 ほほでみ に饗宴を奉りおもてなしをした。そこで彦 火火出見 ほほでみ は 詔 みことのり をくだし、従臣の「 天種子命 あまのたねこのみこと 」に「菟狭津媛」を妻として下された。(「天種子命」は中臣氏の遠祖である。)
11月9日に、筑紫の国の 岡水門 おかのみなと に到る。
12月27日に、安芸の国に到る。 埃宮 えのみや に居住する。
乙卯 きのとう の年(紀元前666年)、春3月6日に、安芸の国から移動し、吉備の国に入る。 行宮 かりのたち を建て居住。これを「 高嶋宮 たかしまのみや 」と言う。3年の間、軍船を整備し、兵達の食糧を備蓄して、一挙に天下を平定しようとした。
関連記事 神武紀|東征順風。臣下を得て戦闘準備|半年かけて岡山まで移動。3年じっくり準備した件 分かる!神武東征神話No.3戊午 つちのとうま の年(紀元前663年)、春2月の11日に、東征軍は遂に東に向けて出発した。前の船の「とも」と、後ろの船の「さき」が互いに接するほど多くの船が続く。いよいよ「難波の 碕 みさき 」に到ると、非常に速い潮流に遭遇した。そこで、その国を名付けて「 浪速 なみはや の国」という。(また「 浪花 なには 」ともいう。今、「 難波 なにわ 」と言うのは、 訛 なまり である。)
3月10日に、その急流をさかのぼり、河内の国の 草香 くさか の邑の青雲の 白肩 しらかた の津に到る。
関連記事 神武紀|大和上陸!難波碕から白肩の津へ|激しい潮流に難儀しながら生駒山の白い崖を目印に進軍した件|分かる!神武東征神話No.4夏4月9日に、東征軍は兵を整え、徒歩で 龍田 たつた に向かった。
しかし、その路は狭くて険しく、人が並んで行くことさえできなかった。そこで引き返し、改めて東へ 胆駒山 いこまやま を越えて 中洲 ちゅうしゅう に入ろうとした。
その時、 長髄彦 ながすねびこ がこれを聞きつけ、「 天神子 あまつかみこ 等がこの大和に来る理由は、我が国を奪おうとするためだろう」と言い、配下の兵をことごとく起こし、「 孔舎衛坂 くさえさか 」で遮り激しい戦闘となった。この時、流れ矢が 五瀬命 いつせのみこと の 肘 ひじ と 脛 すね に当たった。
「今、私は 日神 ひのかみ の子孫でありながら、日に向って敵を攻撃している。これは、日を敵にまわしているのと同じで「天の道」に逆らうことだ。 ここは引き返して、かなわないと見せかけ、 神祇 ちぎ を敬い祭り、 日神 ひのかみ の神威を背に負い、自分の前にできる影に従って襲いかかり、敵を圧倒するのがよいだろう。 こうすれば、少しも血を流さずに、敵は必ず自ら敗れるはずだ。」
そこで全軍に対し「しばらく 停 とどま れ。これ以上、進軍してはならない」と軍命を下し、さらに軍を引いて引き返した。敵もまた、敢えて追ってはこなかった。
退却して 草香津 くさかのつ に到り、盾を立てて 雄誥 おたけび をする。これにより、その津の名を改めて「 盾津 たてつ 」という。(今、「 蓼津 たでつ 」というのは、訛りである。)
はじめに、この「孔舎衛の戦い」において、大樹に隠れて難を免れ得た者がいて、その樹を指して「ご恩は母のようだ」と言った。(当時の人は、その地を名付けて「 母木邑 おもきのむら 」といった。今、「 悶廼奇 おものき 」というのは訛りである。)
関連記事 神武紀|孔舎衛坂激戦、敗退|スネの長い関西人に初戦敗退。神策めぐらし日神の威を背に負うことにした件|分かる!神武東征神話No.55月8日に、東征軍は 茅淳 ちぬ の「 山城水門 やまきのみなと 」 に至る。 またの名は「 山井水門 やまいのみなと 」。 (茅淳はここでは「ちぬ」という。)
この時、長兄「 五瀬命 いつせのみこと 」は、孔舎衛で受けた矢傷の痛みが甚だしく、そこで剣の柄に手をあてて押さえ 雄誥 おたけび をあげた。 (撫劒は、ここでは「つるぎのたかみとりしばる」という) 「なんといまいましいことだ!武勇に優れていながら、 (慨哉は、ここでは「うれたきかや」という) 敵の手によって傷を負い、報復もせずに死ぬとは!」 当時の人は、それでこの地を名付けて「 雄水門 おのみなと 」といった。
さらに進軍し、 紀国 きのくに の 竃山 かまやま に到ったとき、ついに 五瀬命 いつせのみこと は軍中にて薨じられた。よって竃山に葬った。
関連記事 神武紀|長兄「五瀬命」の死|「ますらお」なのに復讐できず無念すぎたので、東征に復讐を追加した件|分かる!神武東征神話No.66月23日、東征軍は「 名草邑 なぐさむら 」 に至った。そこで「 名草戸畔 なぐさとべ 」に 誅伐 ちゅうばつ を加える。
ついに 狭野 さの を越えて熊野の「 神邑 みわのむら 」 に至る。そして「 天磐盾 あまのいわたて 」に登る。そこで軍を引いて徐々に進む。
その時、次兄の「 稲飯命 いなひのみこと 」 が、「ああ、私の祖先は天神で、母は海神である。それなのにどうして私を陸で苦しめ、また海でも苦しめるのか」と嘆いた。言い終ると、剣を抜き荒れ狂う海に身を投じて「 鋤持神 さいもちのかみ 」 となった。
三兄の「 三毛入野命 みけいりののみこと 」 もまた、「我が母と姨とは共に海神である。それなのにどうして波濤を立てて溺らせるのか」と恨み言を言い、波の先を踏んで 常世 とこよ の国に往ってしまった。
彦 火火出見 ほほでみ は、たった独りで皇子の「 手研耳尊 たぎしみみ のみこと 」 と軍を率いてさらに進み、熊野の「 荒坂 あらさか の 津 つ 」に至った。(又の名を丹敷浦という)「 丹敷戸畔 にしきとべ 」という者に誅罰を加える。
関連記事 神武紀|熊野灘 海難と兄の喪失|なぜ!?兄達は暴風雨の中で歎き恨み逝ってしまった件|分かる!神武東征神話No.7丁度そのころ、その地に熊野の「 高倉下 たかくらじ 」 という名の者がいた。その夜、夢を見た。
(夢のなかで)「 天照大神 あまてらすおおかみ 」は「 武甕雷神 たけみかづちのかみ 」に伝えた。『いったい 葦原中國 あしはらのなかつくに は、まだ騒然として、うめき苦しむ声が聞こえてくる。 (聞喧擾之響焉はここでは「さやげりなり」という)。 武甕雷神 たけみかづちのかみ よ、お前がまたかの国へ行き、征伐しなさい。』。すると 武甕雷神 たけみかづちのかみ は答えて、『私が行かずとも、私が国を平定した剣を下せば、国はおのずと平安をとりもどすでしょう。』と申し上げたところ、 天照大神 あまてらすおおかみ は、『よろしい。』と承諾した。 (諾はここでは「うべなり」という)。 そこで 武甕雷神 たけみかづちのかみ は、さっそく 高倉下 たかくらじ に伝えた。『私の剣は「 韴靈 ふつのみたま 」という。 (韴靈はここでは「ふつのみたま」という)。 今、これをお前の倉に置こう。これを取って天孫に献じるがよい。』。 高倉下 たかくらじ は「承知しました」と申し上げた。
その明け方、 高倉下 たかくらじ は夢に見た教えに従って「倉」をあけてみると、果たして天から落ちてきた剣が、倉の底板に逆さまに突き立っていた。
高倉下 たかくらじ はさっそくこの剣を取って、 彦火火出見 ひこほほでみ に奉った。その時、 彦火火出見 ひこほほでみ は眠り臥していたが、たちまちに意識を取り戻し、「私はどうしてこんなに長く眠っていたのか。」と言った。続いて、毒気にあたっていた兵士たちもみな意識を取り戻し、目を覚まして起き上がった。
関連記事 神武紀|熊野荒坂で全軍昏倒|神の毒気にヤラレて意識不明の重体に!?天照による危機救援は「葦原中國平定」再現の意味があった件|分かる!神武東征神話No.8東征一行はいよいよ世界の中心である「 中洲 ちゅうしゅう 」に向かおうとした。
まさにそのような状況の時。ある夜、 彦火火出見 ひこほほでみ は夢をみた。その中で、 天照大神 あまてらすおおかみ が現れこのように伝えた。「今から 頭八咫烏 やたがらす を遣わそう。この烏を道案内とするがよい。」
果たして、その「 訓 おし え」通り、 頭八咫烏 やたがらす が空から飛んできて舞い降りた。
「この烏の飛来は、めでたい夢のとおりだ。(皇祖の威徳の)なんと偉大なことよ、輝かしいことよ。皇祖の 天照大神 あまてらすおおかみ が、東征の大業を成し遂げようと助けてくれたのだ。」と、 彦火火出見 ひこほほでみ は感嘆の声をあげた。
そこで、臣下の「 日臣命 ひのおみのみこと 」は山を踏みわけ道を通しながら、烏の飛び行く先を尋ね、仰ぎ見て追っていった。
日臣命 ひのおみのみこと は、大伴氏の遠祖で、勇猛果敢な軍隊( 大来目 おおくめ )と大きな戦車を率いる将軍である。この熊野において、 中洲 なかつしま への突破口を見出し、山道を 穿 うが ち、一行が通る道の整備を行った。
そうしてついに、 菟田 うだ の 下県 しもつあがた に到着した。(道を 穿 うが ちながら進んだので、これにより、その到達した所を名付けて菟田の「 穿邑 うがちのむら 」という。)
この時、 彦火火出見 ひこほほでみ は 日臣命 ひのおみのみこと に詔をくだし、大いに褒め称えて言った。「お前は、忠実で勇猛な臣下だ。その上、よく導いてくれた。この功績をもとに、お前の名を改めて、以後『 道臣 みちのおみ 』とせよ。」
関連記事 神武紀|八咫烏の導きと熊野越え|山で迷って進退窮まる!?天照による2度目の救援は「天孫降臨」の再現だった件|分かる!神武東征神話No.910. 兄猾と弟猾
秋、8月2日に、彦 火火出見 ほほでみ は、「 兄猾 えうかし 」と「 弟猾 おとうかし 」という者を召し出させた。この二人は 菟田県 うだのあがた の首領である。
すると、兄の 兄猾 えうかし は姿を見せず、弟の 弟猾 おとうかし はすぐにやってきた。 弟猾 おとうかし は軍営の門を拝してこう申し上げた。「私の兄の 兄猾 えうかし が反逆を 企 くわだ てております。天孫(彦火火出見)が今まさにこの地においでになると聞き、すぐさま兵を起こして襲おうとしていたところ、東征軍の威勢をはるかに望み見て、勝ち目のないことを恐れたのです。そこで企てを案じ、兵をひそかに伏せ、仮の新しい宮を建て、その建物の内に「人を圧殺するからくり機」を設け、饗宴に招待すると偽って誘い出し、罠にかけて討とうとしているのです。どうかこの偽りと企てを知り、よくお備えくださるようお願いします。」
彦火火出見はただちに 道臣命 みちのおみのみこと を遣わし、その反逆の様子を 窺 うかが わせた。 道臣命 みちのおみのみこと は、 兄猾 えうかし には確かに害意を抱いていることを詳しく察知し、激怒して責めなじり「卑しい敵め!うぬが造った宮に、うぬが自分で入ってみろ!」と荒々しい声で言った。さらに剣の柄に手をかけ、弓を強く引きしぼって追い立て、 兄猾 えうかし を建物に入らせた。 兄猾 えうかし は、天によって罰を受けるのと同じようにどうにも言い訳ができなくなり、ついに自ら中に入りからくり機を踏み、押しつぶされて死んだのである。それから 道臣命 みちのおみのみこと は 兄猾 えうかし の屍を引きずり出してバラバラに斬った。流れ出る血は 踝 くるぶし まで達した。それゆえ、その地を名づけて「 菟田血原 うだのちはら 」という。
弟猾は、大いに酒や肴を取り揃え、饗を催し東征の軍勢をねぎらいもてなした。彦火火出見はその 酒肴 しゅこう を兵士達に分け与え、そこで 御謡 みうた を詠んだ。
菟田の 高城 たかき に 鴫罠 しぎわな はる 我が待つや 鴫 しぎ は 障 さや らず いすくはし くぢら 障 さや り 前妻 こなみ が 肴 な 乞 こ はさば たちそばの 実の無けくを こきしひゑね 後妻 うはなり が 肴 な 乞 こ はさば いちさかき 実の多けくを こきだひゑね
(菟田の猟場である 高城 たかき に 鴫罠 しぎわな をかけた。獲物がかかるのを待っていると、 鴫 しぎ はかからず、なんと 鯨 くじら がかかった。先に娶った妻が 肴 さかな に欲しがったら、立木のソバの実のように肉の少ないところをいっぱいそぎ取ってやれ、新しい妻が 肴 さかな に欲しがったら、サカキの実のように肉の多いところをいっぱいそぎ取ってやれ。
これを 来目歌 くめうた と言う。今、「 楽府 うたまいのつかさ 」でこの歌を演奏するときは、手拍子や声の大きさに大小をつける。これは古式が今に残ったものである。
関連記事 神武紀|宇陀の兄猾と弟猾|弟は聡く帰順したが、兄は謀(はかりごと)を企んだのでさらして斬った件|分かる!神武東征神話No.1011. 吉野巡幸
その後、彦 火火出見 ほほでみ は吉野の地を視察しようとして、菟田の 穿邑 うがちのむら から、自ら軽装の兵を従えて巡幸した。
吉野に到着すると、井戸の中から出てくる者がいた。その姿は光り尾がある。彦 火火出見 ほほでみ は、「お前は何者か」と問うた。答えて「私めは 国神 くにつかみ で、名を 井光 いひか と申します」と言う。これは 吉野首 よしののおびと らの始祖である。
さらに少し進むと、また尾のある者が岩を押し分けて出てきた。彦火火出見が「お前は何者か」と問うと、その者は、「私めは 磐排別 いわおしわく の子です」と言った。これは 吉野国楳 よしののくにす らの始祖である。
川に沿って西に行くと、また、 梁 やな を設けて魚を取っている者がいた。彦火火出見が問うと、答えて「私めは 苞苴担 にえもつ の子です」と言う。これが 阿太 あだ の 養鸕 うかい らの始祖である。
関連記事 神武紀|吉野巡幸|先は敵ばっかりなので、まずは南の境界を固めようと思い立った件|分かる!神武東征神話No.1112. 香具土採取と顕斎
9月5日に、彦 火火出見 ほほでみ は、あの 菟田 うだ の 高倉山 たかくらやま の頂きに登り、辺り一帯をはるかに望み見た。
すると、その手前、 国見丘 くにみのおか には 八十梟帥 やそたける がいて、 女坂 めさか には「 女軍 めいくさ 」を、 男坂 おさか には「 男軍 おいくさ 」を配置し、 墨坂 すみさか には真っ赤に 焃 おこ っている炭を置いて士気を高めていた。女坂・男坂・墨坂の名は、これによって起こる。また、 磐余邑 いわれのむら には「 兄磯城 えしき 軍」があふれるほど満ちていた。これらの賊敵が陣を布くところは、どこも要害の地で、そのため道が 遮断 しゃだん されて 塞 ふさ がり、通れるところが無かった。
彦 火火出見 ほほでみ はこれを憎み、この夜、自ら祈って寝た。すると夢に 天神 あまつかみ が現れ、教えて言った。「 天香山 あまのかぐやま にある社の土を取って、『 天 あまの 平瓮 ひらか 』 八十枚をつくり、あわせて『 厳瓮 いつへ 』もつくり、 天神地祇 あまつかみくにつかみ を敬い祭るのだ。また、厳重な呪詛を 為 せ よ。そうすれば、賊どもは自ら平伏するだろう。」 彦 火火出見 ほほでみ は 謹 つつし んで夢の教えを承り、その通りに実行しようとした。
ちょうどその時、弟猾もまたこのようなことを申し上げた。「 倭国 やまとのくに の 磯城 しきの 邑 むら に『 磯城 しきの 八十梟帥 やそたける 』がおります。また、 高尾張 たかおわりの 邑 むら に『 赤銅 あかがねの 八十梟帥 やそたける 』がおります。この連中はみな、天皇を拒絶して戦おうとしております。私めはひそかにこれを憂慮しております。どうか、今まさに天香山の 埴土 はにつち を取って『 天 あまの 平瓮 ひらか 』を造り、それで 天社国社 あまつやしろ・くにつやしろ の神をお祭りください。その後、賊を攻撃すれば容易く排除できます。」 彦 火火出見 ほほでみ は、すでに夢の教えを吉兆としていたが、今、 弟猾 おとうかし の言葉を聞いて、ますます心のうちに喜んだ。
そこで、 椎根津彦 しいねつひこ にヨレヨレになった破れた衣服と 蓑笠 みのがさ を着せて「 老夫 おきな 」の姿を装わせた。また、弟猾には 箕 みの を被らせ「 老婆 おみな 」に姿を装わせた。そして、勅して言った。「お前たち二人は天香山まで行って、密かにその頂の土を取って戻って来るのだ。東征の大業が成就するか否かは、お前たちが土を取って来れるか否かで占うことにしよう。努めて慎重に行うように。」
この時、賊兵は香具山へ行く道にあふれていて行き来することが難しかった。そこで、椎根津彦は 祈 うけい をして言った。「我が君がまさしくこの国を平定することができるならば、行く道は自ら通れるだろう。もし平定できないのであれば、賊が必ず阻止するだろう。」 言い終ると直ちに天香山へ向かって行った。
彦 火火出見 ほほでみ は大いに喜び、この香具山で採取した 埴土 はにつち で「 八十平瓮 やそひらか 」と「 天 あまの 手抉 たくしり 八十枚 やそひら 」そして「 厳瓮 いつへ 」を作り、丹生川のほとりにのぼり 天神地祇 あまつかみくにつかみ を祭った。すると、あの菟田川の朝原で、水の泡立ちのように呪詛が立ち現れた。
彦火火出見はまた 祈 うけい をして言った。「私は今、 八十平瓮 やそひらか で、水を使わずに 飴 たがね を作ろう。もし飴ができれば、私は武器の威力を借りずに、居ながらにして天下を平定するであろう。」 そこで、飴を作ると、自然にできあがった。
また 祈 うけい をして言う。「私は今、 厳瓮 いつへ を丹生川に沈めよう。もし魚がその大小にかかわらず、皆酔って流れる様子が、ちょうど 柀 まき の葉が水に浮いて流れるようであるならば、私は必ずこの国を平定することになるであろう。もしそうでないならば、ついに事は成就しないだろう。」 そこで 厳瓮 いつへ を川に沈めた。するとその口が下に向き、しばらくすると魚が皆浮き上がってきて、流れながら口をぱくぱくさせた。 椎根津彦 しいねつひこ はこれを見て報告したところ、彦火火出見は大いに喜び、丹生川のほとりの「 五百箇真坂樹 いほつまさかき 」を根っこごと抜き取り、神々を祭った。この時から、厳瓮を据えて神を祭ることが始まる。
その時、彦 火火出見 ほほでみ は 道臣命 みちのおみのみこと に勅して言った。「これから『 高皇産霊尊 たかみむすびのみこと 』を祭神として、私自身が『 顕斎 うつしいはい 』 を執り行う。お前を斎主として、『 厳媛 いつひめ 』の名を授ける。そして、祭りに置く 埴瓮 はにへ を『 厳瓮 いつへ 』と名付け、また火を『 嚴香來雷 いつのかぐつち 』と名付け、水を『 嚴罔象女 いつのみつはのめ 』、食べものを『 厳稲魂女 いつのうかのめ 』、薪を『 厳山雷 いつのやまつち 』、草を『 厳野椎 いつのつち 』と名付けよう。」
関連記事 天香山の埴土採取と顕斎|夢に見た天神の教えにより丹生川上で祭祀!それでもって敵を撃破しようとした件|分かる!神武東征神話No.12冬、10月1日に、彦 火火出見 ほほでみ は、その 厳瓮 いつへ に盛った神饌を口にし、兵を整えて出陣した。
まず、敵の主力部隊を 国見丘 くにみのおか で撃ち、これを破り斬った。この戦いでは、彦 火火出見 ほほでみ は必ず勝つという志を持っていた。そこで 御謡 みうた を詠んだ。
神風の 伊勢の海の 大石にや い這ひ廻る 細螺 しだたみ の 吾子よ 細螺 しだたみ の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ
(神風が吹く伊勢の海の大石に這いまわる 細螺 しだたみ の如き吾が兵士よ、細螺のように国見丘を這いまわって、徹底的に(敵を)撃ちのめしてやれ。)
その後でも、打ち破った 八十梟帥 やそたける の残党がなお多数いて、情勢は予断を許さない。
そこで、彦 火火出見 ほほでみ は振り返って道臣命に命じた。「お前は「 大来目部 おおくめら 」を率いて、 忍坂邑 おさかむら に大きな 室 むろ を造り、盛大に饗宴を催し、賊どもをおびき寄せて討ち取れ。」
道臣命はこの密命を承り、忍坂に地面に穴ぐらを掘って 室 むろ とし、大来目部の勇猛な兵を選び、賊のあいだに紛れこませた。そして、密かに手筈を定め命じた。「酒宴が盛りをすぎたあと、私が立ち上がって歌を歌おう。お前たちは私の歌う声を聞いたと同時に、一斉に賊どもを刺し殺せ。」
忍坂 おさか の 大室屋 おほむろや に 人 多 さは に 入り 居 を りとも 人 多 さは に 来入り居りとも みつみつし 来目 くめ の子らが 頭槌 くぶつつ い 石椎 いしつつ い 持 も ち 撃ちてし止まむ
(忍坂の大きな 室屋 むろや に、人が大勢いても、人が大勢入っていようとも、勇猛な 来目 くめ の者たちが、 頭槌 くぶつち の太刀、 石槌 いしつつ の太刀を持って(敵を)撃たずに止むものか)
その時、こちらの兵士はこの歌を聞き、一斉に 頭槌 くぶつち の剣を抜き、一気に賊を斬り殺した。賊の中に生き残る者は一人もいなかった。東征の軍は大いに喜び、天を仰いで笑った。そこでこのように歌った。
今はよ 今はよ ああしやを 今だにも 吾子 あご よ 今だにも 吾子 あご よ
(今はもう、今はもう、あっはっは、今だけでも 吾が子たちよ(戦士たちよ) 今だけでも 吾が子たちよ(戦士たちよ))
蝦夷 えみし を 一人百な人 人は言へども 手向かひもせず
( 蝦夷 えみし を一人が百人にあたる猛者と人は言うが、(来目部の戦士の前には)手向かいもしないぞ)
関連記事 神武紀|国見丘の戦いと忍坂掃討作戦|すごいぞスーパー彦火火出見!敵軍撃破!残党掃討!そのパワーほんと流石な件|分かる!神武東征神話 No.1311月7日に、東征軍は大挙して「 磯城彦 しきひこ 」を攻撃しようとした。
先ず、使者を派遣して「 兄磯城 えしき 」を召したが、兄磯城はその命に従わなかった。そこで、今度は 八咫烏 やたがらす を派遣して召した。烏は 兄磯城 えしき の軍営に到り鳴き声をあげ、「 天神子 あまつかみこ が、お前を召されている。さあ、さあ(招きに応じよ)」と言った。兄磯城はこれを聞いて激怒し、「 天圧神 あまのおすかみ がやって来たと聞き、今まさに憤慨している時に、どうして烏めがこんなに嫌なことを鳴くのか。」と言い、弓を引きしぼって烏めがけて射ると、烏はすぐさま逃げ去った。
次に、八咫烏は「 弟磯城 おとしき 」の家にやってきて鳴き声をあげて、「 天神子 あまつかみこ が、お前を召されている。さあ、さあ。」と言った。この時、弟磯城は恐れ畏まって居ずまいを正し、「臣である私は、 天圧神 あまのおすかみ がやってこられたと聞き、朝に晩に大変かしこまっておりました。まったく素晴らしいことです、烏よ。あなたがこんな風に鳴いてくれたのは。」と言い、さっそく 葉盤 ひらで 八枚を作って食べ物を盛り、烏をもてなした。
そして、烏のあとに従って彦 火火出見 ほほでみ のもとに参上し、「私の兄の 兄磯城 えしき が、 天神子 あまつかみこ がいらっしゃったと聞き、八十梟帥を集めて武器を準備し、決戦を挑もうとしております。早急に手だてを講じなさいませ。」と言った。
彦 火火出見 ほほでみ は、すぐさま将たちを集め、問うた。「今、兄磯城は、やはり反逆の意があり、召してもやって来ない。どうしたらいいだろうか。」 将たちは、「兄磯城は悪賢い賊です。まずは弟磯城を派遣してしっかりと諭し、あわせて兄倉下と弟倉下も説得させるのがよいでしょう。それでも帰順しないのであれば、その後に兵を挙げて戦いに臨んでも遅くはありません。」と申し上げた。
そこで弟磯城を遣わし、利害を明らかに示して分からせようとした。しかし、兄磯城らはなお愚かな 謀 はかりごと に固執し、帰伏するのをよしとしなかった。
その時、 椎根津彦 しいねつひこ が計略をめぐらせて言った。「この上は、まず我が 女軍 めいくさ を遣わして、忍坂の道から出陣させましょう。これを賊が見れば必ずや精鋭部隊を残らずそこに向かわせるはずです。私は、勇猛な兵を馬で走らせ直ちに墨坂を目指し、菟田川の水を取って墨坂に置く炭火に注ぎ火を消し不意をつけば、敵の敗北は間違いありません。」
彦 火火出見 ほほでみ はその計略を「 善 よ し」とし、そこで女軍を出陣させて敵の動向をうかがった。果たして、賊は大軍がすでに押し寄せて来たと思い込み、全戦力を挙げて待ち受けた。
ところで、これより前のことであるが、東征軍は攻めては必ず敵の陣地を取り、戦っては必ず勝利してきた。しかし兵士たちが疲弊しないわけではなかった。そこで、彦火火出見は「 御謠 みうた 」をつくって、将兵の心を慰撫した。
楯並 たたな めて 伊那瑳 いなさ の山の 木 こ の 間 ま ゆも い 行 ゆ き 見守 まも らひ 戦えば 我はや 飢 ゑ ぬ 島 しま つ鳥 鵜飼 うかい が 伴 とも 今助けに来ね
( 伊那瑳 いなさ の山の木の間を通って、敵がいつ襲ってくるかと見張りながら戦っていると、私はいよいよ腹が減ってしまったよ。 鵜飼 うかい のものどもよ、今すぐ(うまい鮎をさし入れて)助けに来てくれ。)
このように戦意を鼓舞した上で、ついに 男軍 おいくさ を率いて 墨坂 すみさか を越え、先に出陣させた 女軍 めいくさ と後方から挟み撃ちにして賊を破り、首領の兄磯城らを斬り殺した。
関連記事 兄磯城討伐・磐余制圧|戦う前に意思確認?臣下献策まま実行?それはきっと神武の成長と分かってきた感覚の件|分かる!神武東征神話 No.1415. 長髄彦最終決戦
その時、突然、空がかき曇り 雹 ひょう が降ってきた。すると、金色の霊妙な 鵄 とび が飛来し、彦火火出見の弓の 弭 はず に止まった。その鵄は燃える火のように輝き、稲妻のように光を放った。この光に打たれ長髄彦の軍兵はみな目が 眩 くら み惑って、もはや反撃して戦うことができなくなった。
長髄というのは、 邑 むら のもともとの名である。それに因んで人の名前にもつけたのである。東征軍が鵄の「 瑞 みつ 」を得たことで、時の人は、それによりこの地を「 鵄邑 とびむら 」と名付けた。今、「 鳥見 とみ 」というのは、それが訛ったものである。
昔、孔舎衛の戦いで、 五瀬命 いつせのみこと が矢に当たって亡くなった。彦 火火出見 ほほでみ は、このことを心に留め、常に憤りや恨みを抱いていた。そのため、この長髄彦との戦いにおいては、皆殺しにしてやろうとした。
みつみつし 来目 くめ の子らが 垣本 かきもと に 粟生 あはふ には 韮 かみら 一本 ひともと 其のが 本 もと 其ね 芽 め 認 つな ぎて 撃ちて 止 や まむ
(来目部の勇猛な戦士たちの垣根のもとに 粟 あわ が生えた中に、くさい 韮 にら が一本生えている。その根やその芽を探し出すように敵を探し出して撃たずには止むものか。)
みつみつし 来目 くめ の子らが 垣本 かきもと に 植 う ゑし 山椒 はじかみ 口 くち 疼 ひび く 我 われ は忘れず 撃ちてし 止 や まむ
(来目部の勇猛な戦士たちの垣根の元に植えた 山椒 はじかみ を食べると口がいつまでもヒリヒリする。そのようにいつまでも恨みを忘れてはいない。(敵を)撃たずには止むものか。)
よって、兵卒を放って敵を急襲した。これらの御謡はみな 来目歌 くめうた という。この名はすべて歌の担い手(来目)によって名付けたものである。
この時、長髄彦は 行人 つかい を遣わして、 彦火火出見 ひこほほでみ に告げた。「かつて、天神の子が 天磐船 あまのいわふね に乗り、天から降臨された。名を 櫛玉饒速日命 くしたまにぎはやひのみこと と言う。この神が我が妹の 三炊屋媛 みかしきやひめ を娶り、ついに御子をもうけた。名を 可美真手命 うましまでのみこと と言う。それ故、吾れは 饒速日命 にぎはやひのみこと を主君として奉っている。そもそも天神の子の血筋が二つあるなどということがあろうか。なぜまた「 天神子 あまつかみこ 」と称して、人の土地を奪おうとするのか。吾が心に推察するに、これではとうてい真実とみなすことはできない」。
彦火火出見 ひこほほでみ は答えて、「 天神 あまつかみ の子といっても大勢いる。お前の主君とする者が本当に 天神 あまつかみ の子ならば、必ずそのしるしとなる物があるはずだ。それを見せてみよ」と言った。 長髄彦 ながすねびこ は早速、 饒速日命 にぎはやひのみこと の 天羽羽矢 あめのははや 一本と 歩靫 かちゆき とを取って彦 火火出見 ほほでみ に献上して見せた。彦 火火出見 ほほでみ はそれをよく見て「間違いない」と言い、今度は自分が身に付けていた 天羽羽矢 あめのははや 一本と 歩靫 かちゆき とを長髄彦に下し示した。長髄彦はその 天表 あまつしるし を見て、いよいよ敬い 畏 かしこ まる気持ちを懐いた。しかし、武器を構えたその勢いは途中で止めることができず、なお迷妄な 謀 はかりごと に固執して、少しも心を改めることはなかった。
饒速日命 にぎはやひのみこと は、もともと 天神 あまつかみ が深く心にかけて味方しているのは天孫だけであることを知っていた。そのうえ、かの 長髄彦 ながすねびこ は生来の性質がねじ曲がっていて、天と人との分際(身のほど)を教えるべくもないと見てとり、そこで長髄彦を殺し、その配下の兵卒を率いて帰順した。
彦 火火出見 ほほでみ は、初めから 饒速日命 にぎはやひのみこと が天から降った者であることを聞いており、今、はたして忠義の功を立てたので、これを褒めて 寵愛 ちょうあい した。これが物部氏の遠祖である。
関連記事 長髄彦最終決戦|分からんちんども とっちめちん!手前勝手な理屈ばかりで道理無しのスネ長男をイテこました件|分かる!神武東征神話 No.1516. 中洲平定と事蹟伝承
己未 つちのとひつじ の年(紀元前662年)春2月20日、彦 火火出見 ほほでみ は将たちに士卒の訓練を命じた。
この時、 層富県 そほのあがた の 波哆 はた の 丘岬 おかさき に「 新城戸畔 にいきとべ 」という者がいた。また、 和珥 わに の 坂下 さかもと に「 居勢祝 こせのはふり 」という者がいた。 臍見 ほそみ の 長柄 ながら の 丘岬 おかさき には「 猪祝 いのはふり 」という者がいた。これら三か所の 土蜘蛛 つちぐも は、みな己の勇猛さを 恃 たの みにし、あえて帰順しなかった。彦火火出見はそこで、軍勢を分けて派遣し、これらをことごとく誅殺した。
また、 高尾張邑 たかおわりのむら に 土蜘蛛 つちぐも がいて、その体つきは、身の丈が低く手足が長くて 侏儒 しゅじゅ に似ていた。東征の軍は、 葛 くず で網を結い、急襲して一挙に殺した。これにより、その邑の名を改めて「 葛城 かつらぎ 」という。
さてまた「 磐余 いわれ 」の地のもとの名は「 片居 かたる 」または「 片立 かたたち 」といった。東征の軍が賊を打ち破ったとき、たくさんの兵が集まりその地に満ちあふれた。これにより名を「 磐余 いわれ 」と改めたのである。
あるいはこうも言う。以前に、彦火火出見は 厳瓮 いつへ にそなえた神饌を食し、西方を征討しに軍を出陣させた。この時、 磯城 しき の 八十梟帥 やそたける らが、その地に大勢たむろしていた。果たして、彦火火出見と大きな戦いになり、ついに滅ぼされた。そこで、その地を「 磐余邑 いわれのむら 」と名付けたのであると。
また東征の軍が雄叫びをあげた所を「 猛田 たけた 」といい、 城 き をつくった所を「 城田 きだ 」という。また、敵の軍勢が戦死し倒れた死骸が、互いの 臂 ひじ を枕にして折り重なった場所を「 頰枕田 つらまきた 」という。
彦火火出見は、前年の秋九月に、ひそかに天香山の 埴土 はにつち を取り、それで八十平瓮を作り、自ら 斎戒 さいかい して神々を祭った。そして今、ついに天下を平定することができた。それゆえ、土を取った所を名付けて「 埴安 はにやす 」という。
関連記事 中洲平定と事蹟伝承|大和平野各地の土蜘蛛さんを叩いて平定完了!あとは東征の事蹟を伝えておきたい件|分かる!神武東征神話 No.163月7日、彦 火火出見 ほほでみ は命令を下した。「私が自ら東征に出発してからから、これまでに六年が過ぎた。この間、 天神 あまつかみ の神威を頼りとし、凶暴な賊どもは 誅殺 ちゅうさつ された。遠く辺境の地はいまだ静まらず、敵残党はなお残っているが、 中洲 なかつしま の地はもはや兵乱に風塵がたつことはない。今まさしく、天皇の都を大きく広げ、大壮を規範として 倣 なら うのがよい。 しかるに今、時は世のはじめにあたり、民心は素朴である。彼らは穴に住み、未開の風習が常である。そもそも、聖人が制度を定めれば、大義は必ず時勢に叶うものである。いやしくも民の利益となることがあれば、聖人の 業 わざ を妨げるものはないであろう。 今こそ、山林を伐り開き、宮殿を造営し、 謹 つつ んで皇位に即いて、人民を安んじ治めなければならない。上にあっては 天神 あまつかみ がこの国を授けた徳に応え、下にあっては 皇孫 こうそん が正義を養育した心を広めよう。そして世界をひとつに合わせ都を開き、天下を 覆 おお ってひとつの家とするのだ。なんと素晴らしいことではないか。 見渡せば、あの 畝傍山 うねびやま の東南の橿原の地は、思うに周囲を山に囲まれ、国の奥深くにある安住の地であろう。この地を整備しよう。」
関連記事 橿原奠都の詔と八紘為宇|東征開始から6年が経過した今、天照から始まる神々の系譜や政治を踏まえ素晴らしい国をつくろうとした件|分かる!神武東征神話 No.1718. 正妃 蹈韛五十鈴媛命
庚申 かのえさる の年(紀元前661年)、秋8月16日、彦火火出見は正妃を立てようとして、改めて広く高貴な血筋の 女 むすめ を求めた。その時、ある者が「 事代主神 ことしろぬしがみ が 三島溝橛耳神 みしまのみぞくいみみのかみ の 女 むすめ である 玉櫛媛 たまくしひめ と生んだ子で、名を「 媛蹈韛五十鈴媛命 ひめたたらいすずひめのみこと 」と申します。この者は国中でもとりわけ麗しい美人です」と申し上げた。彦火火出見はこれを喜んだ。
9月24日、 媛蹈韛五十鈴媛命 ひめたたらいすずひめのみこと を迎え入れて正妃とした。
関連記事 正妃 媛 蹈韛五十鈴媛命|現妻さしおき新たに正妃をお迎えす。いや、コレには深~い理由(ワケ)があって、、、の件|分かる!神武東征神話 No.18辛酉 かのととり の年(紀元前660年)春、正月1日、彦 火火出見 ほほでみ は 橿原宮 かしはらのみや で帝位に即いた。この年を 天皇 すめらみこと の元年とした。また、正妃を尊んで 皇后 きさき とし、皇子の 神八井命 かむやいのみこと と 神淳名川耳尊 かむぬなかわみみのみこと を生んだ。
そこで、古くからの言い習わしとして「畝傍の橿原に、大地の底の磐の根に宮柱をしっかりと立て、千木を高天原に届くまで高くそそり立たせて、初めて天下を治めた 天皇 すめらみこと 」と称えているのである。名付けて「 神日本磐余彦火火出見天皇 かむやまといわれびこほほでみのすめらみこと 」という。
初めて、天皇が 天日嗣 あまつひつぎ の大業を草創した日、大伴氏の遠祖である 道臣命 みちのおみのみこと は、 大来目部 おおほくめら を率いて秘策を承り、 諷歌 そえうた や 倒語 さかしまごと を巧みに用いて災いや邪気を全て払った。 倒語 さかしまごと が用いることは、ここに初めて起こったのである。
関連記事 橿原宮即位と東征完結|歴史はココから始まる。橿原宮で即位し世界最古の国「日本」をつくった件|分かる!神武東征神話 No.1920. 論功行賞と国見
2年(紀元前659年)春2月2日、神武天皇は臣下の功績を評定して褒賞を行った。道臣命には、宅地を与え 築坂邑 つきさかのむら に居所を与えられて、ことに 寵愛 ちょうあい された。また 大来目 おおくめ には、 畝傍山 うねびやま より西の川辺の地に居所を与えられた。今、 来目邑 くめむら というのは、これがその由縁である。そして、 珍彦 うづひこ を 倭国造 やまとのくにのみやつこ とされた。また、 弟猾 えうかし に 猛田邑 たけたのむら を与えられ、それで 猛田県主 たけたのあがたぬし とされた。これは 菟田主水部 うだのもひとりら の遠祖である。 弟磯城 おとしき 、名は 黒速 くろはや を 磯城県主 しきのあがたぬし とされた。また 剣根 つるぎね という者を 葛城国造 かずらきのくにのみやつこ とされた。また、 八腿烏 やたからす も褒賞にあずかった。その子孫は 葛野主殿県主部 かずののとのもりのあがたぬしら である。
4年(紀元前657年)春2月の23日、神武天皇は 勅 みことのり して仰せられた。「我が皇祖の 神霊 みたま が天から地上をご覧になって、我が身を照らし助けてくださった。今、すでに諸々の賊は平定され、国内は平穏である。 天神 あまつかみ を 郊祀 まつ って、 大孝 たいこう の志を申しあげねばならぬ。」そこで、 鳥見山 とみのやま の中に斎場を設けて、その地を名付けて 上小野 うえつおの の 榛原 はりはら ・ 下小野 したつおの の 榛原 はりはら といい、もって皇祖である天神を祭った。
31年夏4月1日に、神武天皇は国中を 巡幸 じゅんこう された。その時、 腋上 わきがみ の 嗛間丘 ほほまのおか に登って、国の状況を眺めめぐらせ「ああ、なんと美しい国を得たことよ。山に囲まれた小さな国ではあるが、あたかも 蜻蛉 あきづ が交尾している形のようだ。」と仰せられた。これにより、初めて「 秋津洲 あきづしま 」という名が起こったのである。
昔、 伊奘諾尊 いざなきのみこと がこの国を名付けて、「 日本 やまと は 浦安 うらやす の国、 細戈 くわしほこ の 千足 ちだ る国、 磯輪上 しわかみ の 秀真国 ほつまくに 」と仰せられた。また、 大己貴大神 おおなむちのおおかみ は名付けて、「 玉牆 たまかき の内つ国」と言われた。 饒速日命 にぎはやひのみこと が 天磐船 あまのいわふね に乗って 虚空 おおぞら を飛翔して、この国を見おろして 天降 あまくだ ったので、名付けて、「 虚空見 そらみ つ 日本 やまと の国」と言われた。
42年(紀元前619年)春正月の3日に、神武天皇は、皇子の 神淳名川耳尊 かむぬなかわみみのみこと を立てて皇太子とされた。
翌年秋9月12日に、畝傍山 東北陵 うしとらのみささぎ に葬った。
関連記事 論功行賞と国見|エピローグ!論功行賞を行い、国見をして五穀豊饒の国「秋津洲」を望み見た件|分かる!神武東征神話 No.20本記事監修:(一社)日本神話協会理事長、佛教大学名誉教授 榎本福寿氏 参考文献:『古代神話の文献学』(塙書房)、『新編日本古典文学全集 日本書紀』(小学館)、『日本書紀史注』(風人社)、『日本古典文学大系『日本書紀 上』(岩波書店)、他
[itemlink post_id=”13035″] [itemlink post_id=”13037″] [itemlink post_id=”13038″] [itemlink post_id=”13039″]
どこよりも分かりやすい日本神話解説シリーズはコチラ!
関連記事 日本書紀 現代語訳 天地開闢から日本建国までの日本神話 関連記事 古事記 神話 現代語訳 天地初発から日本建国までの日本神話 関連記事 天地開闢とは? 日本神話が伝える天地開闢を、日本書紀や古事記をもとに分かりやすく徹底解説! 関連記事 国生み神話とは?伊奘諾尊・伊奘冉尊の聖婚と大八洲国(日本)誕生の物語!国生み神話を分かりやすくまとめ! 関連記事 【保存版】神武東征神話を丸ごと解説!東征ルートと地図でたどる日本最古の英雄譚。シリーズ形式で分かりやすくまとめ!日本神話編纂の現場!奈良にカマン!
関連記事 【保存版】飛鳥浄御原宮|日本神話編纂のふるさと!歴史書の編纂というビッグプロジェクトがスタートした超重要スポット 関連記事 【保存版】藤原宮跡|藤原京の中心施設「藤原宮」の跡地!周辺施設や跡地も含めて藤原宮跡の全貌まとめ! 関連記事 平城宮跡歴史公園|日本神話完成の地!歴史と神話ロマンを存分に味わえる平城宮跡歴史公園の全貌をまとめてご紹介! 最後までお読みいただきありがとうございます。お気軽にコメントされてくださいませ。お待ちしております!コメントをキャンセル日本神話.comへお越しいただきありがとうございます。 『日本書紀』や『古事記』をもとに、最新の文献学的学術情報を踏まえて、どこよりも分かりやすく&ディープな日本神話の解釈方法をお届けしています。 これまでの「日本神話って分かりにくい。。。」といったイメージを払拭し、「日本神話ってオモシロい!」「こんなスゴイ神話が日本にあったんだ」と感じていただける内容を目指してます。日本神話研究の第一人者である佛教大学名誉教授の榎本先生の監修もいただいているので情報の確かさは保証付き!文献に即して忠実に読み解きます。 豊かで多彩な日本神話の世界へ。是非一度、足を踏み入れてみてください。 参考文献:『古代神話の文献学』(塙書房)、『新編日本古典文学全集 日本書紀』(小学館)、『日本書紀史注』(風人社)、『日本古典文学大系『日本書紀 上』(岩波書店)他
日本神話.com 人気の投稿 カテゴリー 最近の投稿 天照大神と素戔嗚尊の誓約|『日本書紀』巻第一(神代上)第六段 本伝 『古事記』中巻|神武東征神話⑥ 大和攻略と白檮原宮即位 『古事記』中巻|神武東征神話⑤ 宇陀の兄宇迦斯と弟宇迦斯 『古事記』中巻|神武東征神話④ 八咫烏の先導と吉野巡幸 『古事記』中巻|神武東征神話③ 熊野陸難と天照大神・高木神の救援- 1 『日本書紀』巻第一(神代上)
- 1.1 『日本書紀』第一段 現代語訳
- 1.2 『日本書紀』第二段 現代語訳
- 1.3 『日本書紀』第三段 現代語訳
- 1.4 『日本書紀』第四段 現代語訳
- 1.5 『日本書紀』第五段 現代語訳
- 1.6 『日本書紀』第六段 現代語訳
- 1.7 『日本書紀』第七段 現代語訳
- 1.8 『日本書紀』第八段 現代語訳
- 2.1 『日本書紀』第九段 現代語訳
- 2.2 『日本書紀』第十段 現代語訳
- 2.3 『日本書紀』第十一段 現代語訳
- 3.1 『日本書紀』神武紀 現代語訳
© 2026 日本神話.com All Rights Reserved.